21世紀のフランス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:10 UTC 版)
「フランスの歴史」の記事における「21世紀のフランス」の解説
1995年5月の大統領選挙で共和国連合のジャック・シラクが大統領に就任する。彼は1991年より続いていたアルジェリア内戦などに対して反イスラムの立場を表明したことから、フランスに対するイスラム系のテロリズムが横行した。また6月には核実験の再開を表明し、1992年のミッテラン政権期における核実験の停止を時期尚早であったとした。核実験は1995年から翌1996年にかけて計8回行われた。8回にわたる実験が終結すると、主張を一変して包括的核実験禁止条約の締結や南太平洋非核地帯条約への加盟の意志を示すなどをした。 1995年7月16日、それまでフランス政府が認めてこなかった第二次世界大戦中のフランス警察によるユダヤ人狩りである「ヴェルディブ事件」を初めて「フランス国家が犯した誤り」であると認めるなど、過去の歴史に対する清算を行なった。。 しかし秋には、ミッテラン時代より引きずっていた失業対策や財政赤字の解消などの一環として社会保障改革を断行し、国民福祉税の増税や年金受給者への年金引き上げ凍結など、国民に負担を強いる政策が続いたことから、パリを中心に全国的なゼネストが発生した。ゼネストは2週間以上続き、首相であるアラン・ジュペは労組との対話に乗らざるを得なくなった。しかし対談は暗礁に乗り上げ、ついには外交日程にまで影響を及ぼすようになり、ジュペはついに労組側が提示した公務員の年金受給資格の延期案の取り下げを受け入れ、ゼネスト開始から約3週間当たる12月18日には全てのストライキが解消された。これら一連のゼネストをマスコミは「68年の五月革命以来の社会危機」と表現した。これらのゼネストは時期が、本来であればクリスマス商戦が行われていた冬に展開されたことから、公共交通機関が軒並み停止されていたストライキの期間、ギフト需要が見込まれていた衣料品や玩具屋、大手百貨店などの売り上げは大幅に落ち込んだ。 また少し遡って9月では旧フランス植民地であったコモロで軍事クーデターが発生し、コモロと協定を結んでいたフランスは軍事介入を踏み切り、クーデターを終結させた。こうした旧植民地国とのアフリカ外交は、旧植民地国の経済的、軍事的なつながりを深め、国連などの舞台で経済支援を行う一方で、そうした外交が結果として財政や軍事の面で重荷となっていた。 2003年3月にかねてより問題視されていたイラク武装解除問題から、英米を中心とする多国籍軍がイラク戦争が勃発するも、シラク政権は派兵を拒み、アメリカ合衆国政府からは、同じく派兵を渋っていたドイツなどに対して「古い欧州」と揶揄されるなど、米仏関係は悪化の一途を辿った。また翌2004年には、スカーフ事件以来、問題となっていた「ライシテ」への解決のため、「公立小中高における宗教的シンボル禁止法(英語版)」が制定され、公立学校でのキマルなどの宗教的シンボルの着用が明確に違法化された 2005年、欧州憲法条約をめぐる国民投票がフランス国内での反対派が勝利したことを受け、この憲法の国民投票を中断する事態が相次ぎ、欧州統合の流れは2年後の2007年に調印されたリスボン条約に引き継がれた。これによって発足した欧州連合(EU)は、加盟国に対して規制緩和や民営化、自由化の流れを求める一方で、企業に対して国家による手厚い保護を前提とするフランスの経済モデルと相反するこうした要求は、フランス国内で反グローバリゼーションや欧州懐疑主義といった論調を形成させ、これらの論調はフレグジットを呼びかける運動へとつながっていく。 2007年、シラクの後継を選ぶ大統領選挙ではニコラ・サルコジが当選した。当初、フランス世論は、言いたい放題でやりたい放題なサルコジのスタイルから、いずれ労組を刺激させ、シラク政権の船出がそうであったように、ゼネストを招くだろうと思われていたが、サルコジは大統領就任に伴って各労組の代表者をエリゼ宮に招き、対談をするなどして、労組とのチャンネルを築き、それに対応した。