ベルリンの壁建設
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「ヴィリー・ブラント」の記事における「ベルリンの壁建設」の解説
1958年のフルシチョフのベルリン自由都市宣言は結局西側に無視される形で終わった。しかし、西側諸国はベルリン問題が東西対立の火種になることを恐れていた。だが妥協も許されず、西ベルリンの権利は必ず守り切らねばならなかった。1961年1月にアメリカ大統領に就任したジョン・F・ケネディもアメリカの立場は西側陣営にあって西側諸国を守ることで自由を脅かす何ものにも屈しないと決意していた。しかしアデナウアー首相はケネディ大統領に対して疑念を持っていた。西ベルリン問題について西ドイツとの相談もなく米ソ間の取引材料に使われることを懸念していたし、ケネディ大統領の就任演説や年頭教書演説がベルリンに触れていなかったことが取り沙汰されていた。そしてアメリカが確固とした姿勢を堅持する決意のほどを試す機会を窺うことになると予測していた。 3月に西ベルリン市長ヴィリー・ブラントのホワイトハウス訪問を受けたのも、どんなコストを支払っても西ベルリンを支持するアメリカの決意を世界に示す機会であるとラスク国務長官の進言から実現された。しかし就任早々に同盟国の元首及び首相クラスの受け入れはあっても、いきなり市長を受け入れるのは外交慣習に反していて、アデナウアー首相は不快感を隠さなかった。ブラントはケネディにフルシチョフが西側の決意を試すために行動に出ると予測され、それは10月のソ連共産党大会までに起こすだろうと述べた。そして西ベルリンは自由世界の窓だとして、東ドイツの人々の希望を生かし続ける窓であり、「西ベルリンがなくなればこの希望は死にます」と語った。ケネディは3年前のフルシチョフ提案を明確に拒否してブラントを安心させた。 しかし3ヵ月後の6月にウィーンで米ソ首脳会談が行われ、ケネディ大統領に、フルシチョフ首相は再びこの問題を持ち出して、ベルリン問題の解決策として米英仏ソの戦勝4ヵ国が東ドイツと平和条約を6ヵ月以内に結んで占領統治を終わらせて戦後処理を行いベルリンを自由都市とするとして、応じなければソ連が単独で東ドイツと平和条約を結んで西側3ヵ国の西ベルリンの駐留権と通行権は失効すると述べた。しかもケネディが拒否すると戦争も辞さない強硬な姿勢を見せてアメリカ側を驚かせた。ケネディは西ベルリンを守り切る決意を示してこの会談は物別れに終わった。(ベルリンの壁#ウィーン会談) 東西に分かれたベルリンは、戦後東から西への流出者が増加し、1960年には約20万人が西へ逃れ、1961年7月の1ヵ月間だけで3万人が東ドイツを離れていた。危機感を募らせた社会主義統一党のウルブリヒトはフルシチョフに西ベルリンの封鎖を懇請してフルシチョフは決断を下した。1961年8月12日深夜から13日にかけて、東ドイツが突然東西ベルリンの境界線近くに壁を建設し、東西ベルリン間の市民の往来は不可能となった。この時、西ベルリン市長ヴィリー・ブラントは社会民主党(SPD)の首相候補者でもあり、9月17日に総選挙が行われるのでその選挙遊説でバイエルン州ニュルンベルクに出かけ、その夜には夜行列車でキールに向かっていた。夜行の途次の13日午前4時、途中のハノーファーに連絡が入り、午前5時にハノーファーで夜行列車から急遽降りて、タクシーに乗り空港に向かい、飛行機で西ベルリンに戻ったブラントは、すぐに壁の建設現場に駆けつけた。「それまで何度かの危機でも頭は冷めていたのだが、今度ばかりは冷静、沈着でいられなかった。」「何千、何万という家族が引き裂かれ、ばらばらにされていくのを見て、怒り、絶望する以外にはなかった。」と後に自伝で述べている。彼はソ連の突然の措置にも西側同盟国の対応姿勢にもひどくショックを受けた。しかもブラントはその対応にも苦慮した。 