アメリカでジャーナリスト、教育者として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/03/22 12:32 UTC 版)
「アドルフ・ドゥエイ」の記事における「アメリカでジャーナリスト、教育者として」の解説
ドゥエイは、1852年3月にテキサス州に到着した。まずニコラス・ツィンク(1812年 - 1887年)のテキサス州ケンダール郡のシスターデールのラテン・セツルメントに滞在、その後隣接したコマル郡のニュー・ブラウンフェルスに移り、そこで間もなく学校を設立した。けれど、翌1853年彼はテキサス州サン・アントニオに移住し、そこでサン・アントニオ新聞の編集者になった。 この新聞は、当初、教育記事や文学記事を中心としていたが、ドゥエイは、間もなくこれを奴隷制反対の意見表明の舞台として利用するようになる。教養記事シリーズの中で彼は奴隷制を民主主義の理想と相容れない害悪と断じ、「自由の大地に自由な農民を」抱えた国家を標榜し、他方面で反対側と軋轢を生じた。これは、ドイツ系の「体操協会」の義勇兵が、激昂する奴隷制反対派の襲撃から新聞社の事務所を常に警備しなくてはならないほどになった。 ドイツ系の入植者の一般的な奴隷制反対の機運は、彼らを隣接したアングロ・アメリカ系の住民たちとはっきりと色分けした。その上、ドイツ系の人たちは言葉や文化の上でも彼らと異なっていた。彼らの日常生活は当時、主に農業と手工業、商業によつて成り立っていた。その結果、彼らは比較的小さな民族集団として独自に生計を立てていくことができていたのである。 しかるに、1854年のテキサス州議会(Texas State Convention)の後、ドイツ系入植者の内部で徐々にドゥエイの理念への支持が薄れ始めていった。多くのドイツ系住民が新聞に反旗を翻し、商業者は新聞に広告を掲載するのを取りやめるようになっていった。その結果、経営者は新聞を売りに出すことを決意し、ドゥエイは、アメリカ人の造園家で、景観デザイナー、また紀行作家でもあったフレデリック・ロー・オルムステッド(1822年 - 1903年)と共に新聞を買い取った。 ドゥエイは、新聞でこれまで通り奴隷制に対する反対キャンペーンを継続し、ついに1855年2月9日の版でテキサス州の西部に自由な独自の国家の設立を提案した。同年、彼の新聞の奴隷制反対の主張に反感を持つ暴徒たちの手によって新聞社の事務所が徹底的に破壊された。その後、1956年には収入がさらに激減し、彼は自分の持ち分をグスタフ・シュライヒャー(1823年 - 1879年)に売却してテキサス州を去ることになった。
※この「アメリカでジャーナリスト、教育者として」の解説は、「アドルフ・ドゥエイ」の解説の一部です。
「アメリカでジャーナリスト、教育者として」を含む「アドルフ・ドゥエイ」の記事については、「アドルフ・ドゥエイ」の概要を参照ください。
- アメリカでジャーナリスト、教育者としてのページへのリンク