オーウェンとダーウィン進化論
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「リチャード・オーウェン」の記事における「オーウェンとダーウィン進化論」の解説
オーウェンとダーウィンの馴れ初めは、後に不倶戴天の敵となることが信じられないくらい非常に友好的な物だった。ビーグル号の探検後、少なからぬ量の標本コレクションを自分の物としたチャールズ・ダーウィンは、1836年10月29日にチャールズ・ライエルの紹介によってオーウェンと引き会わされ、オーウェンはダーウィンが南米で採集した化石骨の研究を快く引き受けた。これ以降、二人は親しい友人となったのである。オーウェンは、その巨大絶滅動物は同じ地域に住む現生種の齧歯類やナマケモノ類と近縁であり、ダーウィンが当初考えていたようなアフリカの巨大動物の親類などではない事を後に明らかにした。これは皮肉にも後にダーウィンが自然選択説を考えつくきっかけとなった。 オーウェンにしても、生物が古代から全く変化しなかったと考えていたわけではなかった。この頃オーウェンはヨハネス・ペーター・ミュラーの影響を受けて、生物は「生体エネルギー」という生命力を持っており、それにより組織の成長方向の決定やさらには種や個体の寿命まで決定づけられる、という理論について説いていた。1838年12月19日にオーウェンとその取り巻きがダーウィンのかつての指導教官ロバート・エドマンド・グラントのラマルク的「異端」について嘲笑を浴びせていたとき、ロンドン地質協会の事務員をしていたダーウィンが自説について沈黙を決め込んだのも無理はない。1841年に結婚したばかりのダーウィンが病気になったとき、オーウェンは見舞いに来てくれた数少ない科学界の友人の一人だった。しかし、「変質」を匂わすいかなる物に対しても見せるオーウェンの反感は、ダーウィンをして自分の理論を秘密にさせ続けた。ダーウィンは自分の自然選択説が一見持つように見える無目的さが、大いなる意志によって適切に配剤された変化というオーウェンの信条と相容れないことを理解していたのだ。 ダーウィンがまだ自分の理論を暖めている時期の1849年、フジツボの調査を通じてダーウィンは彼らの体節が如何に他の甲殻類と対応し、どのようにその親戚から分岐してきたかを示す事を発見した。オーウェンにとってはそのような比較解剖学上の「相同」は神の御心の中にある「祖形」(archetype)を示す物であったが、ダーウィンにとっては祖先から引き継いだ系統の証拠だった。オーウェンはウマの進化段階の証拠となる化石を、“神の定めし絶え間なき相応しい”やり方で祖形より発展してきたという自説を支持する物として説明した。そして神の意志によって万物の霊長とされたヒトと他の動物の間には決定的な差があると考え、1854年の英国科学振興協会での談話で、ゴリラ(その頃発見されたばかりだった)のような獣じみた類人猿が直立しヒトに変質することは不可能だと語った。このころ労働者階級の好戦派はヒトの先祖がサルであると吹聴しており、このような考えを打ち砕くために、オーウェンは協会会長当選者として、霊長類の脳を見ればヒトが種としてサルと別であるのみならず、亜綱でも別であることがわかる、とする権威づくの解剖学的研究を発表した。ダーウィンは「チンパンジーがヒトとは全く異なるなど私には受け入れられない」と書き残している。闘志盛んなトマス・ヘンリー・ハクスリーは、1858年3月の王立研究所での講演で、ゴリラは構造的にヒヒに近いのと同じくらいにヒトにも近い、と主張した上で「精神と道徳の機能は本質的に…動物と我々で同じだ」と自分は信じていると付け加えた。これは同じ会場で行われた人間の特異性を主張するオーウェンの講演に対する明らかな挑戦だった。 『種の起源』(1859)の出版によるダーウィンの理論の公開に際して、彼はオーウェンに「ぞっとする内容かとは思いますが」との言葉と共に写しを贈呈した。オーウェンは最初に反応した一人であり、自分は長い間“現在の影響”が“神の御心による”種の生成の原因であると信じてきた、と礼儀正しく主張した。ダーウィンは彼と長時間語り合い、オーウェンはこの本は「種の形成の方法について今まで出版されたなかで」最良の説明を提供している、とまで言った。しかし彼はまだ変質がヒトを獣と同列化するかどうかについて非常に大きな疑いを抱いていた。