アーティスト面
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 13:47 UTC 版)
控えめ・都会的・ノスタルジックな作風で知られるニューミュージックのアーティスト。マイナー調の曲が多く、淡々としつつ叙情的なメロディーが特長。ほとんどビブラートを掛けない歌唱は“来生節”とも称される。歌手活動と同時に、姉・来生えつことのコンビを主軸に作曲家としても活動しており、「セーラー服と機関銃」(歌唱:薬師丸ひろ子)、「スローモーション」「セカンド・ラブ」(歌唱:共に中森明菜)、「シルエット・ロマンス」(歌唱:大橋純子)、「マイ・ラグジュアリー・ナイト」(歌唱:しばたはつみ)など、日本ポピュラー音楽史上に残るスタンダードナンバーを数多く送り出している。 自身の音楽の基本はノスタルジーであり、熱愛の頃をふと思い出すようなものを作ってきたと述べ、また、自分は歌手より作曲家に向いていると語る一方で、自作品の細かなニュアンスを一番知っている自分自身でも歌いたいとも語っている。デビューアルバムから最新作に至るまで、その作風は一貫しており、自らマンネリズムとも称しているが、それは、時流に流されずマイペースに長らく音楽活動を続ける数少ないアーティストであることの証左ともいえる。2002年には、“自分はまだ良い曲が作れていると思っている。そう感じられなくなったら辞める”と前置きをし、“今、同世代のアーティストが作っている曲は駄目。なんでこんな退屈な曲を作って歌っているのかと思ってしまう。昔の曲の方が断然良い”と明言している。一方で、自身より年長の岡林信康がパワフルに歌っているのをテレビで観た折りは、刺激を受けたと吐露している。 一般的な肩書はシンガーソングライターだが、担当しているのは歌唱と作曲であり(自作曲のいくつかは編曲も担当)、そういう意味では“歌手兼作曲家”と表するのが正確である。また、実の姉弟によるソングライティングチームはあまり類例がなく、特にデビュー当初は夫婦に間違えられることが多かった。 なお、デビュー以来レコードジャケット(アルバムでは主に帯)に記されていたアーチスト名のルビ“きすぎ”は、「夢の途中」(シングルおよびアルバム)をもって姿を消す。メジャーな存在になったことによる細やかな変化である(ローマ字による表記はこれ以降も頻発している)。ちなみに、幼少期には苗字に含まれる“きす”(=Kiss)という響きに関してからかわれたことがあり、来生えつこも同様に苗字に関して様々な苦労をした過去があるという。また、来生えつこの考察によれば、「上杉謙信の家臣であった木次(来次)出雲守(きつぎ・いずものかみ)が来生家の起源であり、武士の身分を捨てた木次が酒田(現:山形県酒田市)に定住する際、“新たな未来を生きる”というような意味合いで“来生”と改名したことに由来する」という(姉弟の父親は山形県の出身である)。これとは別に、木次の自官である出雲(現:島根県の一部)には、木次(きすき)という地名が存在する。 井上陽水、小椋佳に続く第三の新人として、キティレコードから鳴り物入りでデビューした当時、若者の音楽はまだフォークソング色が濃く、ジーパンにフォークギター一本というスタイルの歌手も多かった中、ピアノで歌う男性シンガーは珍しかった。最初はザ・ベンチャーズの影響でギターで曲作りも行っていたが、音符(来生自身は“おたまじゃくし”と表現することが多い)として書き留めたい、曲作りの幅を広げたいとの思いで、20歳の時に一念発起、近隣の個人教室で子供と交じりながらピアノを習い始めた。週1回のレッスンを週3回にしてもらい、自宅では紙鍵盤で練習、バイエルを3ヶ月で終わらせ、約1年半の教室通いの後は独学でこなした。ピアノを始めるきっかけの一つとして、ザ・ビートルズの「Let It Be」のイントロを聴き、これくらいなら自分でも弾けるかも知れないと思ったという。 ソングライティングコンビは、姉が何気なくノートに書き留めていた散文に勝手に曲を付けるかたちでスタートした。