ベルリンの壁建設とは? わかりやすく解説

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ベルリンの壁建設

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:43 UTC 版)

ヴィリー・ブラント」の記事における「ベルリンの壁建設」の解説

1958年フルシチョフベルリン自由都市宣言結局西側無視される形で終わった。しかし、西側諸国ベルリン問題東西対立火種になることを恐れていた。だが妥協許されず、西ベルリン権利は必ず守り切らねばならなかった。1961年1月アメリカ大統領就任したジョン・F・ケネディアメリカの立場西側陣営にあって西側諸国を守ることで自由を脅かす何ものにも屈しない決意していた。しかしアデナウアー首相ケネディ大統領に対して疑念持っていた。西ベルリン問題について西ドイツとの相談もなく米ソ間の取引材料使われることを懸念していたし、ケネディ大統領就任演説年頭教書演説ベルリン触れていなかったことが取り沙汰されていた。そしてアメリカ確固とした姿勢堅持する決意のほどを試す機会窺うことになると予測していた。 3月西ベルリン市長ヴィリー・ブラントホワイトハウス訪問受けたのも、どんなコスト支払って西ベルリン支持するアメリカ決意世界に示す機会であるとラスク国務長官進言から実現された。しかし就任早々に同盟国元首及び首相クラス受け入れはあっても、いきなり市長受け入れるのは外交慣習反していて、アデナウアー首相不快感を隠さなかった。ブラントケネディフルシチョフ西側決意を試すために行動に出ると予測され、それは10月ソ連共産党大会までに起こすだろうと述べた。そして西ベルリン自由世界の窓だとして、東ドイツ人々希望生かし続ける窓であり、「西ベルリンなくなればこの希望死にます」と語ったケネディ3年前フルシチョフ提案明確に拒否してブラントを安心させた。 しかし3ヵ月後の6月ウィーン米ソ首脳会談が行われ、ケネディ大統領に、フルシチョフ首相は再びこの問題持ち出してベルリン問題解決策として米英仏ソの戦勝4ヵ国が東ドイツ平和条約を6ヵ月以内結んで占領統治を終わらせて戦後処理を行いベルリン自由都市とするとして、応じなければソ連単独東ドイツ平和条約結んで西側3ヵ国の西ベルリン駐留通行権失効する述べた。しかもケネディ拒否する戦争辞さない強硬な姿勢見せてアメリカ側驚かせた。ケネディ西ベルリン守り切る決意示してこの会談物別れ終わった。(ベルリンの壁#ウィーン会談東西分かれたベルリンは、戦後東から西への流出者が増加し1960年には約20万人西へ逃れ1961年7月1ヵ月間だけで3万人東ドイツ離れていた。危機感募らせ社会主義統一党ウルブリヒトフルシチョフ西ベルリン封鎖懇請しフルシチョフ決断下した1961年8月12日深夜から13日にかけて、東ドイツが突然東西ベルリン境界線近くに壁を建設し東西ベルリン間の市民往来不可となった。この時、西ベルリン市長ヴィリー・ブラント社会民主党SPD)の首相候補者でもあり、9月17日総選挙が行われるのでその選挙遊説バイエルン州ニュルンベルクに出かけ、その夜には夜行列車キール向かっていた。夜行途次13日午前4時途中ハノーファー連絡入り午前5時にハノーファー夜行列車から急遽降りてタクシー乗り空港向かい飛行機西ベルリン戻ったブラントは、すぐに壁の建設現場駆けつけた。「それまで何度かの危機でも頭は冷めていたのだが、今度ばかりは冷静、沈着でいられなかった。」「何千、何万という家族引き裂かれ、ばらばらにされていくのを見て怒り絶望する以外にはなかった。」と後に自伝述べている。彼はソ連の突然の措置にも西側同盟国の対応姿勢にもひどくショック受けた。しかもブラントはその対応にも苦慮した同じく選挙遊説していたアデナウアー首相はすぐに西ベルリン行かずそれどころブラント出生に絡む問題取り上げて個人攻撃をして西ドイツ国民から顰蹙をかっていた。アメリカケネディ大統領はこの壁の建設予想していてアメリカ軍部隊1600人を西ベルリン派遣する示威な行動をとったがそれ以上事態悪化は望まず静観するだけであったイギリスマクミラン首相休暇先で趣味狩猟をしてそこから離れなかった。フランスドゴール大統領一報聞いてこれでベルリン問題片が付く述べた8月16日付け西ドイツ大衆紙ビルト」は一面トップで「西側、何もせず」という見出し出した西側口頭での抗議するだけであった。後に有名になったこのビルト紙見出しは「東側行動起こす・・西側何をするか・・西側は何もせず・・ケネディ沈黙する・・マクミラン狩りに行く・・アデナウアーブラント罵るであった米英仏にとっては、ベルリンの壁境界線上に作られたものでなく、東側入った所に作られたもので(これはフルシチョフ指示であった)あくまで東側の中での行動であり、米英仏の西ベルリンでの駐留及びアクセス権(通行権)が冒され確保される限り軍事行動に出る理由無かった。むしろ東から西への流出が続く事態東西安定損な不確定要素であり、壁建設東側安定化に向かうことは今後東西関係を好転させる機会でもあると考えていた。この問題軍事行動選択し自国青年生命危険に曝すことは、つい16年前までは敵国であったドイツ首都ベルリンであるがゆえにケネディマクミランドゴールもその考えを持つことは無かった事実壁の建設以降ベルリン問題ソ連が行動を起こすことはなく、緊張状態になることもなく安定していった。 その大国思惑現場で混乱した雰囲気の中でブラント苦悩していた。8月16日市庁舎前の広場25万人市民集まって抗議集会開かれブラント市長抗議演説した。しかしまかり間違えば市民怒り連合国側向けられることも十分に予測される事態苦渋に満ちたものであった。ここで「ソ連愛玩犬ウルブリヒトわずかな自由裁量得て不正義体制強化した。我々は東側同胞重荷背負うことは出来ません。しかしこの絶望的な時間において彼らと共に立ち上がる決意のあることを示すことでのみ、彼らを援助出来る。」としてアメリカに対してベルリン言葉上のものを期待します政治的行動期待してます。」と述べたブラントケネディ書簡送ったことも明らかにした。(ベルリンの壁#ベルリンの壁の建設2年後1963年6月アメリカ大統領ジョン・F・ケネディ西ベルリン訪問してブラント市長会談し市庁舎前のシェーネベルク広場30万人ベルリン市民が熱狂する中で演説行い、「Ich bin ein Berliner(私はベルリン市民である)」と述べたこの前秋にキューバ危機海上封鎖行いフルシチョフとのやり取り冷静に危機収束させてソ連ミサイル基地撤去勝ち取ったケネディ声望高く多くベルリン市民を熱狂させた。そしてこれまでギクシャクした関係であった西ドイツベルリンとの関係も修復し双方に深い印象残した。この5カ月後のケネディ大統領暗殺事件ブラントワシントンでの国葬参列し、彼が演説したシェーネベルク広場ジョン・F・ケネディ広場改称した。(ベルリンの壁#ケネディ大統領の訪問この後に、ベルリンの壁多く犠牲者出しながら西側冷静な対応で鎮静化し、そして東西冷戦最前線に立つブラントの姿は彼の個人的人気高めた。 しかしベルリンの壁越えようとして命を落としたベルリン市民は1989年11月崩壊までに200人を超えた

※この「ベルリンの壁建設」の解説は、「ヴィリー・ブラント」の解説の一部です。
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