オーウェンは、ダーウィンは全ては設計された法則の結果であると見ている、と確信させられたらしく、それを“創造力”の信仰をダーウィンも共有している証拠だとオーウェンは解釈していた。 科学界の頂点という崇高な地位にいたオーウェンはこの本に対する多くの苦情を受け取った。議会の委員会に新しい自然史博物館の必要性を強調している際に、彼が以下のように指摘した時には、彼自身のこの本に対する意見はまだ明らかでない。 「今年、全ての知識層は種の起源に関する一冊の本に興奮を覚えた。そしてその結果は? 来館者が大英博物館に押し寄せ、こう言うのだ、『ここにあるハトの標本の変異の全てを見せてくれ。タンブラーはどこだ?ポーターはどこにある?』と…。そして私は恥ずかしながらこう答えるしかない、何もお見せできないのです… あなた方にそれらの種の変異をお見せしようとしても、いやそれをいうなら種の起源という謎中の謎に人を導くいかなる現象をも、皆さんにご覧に入れられるだけの場所が無いのです、と。しかし、そのような場所はどこかに存在するべきであり、そして大英博物館にそれが無いとすれば、いったいどこにあるというのか?」 しかしながら、ハクスリーの攻撃は功を奏していた。1860年4月に「種の起源」に対するエディンバラ・レビュー上でのオーウェンによる書評がなされた頃には、オーウェンははっきりとダーウィンの進化論に対する異議と憎悪を旗幟鮮明にしていた。この書評でオーウェンは、ダーウィンが創造論者の立場を風刺していると受け取り、オーウェンの「生きとし生ける者への神の定めし所による適切で絶え間ない作業の原則」をダーウィンが無視しているとして怒りを表明した。彼にとっては、新しい種は誕生させられるものであり、自然選択を経て現れるものでは無かったのだ。ダーウィンの信奉者であるフッカーやハクスリーを「近視眼的な執着」をしていると攻撃すると同時に、彼はこの本を「隣国では70年ほど前から一時的な堕落の元凶となっている科学の誤用だ」とフランス革命にかこつけて考えるようになった。ダーウィンはこれを読んで「執念深く、恐ろしく悪意に満ちており、狡賢く、有害だ」と言い、しばらく眠れぬ夜を過ごした。そして後にこう述べている。「ロンドンっ子が言うには、私の本があまりにも話題になっていたために、彼は嫉妬に狂っていたのだ。オーウェンの私への憎悪ほどの強烈さで憎まれるのは辛いことだった」 ダーウィンの理論が反響を呼んでいる間も、ハクスリーのオーウェンとの論争は続いた。オーウェンは「脳によって試されるヒトの類人猿起源」と題される学術振興会への寄稿と、「ヒトの先祖を変形した類人猿だと主張する者」とハクスリーを表現することで、ハクスリーを貶めようと画策した。ハクスリーは既にダーウィンも喜んだ「ピテコイド・マン」(サルのようなヒトの意)についての考察を行い、ヒトが猿の同類であるという事の表明に何の抵抗も抱いていなかったので、これは侮辱にもならず空回りに終わった。ハクスリーはこの機をとらえて脳の構造の解剖学を公にヒトの先祖の問題に帰し、オーウェンを偽証の廉で告発する事を固く決心した。この作戦には2年以上かかったが、最終的には成功を収め、戦線が前進する毎にダーウィン主義の下へ新たな賛同者が集っていた。遺恨はその後も残った。1861年にハクスリーが動物学協会委員会に参加したとき、オーウェンは委員会を去り、その後の年月をハクスリーはオーウェンが「わがままで意図的に嘘をつく」人物だと訴えて彼が王立協会委員会に選ばれることを阻止し続けることに費やした。 1863年1月、オーウェンは始祖鳥の化石を大英博物館のために購入した。それは長い尾椎と融合していない翼の指をもち、原・鳥類というダーウィンの予言を満たすものだったが、オーウェンは進化論に反対する立場からこれを疑いのない鳥類として記載した。この記載にハクスリーは猛反論している。 オーウェンとダーウィンの支持者との間の反目は続いた。1871年に、恐らくは大英博物館の自分の管理下におく意図をもって、キュー・ガーデンズにあるジョセフ・ダルトン・フッカーの植物学コレクションへの資金援助を停止するよう政府を脅迫していた件にオーウェンが関与していたことが明らかになった。ダーウィンはこう語った。「私は彼を憎んでしまうことを常々恥ずかしいことだと思っていた。しかし今は、我が生涯最後の日々に憎しみと軽蔑を入念に心に留めようと思う」
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