フランク王国 歴史

フランク王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/24 23:27 UTC 版)

歴史

フランク族の登場と移住

フランク族の名前は西暦3世紀半ばに初めて史料に登場する[1]。記録に残る「フランク(francus または franci)」という言葉のもっとも古い用例は、241年ごろの歴史的事実を踏まえたとされるローマ行軍歌においてである[2]。これは4世紀に書かれた『皇帝列伝』に収録されて現代に伝わっている[2]ローマ人ライン川中流域に居住するゲルマン人たちを一括して「フランク人」と呼んでいた[注釈 1]。3世紀から4世紀にかけて、カマーウィー族英語版ブルクテリ族カットゥアリー族英語版サリー族アムシヴァリー族英語版トゥヴァンテース族英語版が、ローマ側の史料において「フランク人」と呼ばれている[1]。この呼称はあくまでローマ人側からの呼称であり、この名前で呼ばれたゲルマン人の諸部族が実際に同族意識を持っていたかどうかは不明である[1]ローマ帝国の国境地帯にこれらの諸部族が居住していたことが、彼らを共通の政治的状況に置き、そのことが彼ら自身とローマ人の意識において共族意識を育んだかもしれない[1]

ローマ帝国国境地帯に居住した彼ら「フランク人」たちは、その都度従士団を組織して、隣接するゲルマン諸部族やローマ帝国の属州で略奪を行っていた[4]。一方でその勇猛と武力を買われ、ローマ側によって兵士や将軍として「フランク人」が雇われるようになった[5]。そのような「フランク人」の1人クラウディウス・シルウァヌス355年コロニア・アグリッピナ英語版(現・ケルン)で皇帝(アウグストゥス)を僭称している[6]。また、メロバウデスや、フラウィウス・バウトのように西ローマ帝国において執政官職(コンスル)に就任するフランク人も現れた[2]。バウトの甥にあたるテウドメール英語版は「フランク人の王(rex Francorum)」という称号を帯びた最初の人物であり[2]マロバウデス英語版というフランク人はローマ軍の将軍を務めたあと、「フランク人の王」になり378年アレマン族との戦いを勝利に導いたとされる[5]。また、バウトの娘はコンスタンティノープルの宮廷で教育を受け、東ローマ皇帝アルカディウスの妃となった[2]。このように4世紀後半には東西両帝国の政界でフランク人のめざましい活躍があった。

400年から440年まで、フランク人の領土変遷

一方、ライン川流域のフランク系諸部族は離合集散を経てサリー・フランク人とライン・フランク人(リプアリー・フランク人)という2つの集団に収斂していった[7]。ライン・フランク人たちは380年代に、ゲンノバウド英語版マルコメール英語版スンノ英語版という3人の指導者のもと、ライン川を越えてローマ領に侵入し周辺を荒らしまわった[5]。当時西ローマ帝国で権勢を極めていたアルボガスト英語版は(彼はバウトの息子であり自身もフランク人であったが)侵入したフランク諸部族を殲滅するように主張し迎撃を主導した。ローマ軍との戦闘のあと、フランク族・アレマン族の小王たちとエウゲニウス帝との間に和約が結ばれたとされる[5]406年にはライン・フランク人たちはローマの同盟軍としてヴァンダル族スエヴィ族アラン族の侵入に対応した[7]。さらに遅くとも5世紀の半ばにはライン・フランク人たちは1人の王を戴く国制を確立していたと考えられる[7]。彼らの勢力範囲はケルンを中心とし、ライン川下流域(ニーダーライン英語版)からライン川中流域のマインツにまで広がり、モーゼル川流域もその支配下にあった。

クロディオ英語版

ライン川下流域に勢力を持ったサリー・フランク人は、358年ブラバント北部のトクサンドリア地方英語版[注釈 2]への移住をローマ帝国から認められ、国境警備の任にあたるようになった[7]。サリー・フランク人の間でも、少なくとも5世紀半ば以降には権力の集中がなされたと考えられる[7]。彼らはクロディオ英語版王の指揮下でアラス付近まで侵入し、フン族の侵入やヴァレンティアヌス3世の死による混乱に乗じてカンブレーも占領、ソンム川の流域まで達した[7]。そしてサリー・フランク人たちもまたローマの同盟軍となる許可を得た[8]

このようにゲルマン諸部族をローマの同盟軍(フォエドゥス、foedus)としてローマ領内に居住地を与える政策がしばしば取られ、それによって西ローマ帝国領の各地にゲルマン系諸部族の「王国」が構築された。フランク王国もそのひとつであり、ほかにトゥールーズ(トロサ)を中心とするガリア南部からイベリア半島にかけては西ゴート王国[9]ウォルマティア(ヴォルムス)の周囲にはブルグント王国が形成された[注釈 3]。また、ガリア北西部にはサクソン人が移住したほか、ケルト系ブルトン人ブルターニュ半島に移住を進めつつあった[11]

メロヴィング朝

メロヴィング朝の成立

サリー・フランク人たちはローマ文化から多大な影響を受けていた。そのことは1653年トゥルネーで発見されたキルデリク1世(キルデリクス)王の墓の副葬品によって確かめられている[8]ランス司教のレミギウスの書簡によれば、キルデリク1世は第2ベルギカ属州を統治し、司教や諸都市に指示を与えていたとされる[12]。この時期のサリー・フランク人は、西ローマ皇帝マヨリアヌスによりガリア軍司令官に任命されていたアエギディウスと密接な関係を築いた。

ガリアで最大の勢力を築いていた西ゴート族とアエギディウスが戦ったとき、キルデリク1世はアエギディウスの同盟軍として戦った[11]。このキルデリク1世がメロヴィング朝の最初の「歴史的な」王である[13]。メロヴィングという名は、キルデリク1世の父親とされるメロヴィク(メロヴィクス)に由来し、「メロヴィクの子孫」という意味である[14]

481/482年から511年まで、クローヴィス1世時代の領土変遷

キルデリク1世の息子がクローヴィス1世である。クローヴィス1世は466年ごろに生まれ、481年もしくは482年に父キルデリク1世の死を受けて「フランク人の王」の地位を継いだ[14]。クローヴィス1世が王位を継承したとき、北ガリアでは、キルデリク1世の同盟者であったガリア軍司令官・アエギディウスの息子であるシアグリウスが「ローマ人の王」と呼ばれ、カンブレー地方からロワール川までの支配権を抑えていた[15]。クローヴィス1世は父親同士が最後まで崩さなかった友好関係を破棄し、北ガリアの覇権をめぐってシアグリウスと争った。486年ソワソンの戦いでクローヴィス1世がシアグリウスを打ち破り、ロワール川流域までフランク族の支配が広がった[15][16]。その後、クローヴィス1世は周辺諸部族との戦いに次々と勝利を収めていく。491年にライン地方でテューリンゲン族英語版を撃破して服属させ、496年スイス地方でアレマン人に勝利した[15]トゥールのグレゴリウスの伝えるところによれば、この間にブルグント王・グンドバト英語版の姪、クロティルダと結婚した。彼女はカトリック教徒であり、その教化と対アレマン戦での奇跡的な勝機の出現に啓示を得たクローヴィス1世は、従士3,000人とともにランス大司教のレミギウスによってカトリックの洗礼を受けたとされる[15]

クローヴィス1世はさらに507年、ライン・フランク人とブルグント族の支援を受け[17]ヴイエの戦いでガリア最大の勢力であった西ゴート王国に勝利をおさめ、その王アラリック2世を戦死させた[15]。西ゴートを支援する東ゴート王国の介入のために地中海へ到達することは叶わなかったものの[17]、これによりガリア南部(ガリア・アクィタニア)から西ゴートの勢力を駆逐し、イベリア半島へと追いやった[18]。クローヴィス1世の勢力の急激な拡張は、フランク族のほかの王たちとの間に軋轢を生んだ。この段階においても、クローヴィス1世はフランク族の唯一の王であったわけではなかった[19]。クローヴィス1世以外のフランク族の王についての情報は乏しいが、カンブレーを中心とするラグナカール英語版、支配地域不明のカラリク英語版、ケルンを中心とするシギベルト跛王英語版などのフランク王の名が伝えられている[19]。西ゴートをガリアから駆逐したあと、クローヴィス1世は策略によってこれらの王国を奪い取り、ついに唯一のフランク人の王となった[19]。その時期は508年以降であると考えられている[19]。このため、のちにクローヴィス1世は「フランク王国の初代の王」と記録されている[19]

また、西ゴート戦からの凱旋のあと、東ローマ皇帝アナスタシウス1世から西ローマの執政官職(コンスル)への任命状が届けられた[18]。この称号はもはや単なる名誉職に過ぎなかったが、クローヴィス1世の王国が東ローマ皇帝(この時点では唯一のローマ皇帝である)から正式に承認され、フランク王国によるガリア支配がローマの名の下に正当なものであることを意味した[20]。クローヴィス1世はコンスルを自身の正式な称号に付け加えることはなかったが、この事実はガリアに多数住むローマ系住民に強くアピールするものであった[20]。彼は特にローマ系住民の多いガリア南部の支配を確実なものにするためにこの称号を利用したように思われる[20]

分王国

クローヴィス1世死亡時の分割相続(511年

クローヴィス1世は511年、パリにあるシテ島の宮廷で歿した[18]。フランク族では分割相続の習慣があった。そのため、クローヴィス1世の死後、その王国はテウデリク1世ランス)、クロドメールオルレアン)、キルデベルト1世パリ)、クロタール1世ソワソン)の4人によって分割された[21]。クローヴィス1世の息子たちはフランク王国の領土をさらに拡大し、フランクは旧西ローマ帝国領内に成立したゲルマン諸国家の覇者となった[21]。テウデリク1世とクロタール1世はサクソン人(ザクセン人)の支援を得てエルベ川からマイン川に至る地域に勢力を持っていたテューリンゲン人の王国を滅ぼし、サクソン人との間で分割した[21][22][23]。キルデベルト1世は533年ピレネー山脈に到達し、537年にはプロヴァンスを征服した[23]。彼らは524年534年と2度にわたる遠征によってブルグント王国を滅ぼし、支配下に置いた[21]。そしてアレマンネンとバイエルンへも勢力拡張が行われたが[23]ランゴバルド族に阻まれてイタリアへの勢力拡張はならなかった[23]

クロタール1世死亡時の分割相続(561年

クローヴィス1世の息子たちの王国をその死後に相続する可能性があった相続人は排除された。524年にクロドメールが死亡すると、彼の息子たちは暴力によって除かれ、その遺領はキルデベルト1世とクロタール1世によって分割された[24]。テウデリク1世は534年に歿し、その領土は息子のテウデベルト1世に継承された[24]。そのテウデベルト1世も555年に死亡し、キルデベルト1世も558年に死亡すると、クローヴィス1世の息子の中で唯一人生き残っていたクロタール1世が全フランクの王となり王国は再統一された[25]。しかし、クロタール1世はサクソン人やテューリンゲン人の蜂起や、息子であるフラム英語版の反乱に忙殺され、それ以上の勢力拡大はできなかった[26]

彼が561年に死亡すると、フランク王国は当然のこととしてクロタール1世の息子たちによって再び分割された[21][27]。長兄のシギベルト1世英語版はランスの王国を継承した。この分王国の首都はやがてランスからメスへと移動し、分王国はアウストラシア(東王国)と呼ばれるようになった[21]。次男のグントラム英語版はオルレアンの王国を継承した。

