形而上学的な思索
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 04:59 UTC 版)
中国古典を題材にした『山月記』などにも私小説的な面があり、虎に変身する李徴は中島自身の投影だとたびたび指摘されているが、その作風に至る以前の、「三造」という現実の中島本人と同じ設定の主人公が登場する私小説作品群は、自我がテーマになっているものが多く、宇宙の虚無や存在の不確かさの観念にとりつかれて、そこから生まれる形而上学的不安を対象化し哲学的懐疑を深める思索が見られる。 その代表的な『過去帳』の1篇『狼疾記』では、11歳のころに担任教師からいつかは太陽が冷えて地球が滅亡する運命や、存在の無意味さの話を執拗に聞かされてから、しばらく神経衰弱になってしまい世界の虚無に戸惑った原体験が綴られ、さらにその自我の不安や不確かさを掘り下げた1篇『かめれおん日記』も女学校という社会における教師の「三造」の自己検証がテーマとなっている。 また『狼疾記』には、『北方行』の原稿からの転用・流用が多くある。未完で放棄された長編『北方行』では、自身を投影させた主人公「黒木三造」と「折毛伝吉」という2人の人物に自己の内面表白をさせ、その描写にかなりの量を費やされてしまっているが、それは大きな社会や歴史の中での自己検証であり、当時の戦争や革命運動、民族や国家、言語や文化、芸術や愛・性にまでわたって人間をとらえていこうとした未完の意欲作であったとされる。 青木純一は、『李陵』を書かせた筆力で、もし『北方行』が完成されていたならば、西欧化した日本人の自意識の地獄を、アジアを背景に摘出した作品という意味で、横光利一の『上海』に拮抗する唯一の作品になっていた可能性があるとしている。なお、『北方行』の原稿はそのほかにも、『かめれおん日記』『光と風と夢』『山月記』にも部分的に転用されている。 『狼疾記』の線上にある形而上学的・哲学的な思索は、未完の『わが西遊記』の中の2篇(悟浄出世、悟浄歎異)にも見られ、ピュロンを思わせる懐疑派に設定している主人公の沙悟浄の懐疑や、『古譚』の1篇『文字禍』での、「文字」が意味のない単なる線の交錯に見えてくるという博士の懐疑につながっている。そしてそうした懐疑から独特のユーモアやアイロニーが発せられているのが、中島の作品の特徴や魅力でもある。 その『わが西遊記』などは、既存の古典作品の設定や登場人物を利用しつつ、私小説の「三造」物の形而上学的・哲学的な自我の不安のテーマを俯瞰的な形で客観視・劇画化したものであるが、こうした試みが中島の小説手法として確立されたのが、作品舞台の時代を遠い過去や歴史に設定した『文字禍』を含む『古譚』4篇からであった。
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