2010年 県外移設の断念と鳩山由紀夫内閣総辞職
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 05:23 UTC 版)
「普天間基地移設問題」の記事における「2010年 県外移設の断念と鳩山由紀夫内閣総辞職」の解説
2010年1月22日、衆院予算委員会で鳩山は「昨年末までに結論を出していたらどうなっていたかと考えたとき、5月末まで(に決める)という形にして、今は良かったと思う」と述べ、結論の先送りを正当化した。2010年1月24日の名護市長選挙では、辺野古への移設反対を公約とする稲嶺進が当選した。これに対して平野博文官房長官は「そのことを斟酌しなければならない理由はない」と発言し「理解は求めなくてはいけないが、合意が取れないと物事を進められないものなのか。日本の安全保障にかかわってくる問題だ」と述べ、沖縄県民の同意の必要性はないとの認識を示した。2月24日には沖縄県議会は県内移設反対・県外国外への移設を求める旨の決議が全会一致でなされた。 この頃になると、マスメディアなどで「鳩山首相のブレーン」と称される人物が連日日替わりで紹介され、思い思いの案や見通しを口にするようになり、議論は極度に錯綜していった。この前後にブレーンとして名前が上がった人物は、寺島実郎、田岡俊次、孫崎享、橋本晃和、岡本行夫、小川和久などがいる。鳩山は3月5日に政府案をまとめること約束したが実現できず、また、3月18日に政府案をまとめることを約束したがまたしても実現できなかった。3月下旬になると、3月末までに政府案をまとめるとの約束を果たすことができず、自身で目標を設定したにも関わらず、「いつまでに全部やらなきゃいけないという話ではない。今月中じゃなきゃならないとか、別に法的に決まっているわけではない」と述べ、政府案の成立に期限を設けると発言した自身の発言を全て反故にした。 2010年3月、移設先の有力な候補地として徳之島が検討されていることが報道された。同島の3自治体の首長はいずれも移設反対の立場であり、4月18日には同島で移設反対の島民大会が行われ、1万5千人(主催者発表)が集まった。また、4月28日には鳩山が徳之島出身の元衆院議員・徳田虎雄と会談し、移設案への協力を要請した。一方、4月25日には沖縄県でも県外・国外移設を求める県民大会が行われた。主催者は9万人が参加したと発表したが、実際の参加人数については政府筋より疑問も出されており、都内のある警備会社が航空写真を元に計量したところ、視認可能なのは1万1569人、木陰などに隠れている人を加えても9万人には程遠いとの結果を得たという。ただ、そもそも徳之島案は米側が容認しなかった。元々この問題において、どのような決着を図るにしろ、地元の合意が前提と米側が執拗に歴代政権に念を押してきたのは、太平洋戦争終戦後、米側占領下になった徳之島において本土復帰を求める地元住民の強い抵抗を受けた事が1つの根拠になっており、国防総省は強行策以外において徳之島の現地合意は取れないと判断していた。 3月31日、鳩山は自民党総裁の谷垣禎一との党首討論において、「五月の末までに必ず政府の考え方を、政府の方針というものを沖縄を初め日本の国民の皆様方にも理解を求め、さらにはアメリカの皆様方にも理解を求めたものをつくる」と、5月末決着を改めて強調し、「その腹案を持ち合わせている」とした。しかし「腹案」の内容は明かされず、閣僚が「腹案」と理解しているものにもニュアンスの差が見られた。各閣僚と対談した仲井眞は「『腹案』って本当にあるのか。皆言うことがばらばらで」と不信感をあらわにした。ちなみに、首相退陣後の2012年3月12日に鳩山に行われた『日経ビジネスONLINE』からの取材に対しては、(党首討論の際)「何も考えていないんじゃないか」と言われるから、『腹案がある』と言った」と、「腹案」がその場凌ぎの見栄であったものと疑わせる旨の告白を発している。 5月4日、鳩山は沖縄を訪問して仲井眞と会談し、日米同盟の関係の中で抑止力を維持する必要があるとして、「(選挙前に掲げた)すべてを県外にというのは現実問題として難しい」として事実上の県外全面移設の断念を明らかにした。また、かねてから問題となっていた徳之島についても「沖縄にも、徳之島にも、普天間移設で負担をお願いできないかとお詫びしてまわっている」とし、徳之島が分散移設の建設候補先であることを明らかにした。また、2009年7月19日の「最低でも県外」発言は当時の党代表としての発言であり、民主党の公約ではなかったとした。また、地元住民との対話集会で「(沖縄の基地負担の軽減について)オバマ大統領として、あるいは米国がどこまで理解しているか、まだ判断がつかない」と述べ、決着が遅れている責任は米国にあるとの見解を示した。 5月12日、アメリカ国防総省で日米間実務者協議が開催された。この席で日本側は辺野古周辺への移設を中心とし、キャンプ・シュワブ沿岸地域にくい打ち桟橋(QIP:Quick Installation Platform)方式で滑走路を建設する具体的な計画を初めて提示した。一方アメリカ側はくい打ち桟橋式が環境に良いとは限らない点、さらに桟橋はテロによる攻撃に脆弱である点を指摘した上で、地元と連立与党の合意が必要であると強調した。 5月21日、 辺野古地区の行政委員会は現行計画の環境アセスメントのやり直しを必要としない範囲や振興政策実施を条件とした移設容認を決議した。 5月23日、首相の鳩山由紀夫は沖縄を訪問して知事の仲井眞弘多と会談し、自公政権時代に合意した辺野古移設で米国政府と合意文書を交わす方針を説明した。これにより、自身の掲げた「最低でも県外」という公約は達成されないこととなった。仲井眞は辺野古移設の方針について「大変遺憾」「極めて厳しい」と述べた。 5月28日、日米両政府は米軍普天間飛行場移設に関する共同声明を発表し、移設先を名護市のキャンプシュワブ辺野古崎地区とこれに隣接する水域とした。鳩山は、この日米合意の閣議決定に反対し署名を拒否した福島瑞穂を罷免した。これにより、社会民主党は5月30日の幹事長会議で連立を離脱し、政権離脱することを決定した。離脱した社民党は参議院での首相問責決議案に賛成すると発表し、改選を控えた民主党参議院議員も同調する動きを見せた。政局の迷走は地元の振興活動にも影響を与え、辺野古現行案を前提としていた地元の社団法人CSSは、移転計画が進まないことを理由に一時休業を決定した。 6月2日、鳩山首相は民主党両院議員総会を開き、基地問題による社民党離脱と自らの資金問題による混乱の責任をとるとして辞任を発表した。 5年後の2015年5月3日、鳩山元首相はテレビ番組『西部邁ゼミナール』(TOKYO MX)に出演し、自らの真意を語った。
※この「2010年 県外移設の断念と鳩山由紀夫内閣総辞職」の解説は、「普天間基地移設問題」の解説の一部です。
「2010年 県外移設の断念と鳩山由紀夫内閣総辞職」を含む「普天間基地移設問題」の記事については、「普天間基地移設問題」の概要を参照ください。
- 2010年 県外移設の断念と鳩山由紀夫内閣総辞職のページへのリンク