一方で、ストライキを規制する法案が世論の反発を招いたが、提出された時期がバカンスで、パリに人が去っているシーズンであったため、目立った反対集会はほんの1日程度で、その後、この法案をスピード成立させるなど、世論を巧みに操る政策が続いた。 サルコジ政権では彼が経済的自由主義を信奉していたことから、英米との協調路線を強めた。2010年10月、サルコジは治安維持を理由に「公共空間で顔を覆うことを禁止する法律(フランス語版)」が制定され、ライシテをめぐる新たな議論を呼んだ。 2012年からは社会党のフランソワ・オランドが大統領に当選する。オランド政権では2013年にヴァンサン・ペイヨン教育大臣によって、公立学校における宗教的所属を誇示する標章を禁止する旨が盛り込まれた「ライシテ憲章」が採択され、シラク政権やサルコジ政権などの右派政権で成立したような一連のライシテに関する規制的な立法が、左派政権であるオランド政権においても同様の積極性を持つものであることが示された。こうした左右両翼に囚われないライシテ政策はフランス国内のイスラーム勢力を刺激させ、2015年にはパリ同時多発テロ事件やシャルリー・エブド襲撃事件などのイスラーム系によるテロ事件が横行した。 2013年、フランスはマリ北部戦争に軍事介入した。(セルヴァル作戦) 2014年1月から3月にかけては、企業減税などを中核とする政策パッケージを提唱し、緊縮派のマニュエル・ヴァルスを首相に任命するなどして、緊縮政策を行った。しかしこうした政策は、欧州統合を進めるためには緊縮政策はやむなしとする緊縮派と、失業を減らすためには緊縮政策を放棄するべきだとする反緊縮派の両方からの失望をもたらし、支持率は暴落した。また同年に制定された「フロランジュ法」をめぐるジャン=マルク・エロー前首相とアルノー・モントブール(英語版)元経済相の対立は、政権弱体化を印象付けた。 こうした不人気による支持率の低迷を受け、オランドは2017年の大統領選挙での再選を目指さないことを発表する。こうした現職大統領が再選を目指さない事例は第五共和政以来、初めてであった。 2017年に前進!のエマニュエル・マクロンが大統領に就任した。マクロンの大統領就任は、フランスの歴史上、最年少の大統領就任であり、第五共和政以来、初となる二大主要政党以外の大統領就任でもあった。首相には元共和党の中道派エドゥアール・フィリップが任命された。2018年11月17日にはマクロンの政策への反発から黄色いベスト運動が発生した。これを受け翌2019年1月には国民の声を直接聞く「国民大討論」が開催された。 2018年より、フランス領ニューカレドニアでの独立運動を受け、フランス政府とニューカレドニアの先住民側とで1998年に結ばれた「ヌーメア協定(英語版)」に基づき、ニューカレドニアの独立のための住民投票が行われた。投票は2018年1月の投票と、2020年10月の投票が2021年現在、計2回行われており、いずれも否決されている。 2019年、パリのノートルダム大聖堂で火災が発生し、歴史的な尖塔が焼失するなどの被害を受けた。 2020年1月より、中華人民共和国の湖北省武漢市から世界中に流行拡大した新型コロナウイルス感染症(COVID-19)がフランスにも流行拡大しその対策に追われる (フランスにおける2019年コロナウイルス感染症の流行状況)。7月にはコロナ対策のほか、いまだ続く「黄色いベスト運動」などの影響を受けた統一地方選での大敗などを受け、フィリップ内閣が総辞職し、後継としてジャン・カステックスが首相に任命された。 2021年5月21日、マクロンはそれまでの政権が認めてこなかった1994年のルワンダ虐殺におけるフランスの黙認への責任を認めた。
※この「21世紀のフランス」の解説は、「フランスの歴史」の解説の一部です。
「21世紀のフランス」を含む「フランスの歴史」の記事については、「フランスの歴史」の概要を参照ください。
- 21世紀のフランスのページへのリンク