この王国には旧ブルグント王国領が含まれ、その統治に便利なシャロン=シュル=ソーヌへ首都が移された[28]。第三子カリベルト1世はパリの王国を、末子キルペリク1世はフランク族の故地を含むベルギー地方を継承した[28][注釈 4]567年には早くもカリベルトが死亡したため、パリの王国は残る3人によって分割され、その首都パリは一種の中立都市となった[28]。これによってキルペリク1世の王国は大西洋沿岸全域を含むようになり、ネウストリア(西王国)と呼ばれるようになった[28]。また、グントラムの分王国はブルグンディアと呼ばれるようになった。575年、ネウストリア王キルペリク1世の妻フレデグンドが刺客を放ちアウストラシア王シギベルト1世を暗殺すると、シギベルト1世の息子、キルデベルト2世英語版とその母ブルンヒルドがアウストラシア王位を継承し、三勢力の間で同盟と離反を繰り返す激しい権力闘争が始まった[28]。この争いの中で、フランク王国を構成する3つの分王国の枠組みが形成されていき、旧ローマ世界の枠組みは徐々に喪失していった[28]

王家の争い

版図という意味ではクロタール1世の死亡時がメロヴィング朝で最大の時期であり、以後これを上回る支配地を持つことはなかった[29]。アウストラシア王シギベルト1世は、西ゴート王国の王女ブルンヒルドと結婚した。この繋がりに脅威を感じたキルペリク1世は元の妻を退け、自らも西ゴートの王女でブルンヒルドの姉妹であるガルスヴィンタ英語版と結婚した[27]。しかし、キルペリク1世の愛妾フレデグンドはガルスヴィンタを殺害し、自らが王妃の地位に上ったと伝えられている[27]。このため、おそらくブルンヒルドの強い意向のもと、シギベルト1世はキルペリク1世と対立するようになった[27]。これに対してネウストリア王妃となったフレデグンドとキルペリク1世はシギベルト1世の暗殺という対応で応えた[30]

アンドロ条約後の所領(587年)クロタール2世は613年までにこの全域を手中にした

ブルンヒルドとシギベルト1世の廷臣たちは、残された幼い王子キルデベルト2世英語版をアウストラシア王に選出したが、外国出身の王妃の立場は不安定であった[30]。彼女はやむなくブルグンディア分王国の王グントラムに支援を求めた。息子がいなかったグントラムは要請に応じ、キルデベルト2世を養子とした[30]。さらに、584年にはキルペリク1世も暗殺された。彼もまた、幼い王子クロタール2世を遺したのみであり、フレデグンドもまたグントラムに後見を求め、クロタール2世はグントラムの庇護下に入った。この結果、2人の甥を後見することとなったブルグンディア王グントラムは、587年に仲介者としてアンドロ条約英語版を締結させた[30]。この条約によって不透明であった領土上の問題が解決された。また、争いの発端となった王妃ガルスヴィンタ殺害事件のあとに残された彼女の持参財を、姉妹であるブルンヒルドが相続することも定められた[30]。また、グントラムの後継者は養子となったキルデベルト2世であることも決定された[30]

南ガリアでは、クロタール1世の遺児を自称するグンドワルドゥス英語版が王位を主張して勢力を拡大した。コンスタンティノープルからやってきた彼は、東ローマ帝国の支配をこの地に及ぼすための使者ではないかという見方が広まり、そのことがボルドー司教ベルトラムヌス英語版をはじめとした多数の有力者が彼の陣営に馳せ参じる原因となった[31]。結局、この僭称者はグントラムが派遣した軍隊によってサン=ベルトラン=ド=コマンジュ英語版で討たれた[31]

592年にグントラムが死亡すると、キルデベルト2世がアウストラシアとブルグンディアを相続し、フランク王国の大部分を支配することとなった[30]。一方、クロタール2世はネウストリアを継承した。ところが、早くも596年にキルデベルト2世が死去すると、その息子テウデベルト2世英語版がアウストラシアを、テウデリク2世英語版がブルグンディアを継承した。当初は祖母ブルンヒルドの監督下に置かれたが、兄弟は不和となり、612年にテウデリク2世はテウデベルト2世を攻めてこれを打ち滅ぼした[32]。この兄弟の争いはネウストリア王クロタール2世に漁夫の利を与えた。アウストラシアの廷臣であったアルヌルフ英語版ピピンは、テウデリク2世に対抗するためにクロタール2世の支援を求め、これに応じたクロタール2世の攻撃によって、613年にテウデリク2世とその息子たちは殺害された[32]。クロタール2世はその年、老王妃ブルンヒルドも捕らえて処刑した。これによってフランク王国は半世紀ぶりにただ1人の王、クロタール2世の下に統治されることになった[33]

クロタール2世とダゴベルト1世

メロヴィング朝フランク王国(600年ごろ)

クロタール2世はただ1人の王となったが、半世紀にもわたる分裂を通じてアウストラシア、ネウストリア、ブルグンディアという枠組みに沿った政治的伝統が確立されており、クロタール2世がネウストリアを軸にして一元的な王国として統合するのは困難であった[34]614年、秩序を再編するためにパリで3つの王国の司教、有力者を集めた集会が開かれた[35][34]。クロタール2世の勝利には、アウストラシアやブルグンディアの貴族勢力が重要な役割を果たしており、彼らの意向を無視することは政治的な冒険であった[34]。このため、アウストラシアとブルグンディアの貴族たちがそれぞれの分王国を宮宰によって自律的に統治することを主張したとき、クロタール2世はこれを拒否することはできなかった[34]。貴族たちが国王大権を認める代わりに、王は貴族や教会の特権を承認した[35]

各分王国の国王の役人は、それぞれの分王国の在地の人間から登用されることが定められ、彼らの不正や横領については自らの財産によって責任を負うことも定められた[35]。この決定は歴史上「パリ勅令英語版」の名で知られている[34]。これはしばしば貴族側の地域的利害に対する王権の屈服を示す証拠として歴史学者から取り扱われるが、少なくてもクロタール2世の時代には王権は貴族層を掣肘する実力を有していたと考えられ、むしろ各分王国(特に勝者であるネウストリア)の貴族が無分別にほかの分王国に勢力を拡張するのを防止する処置として当初は構築されたものとされる[34]。クロタール2世の貴族に対する強力な指導力を示す出来事として、ブルグンディアの宮宰ワルカナリウス2世英語版が626年に死去した際、その息子が地位を継承することを阻止するために即座に介入を行い、門閥の形成を阻止したことがあげられる[36]。この事件のあと、ブルグンディアは地位的特性は維持したものの、政治的にはネウストリアと一体化し、ネウストリア=ブルグンディア分王国としてその歴史を歩むことになる[36]

クロタール2世と幼いダゴベルト1世、14世紀もしくは15世紀の作品

しかし、パリを拠点に全王国を統治したクロタール2世は独自の王の擁立を主張するアウストラシア貴族層の要求に折れ、623年に20歳ごろの息子ダゴベルト1世をアウストラシア王として送り出した[36]。アウストラシアの政界で権力を握ったのは宮宰のピピン1世(大ピピン)とメス司教アルヌルフであった[36]。当時のアウストラシアの脅威はバイエルンのクロドアルド(Chrodoald)であったが、ピピン1世とアルヌルフはダゴベルト1世を巧みに操り、バイエルンの脅威を除くことに成功した[36]。しかし、ダゴベルト1世は単なる傀儡で終わる人物ではなかった。629年にクロタール2世が死去すると、ダゴベルト1世はアウストラシア貴族の支持を得てネウストリア=ブルグンディア分王国をただちに掌握した[37]。そして自身の宮宰であるピピン1世がネウストリアでも勢力を振るうのを避けるため、ネウストリアの宮宰としてアエガ英語版という人物を登用し、ブルグントの貴族には自前の軍隊を編成することを承認して慰撫した[37]

ダゴベルト1世はまたフランク王国の拡大と国境地帯の安定にも意欲を見せた。異母弟のカリベルト2世英語版トゥールーズを首都とするノヴェンポプラニア英語版を与え、バスク人に対抗させた。カリベルトはバスク人を討ち南の国境を安定させたが程なくして死亡した[37]。また、ブルターニュ地方ではブルトン人の王聖ユディカエル英語版を威圧して服属を約させ、ライン川下流域ではフリース人からユトレヒトドレスタット英語版の要塞を奪った[37]。フランク人の冒険商人サモ英語版ボヘミアに組織したヴェンド人の国家に対する大規模な遠征も631年に行われたが、この遠征はさしたる成果を上げることなく終わった[37]633年には、ダゴベルト1世の長子シギベルト3世英語版がアウストラシア王として擁立された[38]

ダゴベルト1世はキリスト教会とも密接な関係を築いた。パリ北部にあるサン=ドニ修道院(現・サン=ドニ大聖堂)へ広大な土地と流通税免除特権、および大市での取引税収入を付与する特権賦与状が発行され、この後サン=ドニ修道院はフランク王国とのちのフランス王国の王室の埋葬修道院として機能するようになった[37]。また、ダゴベルト1世の宮廷で教育を受けた高級官職者たちは、その死後に一斉に宮廷生活を離れて聖界へ身を投じ、司教や修道院長として活躍した[39]。異教の風習が根強く残るネウストリアの沿岸地方で伝道が行われるとともに、教区の組織化や修道院の建設が熱烈に行われた[39]。7世紀の間に北ガリアの田園地帯だけで180あまりの修道院が建設されたが、そのほとんどはダゴベルト1世の宮廷の廷臣たちによって、あるいは彼らの影響下において建設された[39]

宮宰の政治

クローヴィス2世への貢物アルベール・メニャン作、1883年。

639年にダゴベルト1世が病没したとき、その息子クローヴィス2世はまだ5歳であった[39]。アウストラシアではダゴベルト1世の生前からシギベルト3世が王として君臨していたのに対し、ネウストリア=ブルグンディア分王国ではダゴベルト1世の未亡人ナンティルド英語版と宮宰アエガが実権を握った[39]。アエガの死後にはネウストリア北西地方の有力家門出身のエルキアノルド英語版が宮宰職を引き継ぎ、権勢を振るった[40]。エルキアノルドはダゴベルト1世の母ベルテトルド英語版の縁戚であり、自分の娘をイングランドケント王に嫁がせるとともに、自分が所有するアングロ・サクソン人の家内奴隷バルティルド英語版をクローヴィス2世の王妃とした[41]。これによってエルキアノルドは終始ネウストリアの宮廷で強力な発言権を維持することができた[41]。エルキアノルドの周囲を取り巻く状況が強く英仏海峡地帯の色彩を帯びていることは、この時代に海峡地方の商業的、政治的結びつきが深化していたことを示すと考えられている[41]