同じく選挙遊説していたアデナウアー首相はすぐに西ベルリンに行かず、それどころかブラントの出生に絡む問題を取り上げて個人攻撃をして西ドイツ国民から顰蹙をかっていた。アメリカのケネディ大統領はこの壁の建設を予想していてアメリカ軍部隊1600人を西ベルリンに派遣する示威的な行動をとったがそれ以上の事態悪化は望まず静観するだけであった。イギリスのマクミラン首相は休暇先で趣味の狩猟をしてそこから離れなかった。フランスのドゴール大統領は一報を聞いてこれでベルリン問題は片が付くと述べた。8月16日付けの西ドイツの大衆紙「ビルト」は一面トップで「西側、何もせず」という見出しを出した。西側は口頭での抗議するだけであった。後に有名になったこのビルト紙の見出しは「東側は行動を起こす・・西側は何をするか・・西側は何もせず・・ケネディは沈黙する・・マクミランは狩りに行く・・アデナウアーはブラントを罵る」であった。 米英仏にとっては、ベルリンの壁は境界線上に作られたものでなく、東側に入った所に作られたもので(これはフルシチョフの指示であった)あくまで東側の中での行動であり、米英仏の西ベルリンでの駐留権及びアクセス権(通行権)が冒されず確保される限り、軍事行動に出る理由は無かった。むしろ東から西への流出が続く事態は東西の安定を損なう不確定要素であり、壁建設で東側も安定化に向かうことは今後の東西関係を好転させる機会でもあると考えていた。この問題で軍事行動を選択し自国の青年の生命を危険に曝すことは、つい16年前までは敵国であったドイツの首都ベルリンであるがゆえにケネディもマクミランもドゴールもその考えを持つことは無かった。事実、壁の建設以降はベルリン問題でソ連が行動を起こすことはなく、緊張状態になることもなく安定していった。 その大国の思惑と現場での混乱した雰囲気の中でブラントは苦悩していた。8月16日に市庁舎前の広場で25万人の市民が集まって抗議集会が開かれ、ブラント市長は抗議の演説した。しかしまかり間違えば、市民の怒りは連合国側へ向けられることも十分に予測される事態に苦渋に満ちたものであった。ここで「ソ連の愛玩犬ウルブリヒトはわずかな自由裁量権を得て、不正義の体制を強化した。我々は東側の同胞の重荷を背負うことは出来ません。しかしこの絶望的な時間において彼らと共に立ち上がる決意のあることを示すことでのみ、彼らを援助出来る。」としてアメリカに対して「ベルリンは言葉以上のものを期待します。政治的行動に期待しています。」と述べた。ブラントはケネディに書簡を送ったことも明らかにした。(ベルリンの壁#ベルリンの壁の建設) 2年後の1963年6月にアメリカ大統領ジョン・F・ケネディが西ベルリンを訪問してブラント市長と会談し、市庁舎前のシェーネベルク広場で30万人のベルリン市民が熱狂する中で演説を行い、「Ich bin ein Berliner(私はベルリン市民である)」と述べた。この前年秋にキューバ危機で海上封鎖を行い、フルシチョフとのやり取りで冷静に危機を収束させてソ連のミサイル基地撤去を勝ち取ったケネディの声望は高く、多くのベルリン市民を熱狂させた。そしてこれまでギクシャクした関係であった西ドイツやベルリンとの関係も修復し、双方に深い印象を残した。この5カ月後のケネディ大統領暗殺事件でブラントはワシントンでの国葬に参列し、彼が演説したシェーネベルク広場をジョン・F・ケネディ広場と改称した。(ベルリンの壁#ケネディ大統領の訪問) この後に、ベルリンの壁は多くの犠牲者を出しながら西側の冷静な対応で鎮静化し、そして東西冷戦の最前線に立つブラントの姿は彼の個人的人気を高めた。 しかしベルリンの壁を越えようとして命を落としたベルリン市民は1989年11月の崩壊までに200人を超えた。
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