ミロクとの提携とは? わかりやすく解説

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ミロクとの提携(プレ・ミロク時代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/17 18:04 UTC 版)

K.F.C. (散弾銃)」の記事における「ミロクとの提携(プレ・ミロク時代)」の解説

昭和25年(1950年)、連合国軍総司令部(GHQ)は連合国軍占領下の日本対し平和産業一環として猟銃製造再開許可昭和26年(1951年)には高知県ミロク工作所元折式単身銃により戦後散弾銃市場参入した。しかし、銃工の弥勒武吉及び井戸千代亀を創業者として擁したとはいえども、元々は捕鯨砲メーカーとして創業したミロク漁港関係以外に有力な販売網を持たなかった事から、戦前以来猟銃業界大手であったK.F.C.に自社散弾銃OEM供給し、全国展開を行う事としたのであるミロク捕鯨の際に使用する事を目的とした標識撃ち込む為の標識銃をK.F.C.側が高く評価し猟銃製作への応用打診した事も両社提携後押しとなったミロクはK.F.C.と提携した翌年昭和27年(1952年)には水平二連散弾銃昭和36年(1961年)には上下二連散弾銃のK.F.C.・Oシリーズ発売したミロクからOEM供給された元折二連散弾銃は、海外ではボックスロック水平二連英国のアンソン・アンド・デイリー、サイドロック水平二連のK.F.C.・Fシリーズホーランド・アンド・ホーランド英語版)、上下二連のK.F.C.・Oシリーズブローニング・スーパーポーズド影響強く受けた設計であると評価され、そのどれもが非常に精緻な仕上げ品質を持つものとして認知されており、日本国内でも多数セールス記録した実例としては、米国アウトドア誌「フィールド・アンド・ストリーム(英語版)」が平成19年(2007年)に選出した「The 50 Best Shotguns Ever Made(今まで製造され散弾銃ベスト50)」では、ミロクがK.F.C.時代昭和38年(1963年)にチャールズ・デーリー(英語版)社を通じて北米輸出行っていたチャールズ・デーリー-ミロク上下二連は、同年オリン晃電社製造始まったウィンチェスター M101上下二連共々それまでジャンク品同義であったMade in Japan対す米国人認識根本から覆したライジングサン如きであった」という評価与えられており、米国人銃器研究者であるチャック・ホークスは、チャールズ・デーリー-ミロク時代水平二連にも高い評価与えており、「チャールズ・デーリー-ミロク M500当時リテール価格から考えて過剰品質に近い造りであり、今日中古市場でも未だ過小評価気味の価格な為、程度良いものがあれば購入値するだけの価値がある。」と記していた。 クレー射撃に於いては、K.F.C.が昭和38年(1963年)よりニュージーランドのアトラス・トレーディング社を通じてオセアニア方面への輸出行っていたKawaguchiya Model OTが、1963年マッキントッシュトラップ射撃において、ニュージーランド選抜チームジェラルド・F・メッセンジャーにより320満射という記録叩き出している。メッセンジャー1962年ニュージーランド北島選手権よりK.F.C. OT用いて勝利を重ね1963年ニュージーランド選手権制覇するなどの活躍見せており、アトラス社は昭和40年(1965年)にはK.F.C. OT/OM/OS上下二連の他、K.F.C. M33単発単身銃輸入を手がけていたが、ミロク同年3月よりオーストラリアのフラー・ファイアーアームズ社と提携してスターリング-ミロクブランドを立ち上げ以降オセアニア方面にはフラー社を通じて輸出切り替えられたため、同年11月までにはアトラス社を通じた輸出終了した。 なお、実際にサイドロックや両引引金モデル水平二連除いては、K.F.C.の上下二連は昭和40年(1965年)の時点撃鉄ばねに松葉ばね、ボックスロック水平二連の単引引金モデル昭和43年(1968年)の時点撃鉄ばねにコイルばね用いるなど、手本とされた銃にミロク独自の改良加えられていた。 昭和35年(1960年)には、村田猟銃向けの真鍮薬莢納入実績があった旭大工業(AOA)と共同紙製薬莢用いた散弾実包英語版)の既製品(機械装弾)の発売開始し同年以降10年間で猟銃所持者の数が3倍になるという空前好況の中、K.F.C.は着実に業績伸ばしていった。 K.F.C.は戦前より海外銃器メーカー輸入代理店数多く務めていたこともあり、海外メーカーとのライセンス契約でも強みがあった。昭和40年(1965年)、K.F.C.は戦前軍用機関銃製造実績があったパインミシン製造(シンガー日鋼)に製造委託し、反動利用式半自動式散弾銃英語版)のブローニング・オート5国産化したK.F.C.・パインオート(単にK.F.C.オートとも)の販売開始。パインオートは当時本家オート5にもまだ存在しなかった外装式交換チョーク英語版)を国産散弾銃史上初め採用していた事が最大特徴で、本家オート5との部品の互換性高かった事から、オート5の銃身交換チョーク化する目的で、パインオートの銃身のみを替え銃身として転用する用途でも後年まで重宝された。 なお、この時採用され外装式交換チョークは全絞り(フルチョーク)・半絞り(ハーフチョーク)・スキート3種類が用意されシンガー日鋼後年製造した全ての半自動散弾銃銃身採用されたが、K.F.C.のオリジナルではなくイタリアブレーダ昭和28年(1953年)に発売した反動利用式オートのブレーダ・アルテアで、散弾銃史上初め採用され交換チョークシステムであるクイックチョークシステムと非常に類似したものであった。 K.F.C.の銃器事業絶頂期第18回オリンピック競技大会(1964年東京オリンピック)が開催され昭和39年(1964年)前後で、雑誌広告だけでなくテレビCM打てるだけの実力持っており、昭和43年(1968年)には旭精機共同出資樹脂薬莢英語版)を用いた機械装弾メーカーである東京カートリッジ株式会社設立火薬卸売部門昭和38年(1963年)に日本火薬卸売業会理事、次いで昭和46年(1971年)には同理事長にK.F.C.の林英男就任するなど、文字通り日本銃器業界最大手地位確かなものとしていた。 しかしその一方で、K.F.C.を通じて販売されるミロク製元折二連散弾銃は、弥勒武吉井上千代亀の頭文字にちなんミロク本来のブランド名であるB.C. Miroku直接名乗る事は許さず代わりにB.C. My luckというロゴ表記のみで妥協せざるを得ない状況強いていたのも事実であり、ミロクはK.F.C.が国内向け散弾銃増産指示する中、「将来見越した経営戦略として昭和41年(1966年)に米国ブローニング・アームズ昭和46年(1971年)にはベルギーファブリック・ナショナル相次いで業務提携行い、「時期到来を待つ」という、K.F.C.にとっては不穏な動き見せ始めていた。

※この「ミロクとの提携(プレ・ミロク時代)」の解説は、「K.F.C. (散弾銃)」の解説の一部です。
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