クローヴィス2世も657年に死去すると次の王クロタール3世も幼くして即位し、寡婦となったバルティルドが摂政となった[41]。かつての主人であったエルキアノルドも658年に死去すると、彼女は中央集権的な体制を構築しようと目論見、また修道院への強い共感から、修道院を司教権力から免属させることを試みた[41]。このバルティルドの政策により、ブルグントの自立を画策していた幾人かの司教が殺害されるとともに、修道院は司教の監督下から自由となり資産管理を独自に行うことができるようになった[41]。このことは、のちの大規模領主としての修道院誕生の制度的起源となった[41]。バルティルドはさらに、中央集権の進展を期待してネウストリア宮廷の行政部出身のエブロインを宮宰に任命した[41][40]。しかし、クロタール3世が成長して親政を始めるとバルティルドと対立するようになり、結局エブロインによってバルティルドは修道院に押し込められ終生をそこで過ごすことになった[42]。このエブロインは非貴族層の出身でありネウストリアの貴族層とたびたび対立した[42]。エブロインは中央集権を目指すバルティルドの政策は引き継ぎ、国王権力を強化するとともに分離主義的なブルグンディアの動きに対抗した[42][40]。クロタール3世が672年に死去すると、ネウストリア貴族と協議することなくもっとも若い王子であるテウデリク3世を王位につけることを画策した[42]。これにはオータン司教レウデガリウスを中心に激しい反対の声が上がり、エブロインはとらえられてリュクスイユ修道院英語版に幽閉されることとなった[42]。しかし隙を見て脱出したエブロインは政権を取り戻し、レウデガリウスを斥けてテウデリク3世とともに再びネウストリアの支配権を握った[42][43]

テウデリク3世

一方のアウストラシアでは前述のシギベルト3世が王位にあったが、政治の実権は対立党派を退けて宮宰となったグリモアルド1世が掌握していた[42]。彼はピピン1世の息子である。グリモアルド1世は絶大な権力を振るい、王に嫡子がいなかったことを利用して自分と同名の息子グリモアルドをシギベルト3世の養子とし、キルデベルト(養子王)と改名させた[42][40]。しかし、まもなくシギベルト3世に息子ダゴベルト2世英語版が誕生したため、656年にシギベルト3世が死去すると当然のごとく王位継承に問題が発生した[42]。グリモアルドはダゴベルト2世をアイルランドの修道院に追放し、自らの息子キルデベルトを王位につけることに成功した[42]。しかし、この王位の簒奪を批判したネウストリア王クロタール3世がアウストラシアを急襲し、662年にグリモアルド1世はとらえられ殺害された[42]。こうしてアウストラシア王位にはクロタール3世の兄弟キルデリク2世が据えられたが、彼もまた675年にネウストリア貴族の一派によって暗殺された[42]。次いでアイルランドの修道院からダゴベルト2世が呼び戻されアウストラシア王となったが、彼も679年に暗殺の憂き目にあった[42]。ダゴベルト2世暗殺の実行者とされるヨハネスはネウストリアの宮宰エブロインの手のものであったとされており、このような暗殺劇はエブロインがネウストリアを中心としたフランク王国の完全な統合を目指していたことを示すと考えられる[44]

この一連の混乱によって、ネウストリア=ブルグンディア王のテウデリク3世が存命している唯一のメロヴィング家の王となった[44]。さらにエブロインはテウデリク3世への服属を要求してアウストラシアへ軍を進め、680年、アウストラシアで権力を手中にしていたピピン2世(中ピピン[注釈 5])とマルティヌスの軍を撃破した[44][45]。しかし間もなくエブロインも彼に恨みを持つネウストリアの貴族エルメンフレドゥス(Ermenfredus)によって暗殺された[45]

クローヴィス4世とピピン2世

エブロインの死後、ネウストリアの宮宰になったのがワラトー英語版である[44]。ワラトーは就任後すぐにピピン2世と和平を結んだが、これに反対するワラトーの息子ギスルマール英語版は父を追放し、ピピン2世との戦いを再開した[44]。ギスルマールはこの戦いの中で戦死し、再びワラトーが宮宰職に返り咲いた[44]。ワラトーの死後、その妻であるアンスフレディスフランス語版が長老として大きな発言権を保持するようになった[44]。アンスフレディスの意向により彼女の娘婿のベルカリウスがネウストリアの宮宰となった[44]。アウストラシアにおいてピピン一門が宮宰職を事実上世襲したように、ネウストリアにおいてもこの職は門閥的支配の道具となっていた[44]。この状況はネウストリア貴族の間に強い不満を醸成させた。その代表がランス司教レオルス英語版であり、彼の扇動によりピピン2世は大量の従士軍を動員してネウストリアに進軍した[44]テルトリーの戦いでピピン2世率いるアウストラシア軍が勝利した後、ピピン2世は唯一のフランク王として君臨していたテウデリク3世を手中に収め、王国のただ1人の宮宰となった[44]

カロリング家の台頭

714年、ピピン2世が死去した時点のフランク諸王国。
トゥール・ポワティエ間の戦い、1837年作、ヴェルサイユ宮殿所蔵。

ピピン2世が714年に歿したとき、その妻プレクトルードの間にはドロゴ英語版グリモアルド2世という2人の息子がいたが、すでに死没していた[46]。また内縁関係にあったアルパイダ英語版との間に息子カール(カール・マルテル)が生まれた[46]。実権を握ったプレクトルードは、グリモアルドの子で自身の孫にあたるテウドアルドを後継者に選び、カールを幽閉した[46]。しかしこの人事にネウストリア貴族たちは従わず、同じネウストリア人であるラガンフリドを自分たちの宮宰に選出した[46][47]。ラガンフリドは、プレクトルードが派遣したアウストラシア軍を撃破し、キルデリク2世の息子ダニエルを修道院から引っ張り出してキルペリク2世としてネウストリア王に擁立した[46]

この敗北によってアウストラシアが混乱に陥ると、その隙をついてカールが脱出しアウストラシア軍の敗残兵を糾合してネウストリア軍への対応を引き継いだ[46]716年、カールはマルメディの戦いでネウストリア軍を撃破し、翌年にはヴァンシーの戦いでも勝利した[46]。さらに719年、バスク人などと手を結んだラガンフリドに対しサンリスソワソンの間でカールが勝利をおさめた[46]。カールはその後ライン地方を掌握し、732年にはイベリア半島から北上してきたアブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキー英語版率いるイスラーム軍をトゥール・ポワティエ間の戦いで撃破して以後のイスラーム勢力のヨーロッパでの拡張を抑えることに成功した[48][49]

カールは735年以降にはほとんど毎年のようにガリア南部のミディ地方やプロヴァンス地方に遠征を行った[48]。この遠征による破壊と惨禍はイスラームによるそれをはるかに凌駕するものであり、いまだ古代的な名残を留めていた南部社会の転換期を画するほどのものであった[48]。このことから彼の行動は神が振り下ろした鉄槌(マルテル)とされるようになり、彼は「カール・マルテル」の名で後世に知られることになった[48][50]737年には当時フランク王の座にあったテウデリク4世が死去したが、その後王位は空位のまま放置された[51]。もはや実質的なフランク王国の支配者がメロヴィング家の王ではないことは誰の目にも明らかであった[51]

739年には、ランゴバルド族の侵攻に窮したローマ教皇グレゴリウス3世がカール・マルテルに救援を求めてきた[52]。カール・マルテルはランゴバルド王リウトプランド英語版と同盟を結んでいたため、このときの救援は行われなかったが、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の実質的な保護を喪失しつつあったローマ教皇庁はこのころからフランク王国の庇護を求め始める[52]

カロリング朝

カロリング朝の成立

フランク王国の事実上の支配者として内外から認識される存在となっていたカール・マルテルは741年に死去した[53][49]。この時点でカール・マルテルには正妻クロドトルード英語版との間にカールマンピピン3世(小ピピン)、内縁関係にあったバイエルン王女スワナヒルド英語版との間にグリフォ英語版という息子がいた[53]。死の直前、カール・マルテルはフランク的伝統に則り、王国を三分割してそれぞれの息子に分与しようとしたが、クロドトルードの2人の息子、カールマンとピピン3世は共謀してグリフォを捕らえ、ヌフシャトールクセンブルク)に幽閉してグリフォの相続分を2人で分割した[53]。結果、カールマンの支配地はルーアンセーヌ川、パリ、ソワソンを結ぶ線の西側全域となり、ピピン3世の持ち分はアウストラシアとなった[53]。彼らは協力して空位となっていたフランク王位にキルペリク2世の息子キルデリク3世を擁立し、自分たちの支配権の正統性を根拠づけた[53]

キルデリク3世の剃髪。

747年、突如カールマンが俗世を放棄してイタリアのモンテ・カッシーノ修道院に隠棲するという事件が発生した[54]。また、恩赦によって釈放されたグリフォは結局ザクセンとバイエルンの協力を得て反乱を起こした。この反乱は747年のザクセン遠征と、翌748年のバイエルン遠征によって鎮圧された[55]。この結果、事実上フランク王国の単独の支配者(宮宰)となったピピン3世はメロヴィング家の王を廃して自ら王位に就くことを画策するようになった[54]。ネウストリア貴族などの強い抵抗が予想されたため、ピピン3世はローマ・カトリック教会の権威を求め、教皇ザカリアスに協力が要請された[54]。ローマ教会側でも政治的庇護者を必要としていたことから、この内諾が得られると、751年にソワソンで「フランク人」が招集されその場でフランク王に推戴され、また神によって王に選ばれたことを示す塗油の儀式が教皇特使ボニファティウスによって行われた[54][56][注釈 6]。この国王塗油の儀式はまた、カロリング家がメロヴィング家の「神聖な」血統に基づく権威に勝る新たな権威を教会に求めたことを意味した[56]。このため、ピピン3世の祝聖は西ヨーロッパにおけるキリスト教的王権観の発展にとって画期的意義を持つものとなった[58]。メロヴィング家の最後の王、キルデリク3世は剃髪の上でサン=ベルタン修道院英語版に、その息子テウデリクがサン=ヴァンドリーユ修道院英語版に、それぞれ幽閉され二度と歴史の舞台に立つことはなかった[54]。こうしてカロリング(カール・マルテルの子孫)の王朝が成立した。

ピピンの寄進

ピピンの寄進

ピピン3世の即位を通じて神と人の仲保者キリストの代理人としての国王、教会の保護者としての国王の職務が強調されるようになった[56]。ピピン3世は教会会議を開催し、教会に土地を付与して保護し、司教を教区の最高の長とし、大司教区を設置した[56]754年、教皇ステファヌス2世はさらなるランゴバルド王国からの攻撃に対抗するためにビザンツ帝国(東ローマ帝国)の支援を求めたが何ら有効な支援が得られず、代わりにフランク王国へと赴いた。ピピンはローマ・カトリック教会の厚意に報い、教皇とともにイタリア遠征を行ってランゴバルド王国の王アイストゥルフ(アストルフォ)に宗主権を認めさせるとともに、彼がビザンツ帝国から奪ったラヴェンナ総督府とその周囲の都市をローマ教皇へ返還させた[59]。ピピン3世が帰国するとアイストゥルフは再度ローマを攻撃したため、756年に再びフランク軍がランゴバルドを攻撃し、その占領地を奪回した[59]。アイストゥルフは降伏し、ランゴバルド王国はその王領地の3分の1を引き渡し、かつてメロヴィング朝時代に課せられていた貢納が復活されることになり、フランク国王の全権委任者の手を経て占領地をローマ教皇へ「返還」することを余儀なくされた[60]。ピピン3世はこのとき、都市ローマの宗主権と奪還したラヴェンナ総督府領やチェゼーナリミニペサロサン・マリノモンテフェルトロ英語版ウルビーノなどの都市を教皇に寄進した[54]。これが歴史上「ピピンの寄進」(ピピンの贈与)と呼ばれるものであり、これによってローマ教皇領の基礎が形成されることになった[54]。ビザンツ帝国からの急使がピピン3世を訪れ、ラヴェンナ総督府領は帝国の領土であるという抗議を行ったが、ピピン3世は自身が聖ペトロへの敬愛と自らの罪の赦しのために戦いに従事しているのであり、それによって得られたものは聖ペトロのものとなるべきだと主張して反論した[61][60]

