ネイ元帥の騎兵攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 08:05 UTC 版)
「ワーテルローの戦い」の記事における「ネイ元帥の騎兵攻撃」の解説
15時30分、ナポレオンはネイ元帥に対してラ・エー・サントの奪取を厳命し、ネイはデルロンの第1軍団から引き抜いた2個旅団の兵力を持ってラ・エー・サントへの攻撃を開始した。 この戦闘が行われていた16時少し前、ネイは英蘭軍中央部に後退の動きがあると感じ取った。彼はこの機を逃さず突破口にしようと考えたが、実際には彼は負傷兵や捕虜の後送を撤退の兆候であると誤解していた。デルロンの敗退の後、ネイの手元には僅かな数の歩兵予備戦力しか残されておらず、他は実りのないウーグモン攻撃か、右翼の防衛に回されていた。このためネイ元帥は英蘭軍中央部を騎兵戦力のみで突破しようとした。 第一次攻撃はミヨー(英語版)将軍の第4騎兵軍団の胸甲騎兵とデヌエット(英語版)将軍の近衛軽騎兵師団の合わせて4,800騎をもって敢行された。この攻撃はあまりに性急に組織されたものであり、掩護の歩兵も砲兵もなく決行された。 英蘭軍の歩兵は20個の方陣(四角形の陣形)を組んでこれに対抗した。方陣は戦闘を題材とした絵画によく描かれるものよりも小さめで、500人の大隊方陣は18m四方程度である。方陣は砲撃や歩兵に対しては脆弱だが騎兵にとっては致命的だった。方陣には側面攻撃ができず、馬は銃剣の矢ぶすまの中に突入できない。ウェリントンは砲兵に対して敵騎兵が近づいたら方陣の中に逃げ込み、敵が退却したら再び大砲に戻り戦うように命令していた。 フランス軍騎兵の攻撃を目撃したイギリス軍近衛歩兵将校はその印象を非常に明快かつ幾分か詩的に書き残している。 午後4時頃、敵軍の砲撃が突然止み、我々は騎兵の大集団の進撃を目にした。この場にいて生き残った者は恐ろしい程に壮観なこの突撃を生涯忘れることはないだろう。圧倒的な、長く揺れ動く戦列が現れ、彼らはさらに前進し、陽光を浴びた海の大波のごとくに煌めいた。彼らが近づくにつれて雷鳴のような馬蹄の響きによって地面が揺れ動くようだった。この恐ろしい動く集団の衝撃に抗しうると考えるものは誰もいなかったろう。彼らは有名な胸甲騎兵、そのほとんどがヨーロッパの数々の戦場でその名をはせた古参兵たちだった。驚くほど短い時間で彼らは20ヤードにまで迫り、「皇帝陛下万歳」("Vive l'Empereur!")と叫んだ。「騎兵に備えよ」と命令が下り、最前列の兵たちが跪き、そして鋼鉄の棘が逆立ったひとつの壁となり、団結して、怒り狂う胸甲騎兵に立ち向かった。 — リース・ハウエル・グロノウ近衛歩兵大尉、 このタイプの騎兵による集団攻撃は心理的衝撃効果の有無にほとんど完全に依存していた。砲兵による近接支援が歩兵の方陣を崩して騎兵の突入を可能にするが、ワーテルローの戦いにおいてはフランス軍騎兵と砲兵の協同は拙劣なものだった。英蘭軍歩兵を叩ける距離まで近づいた砲兵の数は十分ではなかった。 この突撃に際してフランス軍の砲撃は英蘭軍に死傷者を出させた。イギリス軍は稜線の内側に後退していたので、フランス軍砲兵士官は稜線上からイギリス軍を視認することが出来、効果的に砲撃を行ったためである。もしも、攻撃を受けた歩兵が方陣防御の陣形をしっかり保ち、パニックに陥らなければ、騎兵それ自体では歩兵に対してほんの僅かな被害しか与えられない。フランス軍騎兵の突撃は不動の歩兵方陣によって繰り返し撃退され、イギリス砲兵の絶え間ない砲撃によってフランス騎兵は再編成のために斜面を下ることを強いられ、そしてイギリス軍軽騎兵連隊、オランダ軍重騎兵旅団そして近衛騎兵旅団の生き残りによる果断な反撃を受けることになった。 少なくとも一人の砲兵士官は突撃を受けたときに最寄りの方陣に逃げ込めとのウェリントンの命令に従わなかった。王室騎馬砲兵(Royal Horse Artillery)のマーサー大尉(英語版)は両側で方陣を組むブラウンシュヴァイク兵は当てにならないと考え、この戦闘の間中、9門の6ポンド砲を敵に向けて戦い続け、多大な戦果をあげた。 私は彼らの縦隊の先頭が50から60ヤードに近づくまで、彼らを前進するにまかせ、それから「撃て!」と命じた。その効果は恐るべきものだった。先鋒のほとんど全員が一度に倒れ、縦隊を突き抜ける砲弾は全体に混乱を引き起こした … すべての大砲からの砲撃が続けられ、人や馬を倒し、それはまるで草刈鎌で雑草を薙ぎ払うようだった。 — キャヴァリエ・マーサー、王室騎馬砲兵(RHA)、 理由は定かではないが、フランス軍が英蘭連合軍の砲兵隊列を制圧しても、砲尾に穴を開けて使用不能にしておかなかった。