実家を訪れる姉の友達が、ギターで洋楽のフォークソング(ピーター・ポール&マリーの「500マイル」等)を歌っていたが、中には彼等の自作曲もあり、それを羨ましく聴いていたことが、何よりも先に曲作りのきっかけになったという。18歳の頃、来生えつこと共に処女作「サラリーマン」(後にオリジナルアルバム『égalité』に収録)を含むレコードを10枚以上自主制作し、文化放送やニッポン放送へ持ち込んだところ、後者では斉藤安弘の『オールナイトニッポン』で取り上げられたこともあった。また、デビュー曲になる「浅い夢」も19歳の時には既に原曲が作られていたという。 初期の曲作りは、来生がギターでメロディーをワンフレーズ弾き、来生えつこが目の前でそれに合わせて歌詞を書くという作業を繰り返していたという。ほとんどの楽曲は曲が先に作られ、後から詞が付けられるが、中には「Goodbye Day」のように詞が先の例もある。来生は、自由に楽曲の構成ができるため、曲が先の方が作りやすいと述べている。自演曲の場合、一挙に作り上げるということは滅多になく、部分的に出来たものを暫く放置し、他の曲作りをしつつ完成させて行く。散歩中や就寝前に浮かんだメロディーを録音したり譜面に起こしたりすることもあるという。最初のモチーフから自分のイメージ通りの“良い曲”にするのは難しく、中には7年ぐらいかけて作った曲(オリジナルアルバム『浅い夢』参照)もあるという。提供曲の場合、メロディーにある程度音を重ねたデモテープを作り、作詞家が依頼主の要望に沿った歌詞を付け、それに来生が歌を吹き込んで渡すという流れになる。打ち込みによる曲作りも、早くから機材を購入し、検討してはいたものの、締め切り直前まで作業をしないことが常のため、なかなか使いこなすまでには至らず、そちらはオペレーター(近年はバックバンドのメンバー・小田木隆明)に任せ、自らは楽器を弾くというかたちで作っている。実際に提供歌手が歌ったものは、思いの外良いこともあればその逆もあると語る一方、自分で歌っていても“何でこんなに難しいんだろう。もっと簡単に作れないのか”と自作曲に対する思いを吐露している。また、提供希望歌手として井上陽水の名を挙げており、井上陽水をイメージして作られた楽曲もある一方、2000年にリリースしたオリジナルシングル「地上のスピード」で共作(作詞:井上陽水/作曲・歌唱:来生たかお)は実現しているものの、2010年1月現在“作曲:来生たかお/歌唱:井上陽水”は未だ実現していない。 “矢倉銀”というペンネームで自作曲の幾つかは編曲も手掛けている。この名は、将棋の戦法(囲い)の1つである矢倉囲いと銀将を掛け合わせたものである。レコーディングには基本的にヴォーカルでのみ参加しているが、自ら編曲を手掛けた楽曲の中にはピアノやエレキピアノで参加しているものもある。 コンサートではこれまでに、グランドピアノ・エレキピアノ・アコースティックギター・エレキギターを担当して歌っており、2001年からはピアノの弾き語りのみのステージも試み始めている。以前は楽器を弾きながら歌うことがもっぱらで、徐々にマイクを片手に歌う機会も増えたが、後者は余計なこと(客席の人の出入り等)が気になってしまうため、前者の方が集中できるという。また、専属のバックバンドは“Win 9”という名で結成され、“スタートル”と改称した後、幾度かのメンバーチェンジを経て現在に至っている。 『ザ・ベストテン』『夜のヒットスタジオ』『ミュージックステーション』等、数々の音楽番組に出演してきたが、圧倒的な数の人間が観ていると思うと集中して歌えないため、あまり出たくはなく、満足に歌えたこともないと断言している。テレビ出演の心境をよく“寿命が縮む”という言葉で表現しており、特に、歌手デビューの翌月に出演したTBS系の音楽番組『サウンド・イン"S"』では、錚々たる面々と共にメドレーを行い、失敗したら頭からまたやり直しという極度の緊張感を味わい、その時の光景は今でも夢に現れるという。
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