また、ピピン3世はイタリアのほかにも国境地帯へ軍を派遣して各地を制圧した。752年からは西ゴート王国滅亡後も西ゴート人が現地で勢力を持っていたセプティマニアの支配に取りかかり、759年には最後に残った都市ナルボンヌの在地西ゴート人勢力に対し、引き続き西ゴート法を適用することを保証してこれを支配下に置いた[62]。これによってフランク王国は初めてガリア全土を支配下に置いた[62]。また、当時名目上フランク王国領ではあったものの事実上独立勢力化していたアキテーヌの大公ワイファリウス英語版を攻撃した。アキテーヌの制圧はてこずり、結局768年にワイファリウスが暗殺されるまで続いた[62][63]

カール大帝(シャルルマーニュ)

カール1世とカールマン1世によるフランク王国の分割相続(768年

ピピン3世は768年に歿し、その息子カール1世(シャルル、大帝)とカールマン1世が即位した。カール1世がアウストラシア中枢部、ネウストリア沿岸部、アキテーヌの西半を、カールマン1世はブルゴーニュ(ブルグンディア)、アレマンネン、ラングドックプロヴァンスを分割して継承した[64][65]。『フレデガリウス年代記』によれば、この分割相続は、ピピン3世の死の数日前に聖俗の貴族との相談で決まったという[65]。しかし両者の不仲はすぐに深まり、すでに翌769年には対立は決定的なものとなっていた[66]。さらにカール1世の長子ピピンが先天性障害を持って生まれ王位継承資格に不安が広がった一方、カールマン1世は770年に生まれた自分の長子に同じピピンの名を与えた[67]。カール1世と同じように息子に祖父ピピンの名を与えた行為は、カールマン1世が自身の息子の方が真の王位継承者であると宣言するに等しい行為であった[67]。最終的に、カール1世の分王国がカールマン1世の分王国に併合される可能性が生じたことでカール1世の威信は傷つき、政治的に劣位に立たされた[67]。この事態に両者の母ベルトラーダが和解を目指して奔走し、双方の勢力バランスを取るべくカール1世とランゴバルドの王女との縁談を進め成立させた[67]。この縁談の話が漏れると、カールマン1世はローマ教皇(ローマ教会はランゴバルドとフランクの分王国の王の間に同盟関係が構築されるのを脅威と考えた)との同盟を志向したが、ベルトラーダは強い政治力を発揮しローマ教皇がカールマン1世と結びつくのを阻止した[68]

この結果、771年春にはローマ教皇座の反ランゴバルド勢力が決定を不服として蜂起したが、ランゴバルド王はローマに向かって進軍して圧力をかけた[69]。結局反乱は鎮圧されたが、カールマン1世は問題を解決するためにランゴバルド王国とローマを支配下に置くべく出兵を計画した[69]。全面的な戦争は時間の問題であったが、771年12月4日、カールマン1世が急死したことで両者の対立は解決され、カール1世が単独の王として君臨することとなった[69][70]。カールマン1世の王妃ゲルベルガと息子たちはわずかな数の家臣とともにランゴバルド王国へ亡命した[71]

カール1世はその統治期間のほとんどを戦争に明け暮れて過ごした。まず単独の王となる前の769年に、暗殺されたアキテーヌの大公ワイファリウスの息子フノルドゥス2世フランス語版が再び反乱を起こしたため、これを鎮圧した[72]773年から774年にかけて、故カールマン1世の妻ゲルベルガと子どもを保護していたランゴバルド王国を追討するためイタリアに遠征が行われた[73]。そして首都パヴィアを陥落させてランゴバルド王国を制圧し、ローマ市に入場した[74]。カール1世は自ら「ランゴバルド人の王」となり、かつて父ピピン3世がローマ教皇と交わした約束を更新したが、その履行には関心を払わずローマ教皇ハドリアヌス1世はカールに対して不信の念を募らせた[75]776年にはパンノニアのフリアウル、778年にはピレネー山脈を越えてイベリア半島への遠征が行われ、イタリア北部に侵入したアヴァール人とも戦闘が行われた[74][76]776年にはまた、ランゴバルド人の反乱を抑えるため再びイタリア遠征が実施された[77]781年にもローマへの遠征が行われ[74]、さらに787年にはバイエルン大公タシロ3世英語版を降し[76]カプアも制圧した[74]791年796年にはアヴァール人の根拠地を攻撃し、アヴァールのハーンの宮殿を略奪して膨大な戦利品を獲得した[76]。 また、即位以来30年あまり続けられていたザクセン人の征服も、804年についに成し遂げられた[78]

こうしてフランク王国の領土をかつてない規模で拡大する一方で、カール1世はローマ教皇庁に対しても教義の面でも権威の面でも自らの方が上位者であることを知らしめた[79]。カール1世は、787年第2回ニカイア公会議において、ローマとコンスタンティノープルがともに聖像破壊論争(イコノクラスム)を解決しようとしたあと、信仰の問題についても教皇に譲るつもりがないことを示すため、この成果を無に帰す意図をもって794年フランクフルトで教会会議を開催した(フランクフルト教会会議英語版[79][80]。この会議において教皇使節は発言を撤回せざるを得ず、カール1世が教皇ハドリアヌス1世を廃位してフランク人高位聖職者に挿げ替えるつもりであるという噂まで流れた[79]795年にハドリアヌス1世が死去したあと、ローマ教皇庁はフランク王国に従順であると考えられたレオ3世を新たな教皇に選んだ。彼はその在位を通してフランクからの支援に依存することになった[79]

皇帝戴冠

16世紀に描かれたカール大帝の肖像(アルブレヒト・デューラー作)
カール1世死亡時のカロリング朝の版図

教皇レオ3世により、800年クリスマスの日、ローマのサン・ピエトロ寺院(聖ペトロ大聖堂)でカール1世は皇帝に戴冠された[74][81][52]。この皇帝戴冠はむしろローマ教皇庁側の主導によって行われたと当時の記録は記すが、その理由については現在でははっきりわからない[82][注釈 7]。この戴冠に際して皇帝号は「いとも清らかなるカルルス・アウグストゥス、神によって戴冠されたる、偉大にして平和を愛する皇帝、ローマ帝国を統べ、かつ神の恩寵によりフランク人とランゴバルド人の王たる者[注釈 8]」となり、皇帝権は神によって忖度された制度として捉えられた。それをフランク、ランゴバルドの王が皇帝として保持することとなり、同時にキリスト教世界の支配者として定義付けられた[83]

カール1世は、西ローマ皇帝戴冠を記念して発行したコインに完全にローマ式の自分の姿を刻ませ、自らの印璽もコンスタンティヌス大帝のそれを模倣したものを用いた。印璽の裏側には「ローマ帝権の革新(renovatio imperii)」と刻ませ、古代ローマの様式を規範とする強い意志を見せている[85]。また、カール1世の治世にはローマの建築や古典ラテン語の再興と、それを基礎とした文学活動の隆盛が見られた[86]。このような文化的潮流はカロリング朝ルネサンスと呼ばれ、中世ヨーロッパ文化に多大な影響を遺した。ビザンツ帝国はカール1世の皇帝位を断固として認めなかったが、806年ヴェネツィアでの武力衝突の後、812年の和平の場で、カール1世が「フランク人の皇帝」であることを承認した[87]

カール1世の即位のあと、カロリング朝ルネサンスを代表する知識人の一人アルクィンがカールの支配領域を「キリスト教帝国Imperium Christianum)」と呼んだように、(カロリング朝の)帝国とキリスト教世界が一体視され、皇帝戴冠をもって「西ローマ帝国の復活」と見なす理解が一般化した[88]。カール1世は優れた指導力の下、統治制度を整備し、その治世は後世の諸国家にとって常に回顧すべき模範となった[89]

帝国の分割

王国分割令により分割されたカロリング帝国、806年時点の地図。

カール1世のカロリング帝国はその領内の諸民族がひとつのキリスト教世界を構成し、宗教や文化において一体であるとする共属意識をもたらしたが、最終的にはカール1世の強烈な個性と政治力によって維持されたのであり、個々人の関係を中心とする属人性を越えた一体的な法規や制度に基づく統治機構を備えるわけではなかった[90]。統治機構においては国家と同一的な存在となった教会組織網が重大な役割を果たしたが、教会組織も聖職者たちの人的結合にいまだその基礎をおいていた[90]。カール1世もまた、フランクの伝統的な分割相続に備え、自分の息子たちを各地に配置した[90]806年王国分割令ドイツ語版によって、すでにイタリア(ランゴバルド)分王国の王となっていたピピンと、アキテーヌの分国王となっていたルートヴィヒ1世(ルイ)の支配を確認するとともに、長男小カールにはアーヘンの王宮を含むフランキアの相続を保証することとし、それぞれの境界を定めた[91]。これは兄弟間での協力による王国の統一というフランク王国の伝統的原理を踏襲したもので、嫡男としての小カールの優越を保証するものではなかった[91]

しかし実際には、810年にイタリア王ピピンが、811年に小カールが相次いで歿したため、814年にカール1世が死去した時にはルートヴィヒ1世(ルイ敬虔帝)が唯一の後継者となった[91][92]。ルートヴィヒ1世の綽名「敬虔な(Pius)」は彼の宗教生活への傾斜から来ている[92]。彼は宮廷から華美を一掃した。評判の悪い姉妹たちを追放し、アーヘンから品行の悪い男女を締め出すことまでしている[92]。また、父カール1世に仕えていた宮廷人に変えて、アキテーヌ時代からの側近を登用した[92]。さらに、アニアーヌ英語版修道院の院長で、厳格な戒律の適用による修道生活の改革運動をしていたアニアーヌのベネディクト英語版を政治顧問とした[93]

ルートヴィヒ1世は814年に宮廷の木造アーチの一部が崩れ、それに巻き込まれて負傷するという事故が起きたとき、これを自己の生命が近いうちに終わるという不吉な予兆と見て、同年のうちに帝国の相続を定めて布告することを決定した[94][93]。これによって発せられたのが帝国整序令(帝国分割令)と呼ばれる有名な布告であり、この布告によって長子ロタール1世(ロータル1世)はただちに共治帝となり、次男ピピン1世はアキテーヌ王、末子ルートヴィヒ2世はバイエルンを相続することとなった。ルートヴィヒ1世の死後は、兄弟たちは長男ロタール1世に服属すべきことも定められた[94]。イタリア王ピピンの庶子ベルンハルトはこの決定に不満を持ち、818年に反旗を翻したが鎮圧され、イタリアはロタール1世の直轄地となった[95]。こうして早期に継承に関する取り決めがなされたが、バイエルンの名門ヴェルフェン家の出身でルートヴィヒ1世の王妃の1人であったユーディト・フォン・アルトドルフがシャルル2世(カール2世)を生むと、彼女は自分の息子にも領土の分配を要求した[94]。これは、統一帝国の理念の下、ロタール1世の単独支配を主張する帝国貴族団とヴェルフェン家の対立を誘発した[96]。また、ロタール1世の独裁を警戒するピピンとルートヴィヒ2世の思惑も絡み、複雑な権力闘争が繰り広げられることとなった[96][94]