そのため、方陣に逃げ込んでいた英蘭軍砲兵たちはフランス騎兵が撃退されると大砲のあった場所に戻り、再び彼らに砲撃を浴びせることができた。 ネイは4度の突撃を敢行させたが、遂に英蘭軍の方陣を突破することはできなかった。 ナポレオンはネイの攻撃は時期尚早にすぎ失策であるとは思っていたが、一方でプロイセン軍が右側面から迫っている状況でもあり、まずは早急に英蘭軍を撃破すべきであり、中央部への攻撃を続行させる決断をした。 ミヨーとデヌエットの残存兵力にケレルマン将軍の第3騎兵軍団とギヨー(英語版)将軍の近衛重騎兵師団が加えられ、総兵力は67個騎兵大隊9,000騎となった。この攻撃は無意味であると認識していたケレルマンは精鋭の銃騎兵旅団を予備として控えさせ、戦闘に参加させなかったが、このことを見抜いたネイが彼らの投入を要求している。 8度の突撃が行われ、ある方陣は23度も攻撃を受けたが、今回も砲兵は1個中隊しか加わっておらず、英蘭軍は一つの方陣も崩壊せず、ネイの攻撃はまたも頓挫した。 被害の大きい、だが実りのない攻撃がモン・サン・ジャン尾根に繰り返された末にフランス軍騎兵は消耗し尽くしてしまった。フランス軍の高級騎兵将校、とりわけ将官は大きな損失を被った。勇敢さゆえ、そして指揮官が部隊の先頭に立つ習慣のために、フランス軍の師団長4人が負傷し、旅団長は9人が負傷し、1人が戦死した。死傷者数は簡単には見積もれないが、例として、6月15日時点で796人いた近衛擲弾騎兵連隊(Grenadiers à Cheval )は6月19日には462人になっており、近衛竜騎兵連隊(l'Impératrice Dragons)は同じ期間に816人中416人を失った。 ここに至り、騎兵単独では僅かしか成し得ないと、ネイ元帥もようやく悟った。遅まきながら彼は諸兵科連合での攻撃を組織することにし、レイユ将軍の第2軍団からバシュルュ将軍の第5師団とフォワ将軍の第9師団からティソ大佐の連隊を抽出させて兵6,500を集め、これに騎兵のうち未だに戦闘可能なものたちを加えさせた。今回の攻撃もそれまでの重騎兵による攻撃と同じ経路が用いられた 。この攻撃はアックスブリッジ率いる近衛騎兵旅団によって止められた。だが、イギリス騎兵の攻撃はフランス軍歩兵を突破することができず、銃撃の損害により後退を強いられている。バシュルュとティソの歩兵と彼らを支援する騎兵たちは砲撃とアダム将軍のイギリス軍第3旅団の銃撃にひどく叩かれ、後退を余儀なくされた。フランス騎兵自体は英蘭軍中央部に僅かな死傷者しか与えられなかったが、方陣に対する砲撃は多数の犠牲者を出させていた。最左翼に布陣していたヴァンドルーの第4騎兵旅団とヴィヴィアンの第6騎兵旅団を除く、英蘭軍の騎兵はこの戦闘に投入されて、多大な損害を受けていた。英蘭軍にとっても危険な状態であり、カンバーランド驃騎兵連隊(この戦いに参加した唯一のハノーファー騎兵)は戦場から逃げ出し、ブリュッセルまでの道中で敗戦の噂をまき散らしている ネイの諸兵科連合攻撃が決行されたと時を同じくして、デルロンの第1軍団も兵を集結させ、第13歩兵連隊を先鋒にラ・エー・サントへの攻撃を再開した。ラ・エー・サントは国王直属ドイツ人部隊(KGL)が守備していたが、英蘭軍は他の方面での戦闘に忙殺されてここへの弾薬の補給が滞っており、フランス軍の猛攻を受けた国王直属ドイツ人部隊は支えきれずに退却し、400人いた兵士は僅か42人に減っていた。 ラ・エー・サントを占領したネイは騎馬砲兵を英蘭軍中央部に向けて移動させると歩兵の方陣に対して短射程のぶどう弾を用いた砲撃を加えた。これによって目に付きやすい方陣を組んでいた第27歩兵連隊(Inniskilling)そして第30および第73歩兵連隊は多数の犠牲者を出して撃破された。 この時、英蘭軍の中央部は危険なほど手薄になっており、もう一撃でネイは中央部を突破しえるところまで来たが、彼にはそれを実行する予備兵力がなかった。ネイはナポレオンの本営に増援を求めたものの、この時すでにプランスノワでプロイセン軍との戦闘が始まっている状況でありその余裕はなく、使者に対してナポレオンは「もっと兵隊をよこせだと!?どこからそんなものが手に入る?奴は私が兵士をつくれるとでも思ってるのか?」と言い放った。 実際にはナポレオンの手元には皇帝近衛軍団の15個大隊の無傷の兵力が残されていたが、彼はこの最後の予備戦力を投入する決断ができなかった。 ウェリントンは兵力をかき集めて戦線の穴を塞ぐよう努め、「最後の一兵まで戦場に踏みとどまれ、今少しで救済は得られる」と兵を叱咤した。
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