アメリカでの開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 16:31 UTC 版)
「テラー・ウラム型」の記事における「アメリカでの開発」の解説
熱核爆弾(水素爆弾)をより小さい核分裂爆弾で起爆させる方法は、エンリコ・フェルミによって提案され、彼の同僚であったエドワード・テラーによって1941年にマンハッタン計画としてスタートした。テラーは、彼に割り当てられた核分裂爆弾の開発計画を多少おろそかにしてでも、熱核爆弾の設計作業方法を確立させるためにほとんどの労力を費やした。打ち合わせでのテラーの難解で異を唱える態度により、オッペンハイマーはテラーを核分裂爆弾の開発から切り離すことで、他の物理学者たちを高度な作業に専念させてトラブルを回避した。 テラーの同僚であるスタニスワフ・ウラムは、動作可能な核融合兵器の設計に向けた最初の重要な概念を作成した。ウラムの行った2つの革新は、核融合爆弾を実際に動作させるためのもので、核融合燃料を超高温に加熱する前にまず圧縮して核融合に必要な状態を作り出すことであった。また多段階式の反応をさせるため、核融合材料を核分裂性のプライマリーの外側に置き、何らかの方法でセカンダリーを圧縮させることであった。そしてテラーは、もし全ての部分を“ホールラウム”か放射性物質の容器で包むことが出来れば、プライマリーからのγ線とX線の放射がセカンダリーの圧縮と起爆に十分なエネルギーとなり得ることに気が付いた。テラーと彼の支持者、および反対論者は、ウラムの提案した基本的な動作論理に対して討論を行った。 1951年には、提案された論理に基づいてグリーンハウス作戦のジョージ核実験がごく小さな規模で実施され、この実験によって論理が正しく動作することに対する期待が確信へと変わった。 1952年11月1日には、テラー・ウラム型の本格版としてアイビー作戦のマイク実験がエニウェトク環礁で行われ、核出力10.4メガトン(第2次世界大戦時に長崎に投下されたファットマン型原爆の450倍以上の威力)を記録した。この実験装置はソーセージと呼ばれ、起爆用に巨大な核分裂爆弾が使用され、液化重水素18トンを冷却しながら液体状態に保つ必要があったため、装置の総重量は70トンに及んだ。 マイク実験で使用した液化重水素燃料は、配備可能な兵器としては非実用的で、次の段階では固体の重水素リチウム核融合燃料が代わりに使用された。1954年3月1日、この方式はキャッスル作戦のブラボー実験として実施され、核出力15メガトンを記録した(実験装置はエビと呼ばれた)。なおこの実験は、米国が実施した核実験の中で最大規模のものである。 米国はすぐにテラー・ウラム型兵器の小型化に着手し、ICBMやSLBMに搭載可能な形状にさせた。1960年には、メガトン級の核弾頭が0.5mの大きさと、320kgの重量に抑えられ、W47型核弾頭 としてポラリスミサイルに搭載され潜水艦に配備された。しかし後になって、ポラリスミサイルには信頼性に問題があることがテストによって発見され、設計変更が必要になった。核弾頭の小型化は、1970年代中盤にはほぼ完成され、テラー・ウラム型は10発もしくはそれ以上の核弾頭を搭載したMIRVミサイルとして発展した(詳細はW88型核弾頭を参照のこと)。
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