緊迫した状況の中で、長兄のロタール1世が最初の動きを起こした。ロタール1世は830年、ブルターニュ遠征の失敗による混乱に乗じて父ルートヴィヒ1世を追放し、帝位を奪った[94]。しかし、ピピンとルートヴィヒ2世はこれに反対してルートヴィヒ1世を復帰させた。さらに833年にも同様の試みが行われ、834年にまたもルートヴィヒ1世が復位するなど、ロタール1世と兄弟たちとの争いは一種の膠着状態となった[94]。この争いのさなか、シャルル2世の成人(15歳)が近づきつつあった。母親のユーディトはロタール1世と結び、837年に、フリーセン地方からミューズ川までの地域とブルグンディア(ブルゴーニュ)をシャルル2世に相続させることをルートヴィヒ1世に認めさせた[97]。翌年にはアキテーヌのピピンが死亡し、その息子であるアキテーヌのピピン2世の相続権は無視されるかと思われたが、現地のアキテーヌ人たちはアキテーヌのピピン2世を支持した[97]

バイエルンを拠点に勢力を拡大したルートヴィヒ2世は、ルートヴィヒ1世がシャルル2世に約束した地域のうち、ライン川右岸のほぼ全域の支配権を主張して譲らず、840年に反乱を起こした[97][96]。この反乱を鎮圧に向かったルートヴィヒ1世は、フランクフルト近郊で急死した[97][96]

ヴェルダン条約

西フランク王国中部フランク王国東フランク王国(843年)

ルートヴィヒ1世の死を受けて、イタリアを支配していたロタール1世はローマ教皇グレゴリウス4世やアキテーヌ王ピピン2世と結ぶ一方、ルートヴィヒ2世とシャルル2世が同盟を組んでこれに対応した[97]841年、同時代の記録においてフランク王国史上最大の戦いとされるフォントノワの戦いで、ルートヴィヒ2世とシャルル2世が勝利し、ロタール1世は逃亡した[98][95]

ルートヴィヒ2世とシャルル2世はロタール1世を追撃する中、ストラスブールで互いの言語でロタール1世との個別取引を行わないとする宣誓を互いの家臣団の前で行った(ストラスブールの誓い[98]。この宣誓の言葉はシャルル2世の家臣ニタルト英語版(ニタール)の残した書物に記されて現存しており、ルートヴィヒ2世によるシャルル2世の家臣団への宣誓の呼びかけはフランス語(古期ロマンス語)が文字記録として残された最古の例である[98][95][注釈 9]。敗走するロタール1世は、弟たちに対抗するためにヴァイキングやザクセン人、異教徒であるスラブ人との同盟も厭わなかった[98]。争いの激化が互いの利益を損なうことを懸念した三者は、842年、ブルゴーニュのマコンで会談し、和平を結んだ[98]。この和平の席で、帝国の分割が改めて合意され、3人の王が40名ずつ有力な家臣を出して新たな分割線を決定するための委員会が設けられた[98]。この結果、843年ヴェルダン条約が締結され、分割線が最終承認された[99]

ヴェルダン条約の結果、帝国の東部をルートヴィヒ2世(東フランク王国)、西部をシャルル2世(西フランク王国)、両王国の中間部分とイタリアを皇帝たるロタール1世(中部フランク王国)がそれぞれ領有することが決定し、国王宮廷がそれぞれに割り振られた[99][注釈 10]。この分割は「妥当な分割」を目指して司教管区、修道院、伯領、国家領、国王宮廷、封臣に与えられている封地、所領の数などを考慮して決定された[99]。しかしその結果、各分王国の所領は(特にロタール1世の中部フランク王国について)きわめて人工的な、まとまりのない地域の寄せ集めとなり、統治は困難を極めた[100]

中部フランク王国の分解

855年のプリュム条約英語版による中部フランク王国の分割相続。

ヴェルダン条約締結の後、3人の王はそれぞれの領地に戻ったが、必要に応じて協議をするために定期的に参集することが取り決められていた[101]。この体制は「兄弟支配体制」と呼ばれている[101]844年に最初の会合が持たれ、帝国の一体性が確認され相互の協調が確認されたが、この体制は短期間しか維持されなかった[102]。皇帝ロタール1世は850年に、伝統的な帝国の宮廷であったアーヘンではなくローマで、ローマ教皇に息子であるルートヴィヒ2世[注釈 11](ロドヴィコ2世)の皇帝戴冠を執り行わせた[102]。このことは、皇帝戴冠を行う「正しい場所」をめぐる論争を引き起こした[102]855年、ロタール1世の死に際し、中部フランク王国はその息子たちによってさらに細かく分割された。長男のルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)が皇帝位とイタリアを、次男ロタール2世フリースラントからジュラ山脈までを(この地方はのちにこのロタール2世の名にちなんでロタリンギア(ロートリンゲン)と呼ばれるようになる)、三男のシャルルがブルゴーニュ南部とプロヴァンスを相続した[102]

プロヴァンス王となったシャルルはまだ幼年でありしかも病弱であったため、実権はヴィエンヌジラール・ド・ルシヨンが掌握した。彼はロタール2世と相談し、もしシャルルが相続人を遺さず死んだときはシャルルの王国をロタール2世の王国に併合することを構想した[103]。しかし、実際にシャルルが後継者のないまま863年に死亡すると、皇帝兼イタリア王ルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)がプロヴァンスの継承権を主張し、結局プロヴァンス王国はロタール2世とルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)の間で分割されることとなった[103]

ロタール2世のロートリンゲン(ロレーヌ)王国でも相続の問題が発生した。ロタール2世は妻のテウトベルガ英語版との間に後継者が生まれなかったことから、愛人のヴァルトラーダフランス語版と結婚することで庶子であるユーグ英語版を後継者にしようとしたが、この結婚をめぐってローマ教皇庁、東西フランク王国を巻き込む政争が発生した。東フランク王ルートヴィヒ2世と西フランク王シャルル2世はこれに乗じ、共謀してロタール2世の王国を分割することを約した[104]。結局ロタール2世はヴァルトラーダとの結婚を果たせず、正式の後継者を持てないまま869年に死去した[103]。この時点で、東フランク王ルートヴィヒ2世は重病の床にあり、皇帝ルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)はイタリアでイスラーム軍との戦いに忙殺されており、漁夫の利を得た西フランク王シャルル2世がロートリンゲン(ロレーヌ)王国を手中に収めた[102]

最後の統一

887年、最後の統一を遂げたフランク王国。黄色は教皇領

東フランク王ルートヴィヒ2世も865年に自分の死後の分割相続について定めた。彼の王国もまた中部フランク王国と同じように息子たちによって分割相続されることとなり[105]カールマンにバイエルンとスラブ人やランゴバルド人との境界地に設けられた辺境区が、ルートヴィヒ3世にオストフランケン(東フランキア)、テューリンゲンザクセンが、カール3世アレマンネン英語版ラエティア・クリエンシス英語版が割り当てられた[105]

この東フランク王ルートヴィヒ2世が、その軍事力を背景にロートリンゲンの継承権を主張したため、西フランク王シャルル2世は譲歩し、メルセン条約によってロートリンゲン(ロレーヌ)は両者間で分割された[106][105]。この条約の結果、中部フランク王国はイタリアを残して消滅し、現代のドイツフランスイタリアの国境の原型が形成された[105]

875年、皇帝兼イタリア王ルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)も後継者を遺さず死亡すると、シャルル2世はこの機を逃さず教皇ヨハンネス8世に接近し、イタリア王国の支配と皇帝の地位を手中に収めた[106][105][49]。続けて東フランクでルートヴィヒ2世が死去(876年)すると、西フランク王シャルル2世はフランク王国の再度の統一を実現しようと東フランクへ軍を進めた[106]。しかし、ルートヴィヒ2世の息子、ルートヴィヒ3世は残り2人の兄弟とともに連合軍を組織し、アンデルナハの戦い英語版で西フランク軍を壊滅させた[106][105]。統一の試みは失敗し、翌年シャルル2世はサヴォワで病没した[106]

その後、東フランクでは主導権を握っていたルートヴィヒ3世とカールマンが相次いで死去し、残っていたカール3世(肥満王)が予想外の幸運により東フランク全体の王となった[107]。カール3世はさらに、皇帝の地位とイタリア王位も手にした[108]。さらなる幸運が、カール3世に西フランク王位をもたらした。西フランク王国でシャルル2世の王位を継いだのは短命のルイ2世(ルートヴィヒ2世)であり、その息子であるルイ3世(ルートヴィヒ3世)とカルロマン2世(カールマン2世)も短期間に事故死した[106]。短期間に王が何人も交代する不安定な状況の中、実権を握った修道院長ゴズラン(Gozlan)は、西フランク王位をカール3世に委ねた[106]。名目的かつ一時的ではあったものの、これによってカール3世はフランク王国にただ一人の王として君臨する最後の人物となった。

ドイツ・フランス・イタリア

フランスの歴史

この記事はシリーズの一部です。
先史時代フランス語版英語版
年表

フランス ポータル
ドイツの歴史
東フランク王国
神聖ローマ帝国
プロイセン王国 ライン同盟諸国
ドイツ連邦
北ドイツ連邦 南部諸国
ドイツ帝国
ヴァイマル共和政
ナチス・ドイツ
連合軍軍政期
ドイツ民主共和国
(東ドイツ)
ドイツ連邦共和国
(西ドイツ)
ドイツ連邦共和国
イタリアの歴史

この記事はシリーズの一部です。

イタリア ポータル

単独の王となったカール3世であったが、能力が伴わず887年に東フランクのカールマンの庶子アルヌルフによって廃位され、翌年には死去した[107]。彼の退位と死はカロリング朝の一画期を記すものであった[109]。カール3世の死後、東フランクではアルヌルフによってカロリング家の支配が維持されたが、彼は西フランクの有力者から西フランク王位を薦められた際にはこれを拒否した。今や東フランクの王は完全にその地に地盤を張っており、西フランクの王位に興味を示さなかった[110]。この結果、西フランクではノルマン人の侵入を撃退して声望を高めていたロベール家のパリ伯ウード888年に王に推戴された[111]。これによって初めてカロリング家以外から王が誕生することとなった[111]。ウードの家系からはやがてフランス王位に登るカペー家が登場することになる[111]。イタリアでは、女系でカロリング家と血縁関係を持つフリウーリベレンガーリオ1世(ベレンガル1世)が諸侯の一部の支持を得てトリエントでイタリア王に選出された[112]

こうしてカロリング家によって建設された帝国と王朝は四分五裂の状態となった。しかし、弱体化しつつも帝国の栄光は残り、正当なカロリング朝の後継者として東フランクのカロリング家の宗主権はイタリアのスポレート公を除きすべての分国から認められていた[109]。血統的正当性を持たない西フランク王ウードは、東フランク王アルヌルフの宗主権を受け入れざるを得ず、後継者にはカロリング家のかつての王ルイ2世の息子シャルル3世(単純王)を指名しなければならなかった[113]。またイタリア王ベレンガーリオ1世も、軍事的圧力の下、アルヌルフからイタリア王位の承認を得なければならなかった[113]

