アメリカでの郊外発展の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 19:00 UTC 版)
汚染された都市からの脱出 多くの社会学者は郊外を、都市の環境悪化に対応して作られた地域とみている。郊外は、通信と交通の発達により、都市の外に住みながら都市で働くことが可能になったことではじめて誕生した。 町や都市の周りにできていた、郊外など都市から区別された居住地域は、都市部に商品、サービス、雇用の機会を頼っていた。こういった広大な範囲は町や都市の後背地域(ヒンターランド)と呼ばれる。(自動車などの普及前の時代は、後背地域の範囲は、家畜を世話できる距離や市場から明るいうちに帰れる距離と合致していた。移動するのに地理的障害となる山地などのない低地地方では、町と町の間に20~30kmの距離ができるのは普通であった。現在は高速道路など交通の発達により半径100kmを超えることがある。) 19世紀前半、重工業の確立後は大気汚染が始まり、健康的な環境の郊外が町や都市の風上などに求められた。同じ郊外でも、大気汚染に悩まされる場所の地価は安くなり、それゆえ低所得層が住む様になった。 同じ19世紀前半、18世紀の哲学者・イマヌエル・カントやジャン=ジャック・ルソーの唱えた合理主義や人間の理性に対する批判、およびルソーの「自然に帰れ」というテーマが欧米の建築や都市計画にまで影響を及ぼしつつあった。建築デザインや装飾デザインに「自然の形状をより多くとりいれた」デザインが発生したのみならず、居住形態においても「自然の中で暮らす」田園的な郊外が発明され理想化された。この傾向は特にイギリスおよびアメリカ合衆国において顕著であった。アメリカの19世紀初頭の建築家、アンドリュー・ジャクソン・ダウニングは「自然と一体化したデザインの、労働からの逃避の場で家族の教会となる」住宅の案を提示し、後の郊外住宅に影響を与えている。もっとも多くの人々が自然の中で暮らそうとする結果、都市のスプロール的拡大と自然破壊がはじまりつつあった。 ゾーニング法と交通の発達 アメリカでは、郊外の成長は、ゾーニング(土地を細かい区域に分け、利用目的を規制する)法例によって、またより効果的でアクセスしやすい交通手段の発達によって促進された。 アメリカ北東部の古い街では、郊外は労働者を都心や工場に向けて運ぶ鉄道や路面電車に沿って発達した。こうした郊外の発達は、「ベッドタウン(bedroom community)」、つまり昼のビジネス活動はほとんど都市で行われ、労働人口は夜になると家に帰って寝るために都市から去るという意味の用語を広めた。 鉄道の利用の増加(後には自動車の利用の増加)は、ますます郊外に住んで都市で仕事をすることを簡単にした。英国では、鉄道が最初の都市からの住民大脱出を刺激し、ロンドン周辺に二軒長屋式の家屋(semi-detached house)が特徴的な「メトロランド」と呼ばれる郊外を形成した。自動車の所有が増えより広い道路ができると、都市から遠く離れた郊外に住み、通勤する傾向は北アメリカで加速的に広がった。これを都市からの脱出(urban exodus)と呼ぶ。 ゾーニング法例は、住宅の建設だけが許可される広大な地域(「ゾーン」)を設定することによって、住宅地を都心の外へ外へと位置させることに貢献した。これら郊外住宅は、都市部よりも広い区画の中に建てられた。たとえば、シカゴ市内での土地区画は、奥行き125フィート(38m)、幅はテラスハウスなら14フィート(4m)、独立家屋なら45フィート(13.7m)に過ぎなかった。郊外なら、たとえばネイパービルの町のように独立家屋が決まりであり、115フィート(35m)の奥行きに85フィート(26m)の幅が確保できた。工場や商業施設は都市の別の場所に隔離され集められた。 都市と郊外の拡大、田園都市 通勤自動車によって多くの都市の都心で渋滞や大気汚染がひどくなったことによって、次第により多くの人々が郊外に移転した。人口の移動とともに、アメリカでは多くの会社がオフィスや工場などを都市の郊外に置くようになった。これは古くからの郊外における密度の増加につながり、結果、より都心から遠く人口のまばらな農村を開発によって郊外住宅地へと変えていった。 郊外の過密化のもう一つの解決法は、慎重に熟慮を重ねて計画されたニュータウンの建設と都市の周りの緑地帯(グリーンベルト)の保護だった。社会改良家たちはガーデン・シティー(公園都市)運動によって、両方のコンセプトのよい点を組み合わせることを意図した。 これに先立ち、早くも19世紀末、エベネザー・ハワードはロンドンの環境と貧困の悪化に対し、「都市と農村の結婚」を目指して規模制限・職住近接・豊かな公園や農場・都市を住民が維持運営するコミュニティやその財源として土地を住民が共有し賃貸する会社組織を持ったはるかに意欲的な理想都市「田園都市(ガーデン・シティー)」を提唱し、1903年にはこれらの理想を具現化した世界初の賃貸式ニュータウン・レッチワースをロンドン北郊に着工し、世界に影響を及ぼすに至った。しかし、現実にはこれに影響を受けた各国の都市計画は単なるベッドタウンにとどまり、通勤難や都市の維持などに課題を残している。 郊外化するアメリカ 北アメリカの郊外人口は、第二次世界大戦後に爆発的に増加した。落ち着いた暮らしを始めたい帰還兵たちは大量に郊外に移動し、彼らのための住宅地が大量供給された。1950年から1956年までの間に、合衆国全域の郊外の居住人口は46%増加し、郊外化が急速に進んだ。同じ時期、アフリカ系アメリカ人たちはよりよい雇用と教育の機会を求めて、隔離された生活を強制される南部から北部に移動した。彼らの北部の都市への大量流入はホワイト・フライト(白人の郊外移住)を刺激した。 アメリカでは多くの人々が、郊外というものを、初期に計画された有名な郊外住宅都市であるニューヨーク州レビットタウン(Levittown)やカリフォルニア州ローナート・パーク(Rohnert Park)と同一視する。たとえばローナート・パークは、サンフランシスコの郊外(サンフランシスコ・ベイエリア)にあり、1950年代後半の計画当時は「中産階級のカントリー・クラブ」としてマーケティングされ、以後全米の郊外住宅開発の雛形となった。これらは「トラクト・ハウジング」と呼ばれ、柵で囲まれていない区画に、大量生産した家屋を工場からトラクターで運び込み地面に固定したもので、道路に沿った芝生の中に画一的な住宅がどこまでも並ぶというものである。(このページの上方の航空写真はその一例である。)1970年は、アメリカの総人口のうち郊外に居住する人口が最も多くなった転換点の年だった。 超高層ビルの建設や都心部の不動産価格の急上昇は、残った住民を郊外へ追い出しドーナツ化現象を促進し、都心部はビジネスのためだけの場所と化してしまった。そして、通勤時間の長時間化、夜にビジネスが終わったあとの空洞化した都心部の閑散さ・孤独感・不安感を、望ましくないことだと感じる論調が1980年ごろまでに増え始めた。しかし一方で、都心から遠く離れた郊外の高速道路のインターチェンジ付近など、数十年前には都市などなかった場所に新たな業務中心地が誕生してオフィスや商業施設が集積していることが確認されている。これはエッジシティ(周縁都市)と呼ばれる。
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