アメリカで航空業界へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/03 02:39 UTC 版)
1974年に川崎重工を退社し、アメリカ移住の上ピードモント航空へ入社。1978年には整備部長に着任した。この時期に、当時ウエスタン航空で整備部長の職にあったゴードン・ベスーンと出会い、ベスーンをピードモント航空の自分の上司としてヘッドハンティングすることになった。1984年にはピードモント航空の資材担当副社長となったが、当時のアメリカ航空業界では、企業の上層部に日本人を起用するのは極めて異例のことであったという。当時、社内にまだ残っていた男女差別を撤廃したことで、「異色の日本人マネジメント」としてNBCから取材を受けている。 ピードモント航空での購買に関する逸話も多い。以下はごく一部の例である。 ボーイング737の購入にあたって、新造機で30%もの値引きをさせた。 ピードモントで15年以上使用したYS-11を売却する際に、新機材として導入したときの倍の価格で売却した。 燃料をベネズエラからタンカーごと購入し、会社の備蓄タンクに入らない分は1ガロン当たり3セントを上乗せしてタンカーごと売却した。 USエアとの合併の際に交渉記録を見た担当者は「鶴田はシャイロック(『ヴェニスの商人』に登場する金貸し)か?」と驚いたという。 1989年、ピードモント航空がUSエアに買収されると同時に同社を退職。ミッドウェイ航空に入社し、規制緩和下での業務改善に努めたが、1991年11月にミッドウェイ航空は倒産。ノースカロライナで倉庫業を始めたほか、ボーイングのコンサルタントとしてLOTポーランド航空の再編に携わった。
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