西フランク(フランス)

ロベール家のウードが王位を得たあとも、正統な王家はカロリング家であるという意識は強力であり、ウードの後継者はシャルル3世(単純王)となった[114]。シャルル3世は領内に侵入してきていたノルマン人との間にサン=クレール=シュール=エプト条約を結んで情勢を安定させるとともに、911年にロートリンゲン(ロレーヌ)の内紛によってその王位を獲得した[114]。しかし、ロートリンゲン問題への傾注は貴族層の反発を招き、922年に大規模な反乱を引き起こした[115]

この反乱は鎮圧されたものの、シャルル3世は人望を喪失しペロンヌ城英語版にその死まで幽閉されることとなった[115]。この結果、西フランク王位はブルゴーニュのリシャール判官公ラウルに委ねられたが、936年に彼が後継者を遺さず死ぬと、カロリング家の復活が模索され、シャルル3世の息子ルイ4世が擁立された[115]。この後、987年ユーグ・カペーが即位するまで、カロリング家の王による統治が継続された。

東フランク(ドイツ)

ドイツ人王と称せられるルートヴィヒ2世の治世(840年 - 876年)から、アルヌルフが死ぬ899年までの期間、ごく短期間を除き東フランクではカロリング家の1人の王による統治が持続した[116]

その領域内には多数の部族、民族が居住していたが、王家と親族関係を築いた聖俗の貴族が王家の委託を受けて統治する複数の分国からなる国家へと成長していた[116]。その領域は後世に「ドイツ」と呼ばれる地域にほぼ合致し、単一の「ドイツ」民族への共属意識もこの時期に芽生えることから、歴史学上この王国は東フランク=初期ドイツ王国と呼ばれる[116]。アルヌルフは教皇庁の強い求めに応じてイタリアへ派兵し、896年にはローマ教皇フォルモススによって皇帝に戴冠された[117]

しかし、その主要な関心は西フランク王位の拒否からもわかる通り、東フランク内の分国に対する統制力の維持にあり、基本方針としてはイタリアに対し不介入で臨んだ[117]。彼は将来に備え、嫡出子優先の継承制度を整えたが、後継者となったルートヴィヒ4世900年に即位したとき7歳であり、王家の親族による合議で運営されるようになった[117]911年にこのルートヴィヒ4世が死去すると、カロリング王家の男系が断絶した[118]。西フランク王シャルル3世の擁立を目指す動きも不発に終わり、コンラート家コンラート1世が国王に推戴された[118]

イタリア

フリウーリベレンガーリオ1世(ベレンガル1世)の王位就任以降をイタリア史では「独立イタリア王国」の時代と呼ぶ。これはカール3世の死によってフランク王国からイタリアが独立した888年を始まりとし、オットー1世によって神聖ローマ帝国に取り込まれる962年までを言う[112]

女系でカロリング家と血縁を持ったベレンガーリオ1世に対し、同じく女系でこの王家とつながりを持つスポレートグイードが挑戦を挑み、勝利を収めた[112]。グイードはパヴィアでイタリア王に即位し、891年にはローマで皇帝戴冠を行った[112]。グイードの皇帝位はその息子ランベルトに継承され、ベレンガーリオ1世とランベルト双方から圧力を受けたローマ教皇フォルモススは東フランク王アルヌルフに救援を求めた[112]。この結果、896年にアルヌルフはベレンガーリオ1世とランベルトの抵抗を排してローマを占領し、そこで皇帝に戴冠された[112]。これは東フランク王によるイタリア政局介入の端緒となった[112]

アルヌルフとランベルトが相次いで死去すると、ベレンガーリオ1世は899年に改めてイタリア王となった[112]。しかし、ベレンガーリオ1世に反対するイタリアの諸侯の一部は、やはり女系でカロリング家の血を引くプロヴァンスルイ3世を担ぎ出して900年にイタリア国王に即位させ、901年には皇帝戴冠が行われた[112]。ベレンガーリオ1世は905年にルイを打ち破り、915年には教皇による皇帝戴冠を行った[112]。イタリア諸侯はなおも高地ブルグントの王ルドルフ2世を担ぎ出してベレンガーリオ1世に対抗した。ベレンガーリオ1世は923年に敗れ去り、翌年家臣によって暗殺された[119]。これによって神聖ローマ帝国に組み込まれるまで、イタリアでは皇帝の称号を持つ人物はいなくなった[119]


注釈

  1. ^ この名前は「勇敢な人々」[1]、「大胆な人々」[2]、あるいは「荒々しい」「猛々しい」「おそろしい」人々という意味である[3]
  2. ^ ベルギーとオランダにまたがる地域。
  3. ^ ブルグント族は後にフン族との戦いで壊滅的な損害を被り、サバウディア(サヴォワ)地方に移りその地で王国を再建した[10]
  4. ^ この分割割り当ては即興で決まったものではなく、ある程度計画的に予定が建てられていたものである。それはランス近辺を継承したシギベルト1世の名前が、クローヴィス1世によって滅ぼされたライン・フランク人の王シギベルトから取られており、旧ブルグント領を含むオルレアンの王国を継承したグントラムの名が、典型的なブルグント王族の名であることからわかる。彼らがあらかじめその地を継承することを想定して命名されていることは明らかである[28][27]
  5. ^ ピピン1世(大ピピン)の娘ベッガ英語版と、アルヌルフの息子アンセギゼル英語版の息子。グリモアルドの甥にあたる。
  6. ^ ピピン3世の即位はゲルマン法の慣習に則り、成員による選挙による形態をとった。一方で旧約聖書の記述による国王塗油の儀式を通じてキリスト教的観点から強化された。この国王塗油については既にイベリア半島の西ゴート王国が滅亡前に慣例化しており、西ゴートの慣習がフランク王国に影響を及ぼした可能性もある[57]
  7. ^ カール1世のローマ皇帝戴冠は西ヨーロッパの政治史、宗教史において決定的な事件であったが、それが当時決定された理由については議論の中にある。カール大帝の伝記を遺したアインハルト(エジナール)は「カールは皇帝位に嫌悪を感じていたので、もし彼が教皇の意図を事前に察知していたら、彼は尊ぶべき祭日にもかかわらず、教会へいくことはなかったであろう」と記し[83][84]、カール1世にとって皇帝戴冠は青天の霹靂であったかのように記録している。しかし、今日的理解としてはカール1世は自身の戴冠について事前に知っていたと想定して問題はない[84]。中世初期フランク史の研究者オイゲン・エーヴィヒは「カールがこのような行為によって驚かされたとか、皇帝位そのものを拒否したというようなことは、今日の研究水準からすれば、もはや認められない[83]。」としている。また、教皇側の意図についてバラクロウは、「全体として見るなら、教皇には先を見通した上での目的などなかったのではないだろうか。799年、道徳的にも政治的にも信用を失ったレオは陰謀に遭い、命の危険に晒されていた。したがって、教皇はカールに皇帝の権力を授けることで、自分を苦境から救い出してくれる権威をローマに確立しようと考えたにすぎなかったとみるのが自然であろう。」と述べ、その場しのぎの対応として用意されたのであり、壮大な計画を伴って用意されたものではないとしている[82]
  8. ^ Karoulus serenissimus Augustus, a Deo coronatus, magnus et pacificus imperator, Romanum gubernans imperium qui et per misercordiam Dei rex Francorum et Lngobardorum. 訳文は瀬原訳、エーヴィヒ 2017, p. 103に依った。
  9. ^ このストラスブールの宣誓は、フランク王国(カロリング帝国)が言語の上において東西に分裂しつつあった状況を証明している[95]。帝国の西と東で、それぞれの言語文化が育まれ、東側でも8世紀頃から古代高地ドイツ語の書物が編纂されていた[95]
  10. ^ ロタール1世にはリエージュ、ルートヴィヒ2世にはフランクフルトインゲルハイムヴォルムス、シャルル2世にはランソワソンパリ、オワーズ、コンピエーニュなど、メロヴィング朝時代からの伝統ある離宮が割り当てられた[99]
  11. ^ イタリア王としてのルートヴィヒ「2世」であり、東フランクのルートヴィヒ2世とは別人。イタリア語式にロドヴィコ2世とも呼ばれる。西フランクにも同名の王ルートヴィヒ2世がいる。
  12. ^ ル・ジャンもまた、以下のように述べる。「人類学者たちによると、王権が現れるのは、親族集団に自分の価値を認めさせ、多様性を維持しながら一体性を保証し、繁栄や公共福祉を保証することのできる上級権威を必要とするほど社会が複雑になったときである。フランク族に関して言えば、王権の出現はローマ世界への編入の結果である[126]」。
