ケネディ大統領の訪問
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/07 05:09 UTC 版)
「ベルリンの壁」の記事における「ケネディ大統領の訪問」の解説
「Ich bin ein Berliner」も参照 1963年6月26日にケネディ大統領は西ベルリンを訪問した。ベルリンの壁建設時は苦境に立たされたケネディであったが、翌年10月のキューバ危機では、トルコからのミサイル引き揚げと取り引きする形でキューバへの核兵器配備を阻止し、6月10日にアメリカン大学での「平和のための戦略」演説でソ連との直接交渉を始めたばかりであった。この時期には西ベルリン市民のケネディへの人気は高まっていた。 この日、アデナウアー首相とブラント市長とともに100万人の市民の歓呼に答え、ベルリンの壁近くの市庁舎前広場で30万人のベルリン市民を前に演説した。ベルリンの壁が築かれてまだ西ドイツも西ベルリンも複雑な状況ではあったが、この頃になると次第に状況は安定に向かっていた。演説においてケネディは、ここで有名なフレーズを述べた。 2000年前、最も誇り高き言葉は「Civis romanus sum(キウィス・ロマーヌス・スム、私はローマ市民だ)」であった。今日この自由な世界で誇り高き言葉は「Ich bin ein Berliner (イッヒ・ビン・アイン・ベルリナー、私はベルリン市民だ)」である。 そして共産主義を激しく批判して、最後にまたドイツ語で締めくくった。 このベルリンの壁は共産主義の失敗を最も如実に示している。(中略)自由世界と共産世界の差異が分からないという者が多数いる。彼らはベルリンに来てみるがいい。(中略)共産主義は未来の波であるという人もいる。彼らはベルリンに来てみるがいい。(中略)欧州でも他の地域でも共産主義者と協力できるという人がいる。彼らはベルリンに来てみるがいい。(中略)共産主義は悪い制度だが経済的進歩をもたらすという人も少数はいる。Lass'sie nach Berlin Kommen(彼らはベルリンに来てみるがいい)。(中略)民主主義は不完全ではあるが、自国民を囲い込んでおくために壁を建設したことは未だ嘗て一度もありません。(中略)自由になる、必ずその日はやって来ますが、その時20年以上も最前線に西ベルリン市民がいたという事実を静かに噛みしめるでしょう。どこに住んでいようと世界中のすべての自由を求める者は皆、ベルリン市民である。だからこそ私はこの言葉に誇りを持っています。Ich bin ein Berliner。(以下略) この言葉はアメリカの西ベルリンに対する決意の強さを表すものとしてソ連に対する強いメッセージとなった。それは西ベルリンを守ったという自負と、貧しい東から豊かな西へ逃亡しないようにしたのがこの壁であることの勝利の表明であった:166。壁建設の時点では見せなかった憤激を露わに共産主義を非難し、そしてこの時にケネディは大統領就任後に初めて、「これはドイツ人が戦後18年の行動を通じて勝ち得た権利であり、私はベルリンが、ドイツ国民が、そしてヨーロッパ大陸がいつの日か統一されるであろうことを確信するものである。」と、ドイツ再統一の権利について述べた。ケネディはこの演説でドイツとベルリンに関する米国の政策を新しい決意のもとに変えて、ベルリンを守るべき場所とし、以後米国はベルリンで引き下がることは無かった。 この演説は多くのベルリン市民やドイツ国民の心に残ることとなった。この広場で行った演説は彼の政治活動のなかで最も成功したものだった:231。 ケネディ暗殺後、この広場はジョン・F・ケネディ広場と改名された:196。
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