  13. ^ カロリング朝時代のフランク王国は、同時代人にとっては現代的な意味での「国家」として捉えられておらず、それ自体一つの「教会」(ecclesia)と認識していたとされる。この場合の「教会」とは、単なる聖堂や集会場所と言う意味での教会ではなく、キリスト教の教義における「神の国」の現実世界における実体、「キリストの体」としての「教会」(ecclesia)であった[133]。このような捉え方は日本の歴史学会においては山田欣吾が「「教会」としてのフランク王国」の中で詳述し、フランク王国を理解する上での基本的見解となっている[134][135]
  14. ^ a b ガロ・ローマ人(Gallo-Roman)とはガリア(Gallia 概ね現代のフランスに相当する地域)に住むローマ系住民を指す学術用語である。あくまでも現代歴史学の用語であり、古代ローマ時代およびフランク王国時代にこれに対応する概念が存在していたわけではない。ミシェル・ソはこの用語について「私たちはガロ=ローマ人について、二十世紀の立場で語っているが、五世紀には、また、そのあとの何世紀かにも、そのような呼び名は存在しなかった。ガリアでは、読み書きのできる人々は、自らを『ローマ人』であり、普遍的帝国とローマ文化の継承人と考えていた。」と述べ、ガロ=ローマ人とは(ガリアに住む)キリスト教徒ローマ人であるとしている[228]。ローマに対する「ガリア民族意識」というものはいかなる意味でも存在しなかったのであり、ガリア人とは諸民族に君臨すべきローマ人の一部であった[228]
  15. ^ 6世紀の伯(comes)の半数前後はガロ・ローマ系の名前を持っていた[147]。フランク時代の伯、ないし都市伯(comes civitas)はローマ帝国末期の都市伯にその起源を持っていると考えられ、フランク王国がローマ領ガリアの接収にあたりローマ的要素を大幅に採用しなければならなかったことを示している[147]。7世紀にはその多くがフランク系となっており、伯(comes)職のフランク化が進んでいたことが見て取れる[147]
  16. ^ 伝統的に大公位はゲルマン古来の部族と関連付けてとらえられている。カール1世(大帝)によるバイエルン大公位廃位などのような圧力の後も、カロリング朝の分裂と瓦解の時期には再び歴史の担い手として表舞台に登場するものとされていた。10世紀に完結した形をとって現れる五大公領(ザクセンフランケンバイエルンシュヴァーベンロートリンゲン)はそのような部族の再結集した姿に他ならないとされ新部族大公国(領)と言う用語で呼ばれてきた。しかし、ドイツの中世史学者ヴェルナーは、この「部族」と言う概念が実態のない学術上の造語に過ぎず、(例えばロートリンゲン族という部族が存在しない事は歴史上明白である)これらの大公国は直接部族(エトノス)に繋がるものでは無く、何よりもフランク王国の行政上の単位として成立したものであると主張した。この考え方は、各地域の差異を無視しているという批判はあるものの、ドイツ史学界においてその基本的な主張は受け入れられている[155]
  17. ^ このようなブルンナーの説には多数の批判が寄せられているが、その基本的な論理はなお定説としての地位を維持しているとされる[161]アメリカの中世史家リン・ホワイトはブルンナーの説を踏襲するが、フランクの騎兵制創出をトゥール・ポワティエ間の戦いではなく、鐙の導入を契機とするとしている[161]。中世史家森義信はこうしたブルンナーやホワイト以来の定説は史料上の根拠が薄弱であり近年(1988年頃)の歴史学・考古学の成果に照らすと既に説得力を失っているとして、これらを「古典学説」と呼んでいる[177]。ただし21世紀でも、この定説に沿った説明がなされる例は多く、例えば日本の歴史学者では堀越宏一がホワイトの説と同様の論を概説書に掲載している[172]
  18. ^ 聖職者の戦闘禁止規則は必ずしも順守されておらず、前線で武装して戦闘に加わっていた司教の存在が知られている[178]
  19. ^ 古典荘園制は、中世初期社会研究の一つの軸として扱われてきた。19世紀の古典学説では、カロリング期の所領明細帳に見られる領主直営地と農民保有地と言う二つの部分から構成され、領主直営地は農民保有地を持つ農民によって耕作されるというモデルを古典荘園制と名付け、封建的土地所有形態の始原的形態と位置付けた。このような古典荘園制がカロリング期に排他的に存在していたとする見解は20世紀前半以降根本的批判に晒され、古典荘園制をカロリング期の基本的な所領形態とする見方は下火となった。1960年代には実際にこのようなモデル化が可能な古典荘園制が典型的に展開されたのは、フランク王国の中枢部であるロワール川ライン川の間の地域に限られ、他の地域では十分に発達しなかったことがアドリアン・フェルフルスト(Adriaan Verhulst)により強調された。しかし、フェルフルストは同時に、所領を古典荘園制的構成に再編しようとする動きが広く西欧各地で見られることを指摘し、実際の実施の程度がまちまちであっても同時代の理想的な所領構造として位置付けられるという新しい見解を示唆した。1980年代以降には古典荘園制が再評価されるとともに、これについての見解は相対化され、その位置付けも論者により多様なものとなっている[197][198][199]
  20. ^ このような構造変化をアンリ・ピレンヌはイスラーム勢力による地中海東岸、南岸、イベリア半島の制圧により、コンスタンティノープルを中心とする地中海世界が消滅した結果、地中海の東西を結び付けていた政治・経済関係が遮断され、カロリング朝時代に入る頃のフランク王国ではローカルな閉鎖的経済への移行を余儀なくされたものであるとした[206]。更にイスラームの地中海制圧が、フランク王権とローマ教皇権の歩みよりをも惹起し、独自の西ヨーロッパ世界の確立につながったとした[207]。このピレンヌの明解な見解(ピレンヌ・テーゼ)は多くの研究者に多大な影響を与えた。現代ではこれは各種の批判に晒されているものの、研究史を概観する際には常に触れられる。
  21. ^ ただし、このような文書行政を伴う法律行為はフランク王国の全てで一様に実施されていたわけではない。旧ローマ帝国領に成立したゲルマン人の王国ではいずれも同様であるが、フランク王国は単一の部族集団ではなかった。フランク王国はフランク人の他に、ガロ・ローマ人やゲルマン人の諸部族(アレマン人やバイエルン人、テューリンゲン人、ブルグント人、ランゴバルド人等)が含まれる多民族国家であった。これらのローマ系の人々やゲルマン人諸部族は、それぞれの言語や法、習俗、慣習を維持し続けた[230]。ただし、ローマ系住民の行政組織はフランク王国の全土に適用される「国家法」の起源となったが、その実効性は王国の部分ごと、部族ごとに大きな隔たりがあった[230]
  22. ^ トゥールのグレゴリウスは当時の「フランク人」の認識についても興味深い著述を残している。彼はアクィタニアのガロ・ローマ人の名門家系の出身であり、その一族からはラングルリヨンクレルモンの司教を輩出している[242]。そしてグレゴリウス自身はトゥールの司教職をシギベルト1世から拝命し、死ぬまでその地位にあった[242]。彼はクローヴィス1世のカトリック改宗を極めて重要視しており、その記述によれば、「フランク人たちはローマ帝国を破壊しなかった。彼らは、カトリック教徒になることによってローマ人になったのである。」(ミシェル・ソによる要約)とされた[243]
  23. ^ ただし、北ガリアでは既に4世紀にはこうした学校は消滅していた。南ガリアでは7世紀半ばまで存続したが、その後完全に消滅した。それ以降は、主として司教職を担う名門家系による「家伝」によって古典が継承されたが、「家」によって伝えられるだけであった古典の知識は世代を経るごとに貧弱化していったと考えられている[247]
  24. ^ こうした聖人伝は対象の聖人の記念日に朗誦することを前提として作られており、ラテン語による朗誦を当時の民衆が未だ理解できていたことを示している[249]
  25. ^ カロリング・ルネサンスにはヨーロッパ各地から集まった外国人が多大な貢献をしていた。カール1世のラテン語の師であったピサのピエトロや、パウルス・ディアコヌスのようなイタリアの知識人たちが遠征を通じて集まった他、アルクィンのようなブリテン諸島出身者も大きな役割を果たした。ブリテン諸島ではラテン語の古写本の残存状態が良く、ブリテン諸島の聖職者たちとともに質の良い写本がフランク王国にもたらされた。独自の修道制を発達させていたアイルランド人の修道士は、独特の風貌で奇異の目を向けられたが知識の豊富さでは定評があり、ランの司教座学校では教師の大部分をアイルランド人が占めた。イスラームの支配下にあったヒスパニアからは聖職者がフランク王国に移動し、教理論争に参加し西ゴート時代の貴重な写本をもたらした[261]
  26. ^ これは現代の欧文では全く常識的なことであるが、8世紀以前のギリシア語ラテン語の文書では単語と単語の間に空白が置かれることはなく、全て一繋ぎで文章が綴られていた[266]
  27. ^ 合字(連綴文字)は2文字を合成してまるで1つの文字であるかのように綴るもので、例えば現代でも使用される&はラテン語etの合字を起源としている[266]

出典

  1. ^ a b c d e 五十嵐 2003, p. 317
  2. ^ a b c d e f 佐藤 1995a, p. 134
  3. ^ 渡部 1997, p. 45
  4. ^ 五十嵐 2003, pp. 317-318
  5. ^ a b c d 五十嵐 2003, pp. 318
  6. ^ 西洋古典学辞典 2010, p. 648 「シルウァーヌス」の項目より
  7. ^ a b c d e f 五十嵐 2003, p. 319
  8. ^ a b ル・ジャン 2009, p. 16
  9. ^ 佐藤 1995a, p. 129
  10. ^ 西洋古典学辞典 2010, p. 1065 「ブルグンディオーネース(族)」の項目より
  11. ^ a b 佐藤 1995a, pp. 129-130
  12. ^ ル・ジャン 2009, p. 17
  13. ^ ル・ジャン 2009, p. 7
  14. ^ a b 佐藤 1995a, p. 136
  15. ^ a b c d e 佐藤 1995a, p. 137
  16. ^ ル・ジャン 2009, p 18
  17. ^ a b ル・ジャン 2009, p. 19
  18. ^ a b c 佐藤 1995a, p. 138
  19. ^ a b c d e 五十嵐 2003, pp. 326
  20. ^ a b c d e f 五十嵐 2003, p. 328
  21. ^ a b c d e f 佐藤 1995a, p. 140
  22. ^ 渡部 1997, p. 51
  23. ^ a b c d ル・ジャン 2009, p. 25
  24. ^ a b ル・ジャン 2009, p. 24
  25. ^ ル・ジャン 2009, pp. 25-26
  26. ^ 渡部 1997, p. 52
  27. ^ a b c d e ル・ジャン 2009, p. 26
  28. ^ a b c d e f g 佐藤 1995a, p. 141
  29. ^ 渡部 1997, p. 53
  30. ^ a b c d e f g ル・ジャン 2009, p. 27
  31. ^ a b 佐藤 1995a, p. 143
  32. ^ a b ル・ジャン 2009, p. 28
  33. ^ 佐藤 1995a, p. 144
  34. ^ a b c d e f 佐藤 1995a, p. 145
  35. ^ a b c ル・ジャン 2009, p. 29
  36. ^ a b c d e 佐藤 1995a, p. 146
  37. ^ a b c d e f 佐藤 1995a, p. 147
  38. ^ ル・ジャン 2009, p. 30
  39. ^ a b c d e 佐藤 1995a, p. 148
  40. ^ a b c d ル・ジャン 2009, p. 31
  41. ^ a b c d e f g h 佐藤 1995a, p. 149
  42. ^ a b c d e f g h i j k l m 佐藤 1995a, p. 150
  43. ^ ル・ジャン 2009, pp. 32-33
  44. ^ a b c d e f g h i j k 佐藤 1995a, p. 151
  45. ^ a b ル・ジャン 2009, p. 33
  46. ^ a b c d e f g h 佐藤 1995a, p. 154
  47. ^ ル・ジャン 2009, p 36
  48. ^ a b c d e 佐藤 1995a, p. 155
  49. ^ a b c バラクロウ 2012, p. 63
  50. ^ 佐藤 2013, pp. 15-16
  51. ^ a b ル・ジャン 2009, p. 37
  52. ^ a b c 斎藤 2008, p. 133
  53. ^ a b c d e 佐藤 1995a, p. 156
  54. ^ a b c d e f g 佐藤 1995a, p. 157
  55. ^ エーヴィヒ 2017, pp. 24-25
  56. ^ a b c d 渡部 1997, p. 69
  57. ^ エーヴィヒ 2017, pp. 25-26
  58. ^ エーヴィヒ 2017, p. 26
  59. ^ a b 斎藤 2008, p. 134
  60. ^ a b エーヴィヒ 2017, p. 34
  61. ^ バラクロウ 2012, pp. 74-75
  62. ^ a b c 佐藤 1995a, p. 158
  63. ^ 渡部 1997, p. 70
  64. ^ 佐藤 2013, pp. 21-22
  65. ^ a b 五十嵐 2010, p. 87
  66. ^ 五十嵐 2010, p. 88
  67. ^ a b c d 五十嵐 2010, p. 89
  68. ^ 五十嵐 2010, pp. 90-91
  69. ^ a b c 五十嵐 2010, p. 92
  70. ^ 佐藤 1995a, p. 159
  71. ^ 五十嵐 2010, p. 93
  72. ^ 佐藤 2013, pp. 22-23
  73. ^ 斎藤 2008, p. 135
  74. ^ a b c d e 佐藤 1995a, p. 160
  75. ^ バラクロウ 2012, p. 78
  76. ^ a b c 佐藤 2013, pp. 34-37
  77. ^ バラクロウ 2012, p. 79
  78. ^ 佐藤 2013, pp. 28-30
  79. ^ a b c d バラクロウ 2012, pp. 79-84
  80. ^ エーヴィヒ 2017, pp. 78-86
  81. ^ 渡部 1997, p. 72
  82. ^ a b バラクロウ 2012, pp. 93-100
  83. ^ a b c エーヴィヒ 2017, pp. 101-103
  84. ^ a b 佐藤 2013, p. 85
  85. ^ 佐藤 1995a, p. 161
  86. ^ 佐藤 1995a, pp. 162-163
  87. ^ 佐藤 2013, pp. 88-89
  88. ^ 渡部 1997, p. 74
  89. ^ 渡部 1997, p. 75
  90. ^ a b c 渡部 1997, p. 82
  91. ^ a b c 渡部 1997, p. 83
  92. ^ a b c d 佐藤 1995a, p. 163
  93. ^ a b 渡部 1997, p. 84
  94. ^ a b c d e f 佐藤 1995a, p. 164
  95. ^ a b c d e 渡部 1997, p. 88
  96. ^ a b c d 渡部 1997, p. 86
  97. ^ a b c d e 佐藤 1995a, p. 165
  98. ^ a b c d e f 佐藤 1995a, p. 166
  99. ^ a b c d 佐藤 1995a, p. 168
  100. ^ エーヴィヒ 2017, p. 157
  101. ^ a b 佐藤 1995a, p. 169
  102. ^ a b c d e 渡部 1997, p. 90
  103. ^ a b c 佐藤 1995a, p. 170
  104. ^ エーヴィヒ 2017, p. 164
  105. ^ a b c d e f 渡部 1997, p. 91
  106. ^ a b c d e f g 佐藤 1995a, p. 171
  107. ^ a b 渡部 1997, p. 92
  108. ^ 斎藤 2008, p. 138
  109. ^ a b エーヴィヒ 2017, p. 202
  110. ^ 渡部 1997, p. 93
  111. ^ a b c 佐藤 1995a, p. 172
  112. ^ a b c d e f g h i j 斎藤 2008, p. 139
  113. ^ a b 渡部 1997, p. 94
  114. ^ a b 佐藤 1995a, p. 175
  115. ^ a b c 佐藤 1995a, p. 176
  116. ^ a b c 渡部 1997, p. 98
  117. ^ a b c 渡部 1997, p. 99
  118. ^ a b 渡部 1997, p. 100
  119. ^ a b 斎藤 2008, p. 140
  120. ^ a b c 五十嵐 2003, p. 316
  121. ^ a b 五十嵐 2003, p. 320
  122. ^ a b c 五十嵐 2003, p. 324
  123. ^ a b ル・ジャン 2009, pp. 41-43
  124. ^ 加藤 2011, p. 59
  125. ^ 五十嵐 2003, p. 323
  126. ^ ル・ジャン 2009, p. 40
  127. ^ 五十嵐 2003, p. 327
  128. ^ 加藤 2011, p. 56
  129. ^ a b 加藤 2011, p. 62
  130. ^ 佐藤 2013, pp. 28-31
  131. ^ エーヴィヒ 2017, pp. 53-58
  132. ^ 森 1998, p. 244
  133. ^ 山田 1992, p. 33
  134. ^ 佐藤,池上,高山ら 2005, p. 107
  135. ^ 五十嵐修、「「王国」・「教会」・「帝国」--9世紀フランク王国の「国家」をめぐって」『人文・社会科学論集』 2005年 23号 p.1-52, NAID 110004867203, 東洋英和女学院大学
  136. ^ a b c d ル・ジャン 2009, p. 46
  137. ^ シュルツェ 2013, p. 145
  138. ^ a b c ル・ジャン 2009, p 47
  139. ^ a b c d ル・ジャン 2009, p 48
  140. ^ a b 佐藤 1998, p 30
  141. ^ シュルツェ 2013, pp. 122-124
  142. ^ a b c 渡部 1997, p. 60
  143. ^ a b c d e f 森 1995, p. 99
  144. ^ 森 1988, p. 280
  145. ^ 森 1988, pp. 276-277
  146. ^ 森 1988, p. 286
  147. ^ a b c 森 1988, p. 275
  148. ^ a b c 森 1988, p. 272
  149. ^ a b 石川 1969, p. 92
  150. ^ 佐藤,池上,高山ら 2005, p. 5
  151. ^ a b 森 1988, p. 296
  152. ^ 山田 1992, p. 196
  153. ^ a b c d e 森 1988, p. 347
  154. ^ a b c d e 森 1988, p. 348
  155. ^ 山田 1992, pp. 194-199
  156. ^ 山田 1992, p. 198
  157. ^ ブウサール 1973, p. 48
  158. ^ 渡部 1997, p. 71
  159. ^ a b c d e f 森 1988, p. 85
  160. ^ a b c 森 1988, p. 86
  161. ^ a b c 森 1988, p. 69
  162. ^ a b 堀越 2013, p 85
  163. ^ a b c 堀越 2013, p 86
  164. ^ 堀越 2013, p 87
  165. ^ 堀越 2013, p 88
  166. ^ 森 1988, p. 33
  167. ^ a b c 森 1988, p. 38
  168. ^ 森 1988, p. 37
  169. ^ a b 森 1988, pp. 38-41
  170. ^ a b c d 森 1988, pp. 31, 41
  171. ^ 森 1988, p. 42
  172. ^ a b 堀越 2013, p. 84
  173. ^ 森 1988, p. 64
  174. ^ 森 1988, p. 67
  175. ^ エーヴィヒ 2017, p. 10
  176. ^ 森 1988, p. 68
  177. ^ 森 1988, p. 77_87
  178. ^ a b c 森 1988, p. 209
  179. ^ a b c 森 1988, p. 210
  180. ^ a b c d e 森 1988, p. 211
  181. ^ 丹下 1995, pp 167-169
  182. ^ a b c d 堀越 1997, p. 17
  183. ^ a b ル・ジャン 2009, pp. 98
  184. ^ 堀越 1997, p. 19
  185. ^ a b 堀越 1997, p. 20
  186. ^ a b ル・ジャン 2009, pp. 93-94
  187. ^ 堀越 1997, pp. 20-22
  188. ^ 堀越 1997, p. 21
  189. ^ a b c 堀越 1997, p. 22
  190. ^ ル・ジャン 2009, pp. 100
  191. ^ a b ル・ジャン 2009, pp. 102
  192. ^ a b c d ル・ジャン 2009, pp. 99
  193. ^ a b 堀越 1997, p. 23
  194. ^ a b シュルツェ 1997, pp. 171-173
  195. ^ a b c 堀越 1997, p. 24
  196. ^ a b c 堀越 1997, p. 25
  197. ^ a b c d 堀越 1997, p. 26
  198. ^ 森本 1969, p. 135
  199. ^ 佐藤,池上,高山ら 2005, pp. 9-10
  200. ^ 堀越 1997, p. 27
  201. ^ a b 堀越 1997, p. 28
  202. ^ a b c d 丹下 1995, p 170
  203. ^ a b c d 丹下 1995, pp 171
  204. ^ a b c 丹下 1995, pp 172
  205. ^ a b 丹下 1995, p 174
  206. ^ 大月 1998, pp. 214-215
  207. ^ 大月 1998, pp. 218
  208. ^ 丹下 1995, p 177
  209. ^ 丹下 1995, p 178
  210. ^ a b 丹下 1995, p 179
  211. ^ 丹下 1995, p 180
  212. ^ a b 丹下 1995, p 186
  213. ^ シュルツェ 2005, p.43
  214. ^ a b c d シュルツェ 2005, p.44
  215. ^ a b c ル・ジャン 2009, p. 111
  216. ^ 丹下 1995, p 175
  217. ^ a b c ブウサール 1973, p. 52
  218. ^ 丹下 1995, p 176
  219. ^ a b c d e f 山田 2010, p. 27
  220. ^ a b 丹下 1995, p 185
  221. ^ a b 山田 2010, p. 28
  222. ^ a b c d 佐藤 1995b, pp. 216-217
  223. ^ a b ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 70
  224. ^ a b 森 1998, p. 247
  225. ^ 山田 1992, p. 55
  226. ^ 加藤 2011, p. 57
  227. ^ a b c 佐藤 1995b, p. 222
  228. ^ a b ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 27
  229. ^ 森 1998, p. 246
  230. ^ a b シュルツェ 2005, p.19
  231. ^ a b c 佐藤 1995b, p. 223
  232. ^ a b 佐藤,池上,高山ら 2005, p. 17
  233. ^ a b c d 森 1998, p. 248
  234. ^ 渡部 1997, p. 77
  235. ^ a b 山田 1992, pp. 46-52
  236. ^ a b 森 1998, p. 249
  237. ^ 森 1998, p. 250
  238. ^ 森 1998, p. 251
  239. ^ 佐藤 1995a, p. 39
  240. ^ a b 佐藤 1995b, p. 225
  241. ^ ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 21
  242. ^ a b ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 22
  243. ^ ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 26
  244. ^ a b c 佐藤 1995b, p. 226
  245. ^ 橋本龍幸、「『フランク史書』Liber Historiae Francorum(訳注)」『人間文化 : 愛知学院大学人間文化研究所紀要』 2012年 27号 p.132-111, NAID 40019440946, 愛知学院大学
  246. ^ ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 90
  247. ^ ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 83
  248. ^ a b ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 88
  249. ^ a b 佐藤 1995b, p. 227
  250. ^ ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 91
  251. ^ a b ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 106
  252. ^ a b ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 101
  253. ^ ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 102
  254. ^ a b ブウサール 1973, p. 160
  255. ^ a b c ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 103
  256. ^ a b ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 104
  257. ^ 佐藤 2013, p. 69
  258. ^ a b ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 114
  259. ^ 佐藤 2013, p. 71
  260. ^ a b ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 118
  261. ^ ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, pp. 125-132
  262. ^ a b ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 115
  263. ^ ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 116
  264. ^ ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 119
  265. ^ a b c d e f g h i ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, pp. 141-147
  266. ^ a b c 佐藤 1995b, p. 231
  267. ^ a b c 佐藤 1995b, p. 232
  268. ^ a b 佐藤 1995b, p. 235
  269. ^ ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 158
  270. ^ a b ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 184
  271. ^ ブウサール 1973, p. 164
  272. ^ a b c d e f ル・ジャン 2009, pp. 91-92
  273. ^ a b c 加藤, 益田 2016, pp. 197-201
  274. ^ a b 加藤, 益田 2016, pp. 201-204
  275. ^ a b c d e f ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, pp. 115-116
  276. ^ a b c d 加藤, 益田 2016, pp. 204-207
  277. ^ a b c d カウフマンら 2012, pp. 75-79
  278. ^ a b 那須 2013, pp. 320-323
  279. ^ a b 那須 2013, pp. 323-326
  280. ^ a b c d e f 那須 2013, pp. 326-330
  281. ^ a b c d ウィルケン 2016, pp.242-244
  282. ^ 加藤, 益田 2016, p. 100
  283. ^ a b 加藤, 益田 2016, pp. 105-106
  284. ^ a b ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 98
  285. ^ a b 加藤, 益田 2016, p. 107
  286. ^ a b c 橋本 2006, p. 155
  287. ^ 國原 1988, 解題 pp. 166-171
  288. ^ 岩村 2016, 訳者まえがき、pp. v-xiv
  289. ^ 三佐川 2017, pp. 276-287
  290. ^ 日向 2016, 解題 pp. 219-251






フランク王国と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「フランク王国」の関連用語

フランク王国のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



フランク王国のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのフランク王国 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS