黎明期から全盛期まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/03 00:49 UTC 版)
「シャブタイ派」の記事における「黎明期から全盛期まで」の解説
1626年7月1日(ユダヤ暦5386年アーブの月の9日)、シャブタイ・ツヴィはイズミールにて生を受けた。彼こそが、後にシャブタイ派の信奉者から救世主、さらには肉体を備えた神そのものとさえみなされることになる人物である。ツヴィは少年期(あるいは青年期)に耐え難い性的虐待を体験しており、そのさいに男性器にひどい火傷を負ったとされている。この出来事は彼の人格形成に多大な影響を及ぼしており、生涯彼を悩ませ続けた重度の躁うつ病は、このときの心的外傷が原因とみられている。ツヴィは少年時代よりエン・ソフ(カバラにおける神の概念)やセフィロト(カバラでは全宇宙の縮図、あるいは「善の領域」とされている)といったカバラの概念に馴染み、やがてはいくつものカバラ理論に精通するようになった。もちろんその中にはルリアのカバラも含まれていたのだが、ツヴィの嗜好とは根本的に相性が合わなかったようである。 ツヴィが救世主を自称するようになったのは1648年のことである。しかし、彼の言葉をまじめに信じる者など当時は誰もおらず、ほとんどの人間から狂人扱いされていた。また、トーラーの朗誦の際には、ハラハーにて発音が禁じられているがために「アドナイ」と代読されている神の名前「יהוה」(神聖四文字)を平然と口にするなど、伝統的な戒律をたびたび無視してはそのたびに批判を浴びていた。やがては度重なる醜聞に耐えていたイズミールのラビや有力者からも見限られるようになり、ついにはイズミールから追放されてしまった。 それから12年の間、ツヴィは各地を放浪することになった。その間にも戒律違反を伴った奇行は日に日に悪質化しており、伝えられるところでは、モーセ五書を妻に見立てての結婚式典を開催したり、安息日や祝祭日の期日を変更したり、ハラハーで禁じられた乳で煮込んだ肉料理を食べるなど、限度をわきまえなかった。また、ハラハーに対する違反を犯すたびにベレホト・ハ=シャホル(早朝の祝福)を真似て「戒律の解禁に祝福あれ」と叫んでいた。その真意は、救世主が到来する日にはハラハーによる禁止事項が解禁されるというミドラシュの記述を実践することにあった。 ツヴィはいったんイズミールに戻ったものの、家族からの経済的援助を条件に厄介払いされるかようにエルサレムに送り出された。ツヴィはロドス島とエジプトを経由してエルサレムに入城し、ユダヤ人社会で一定の評価を得ることになる。その後、エルサレムの共同体に献納する資金を収集するために滞在していたエジプトで、サラという名前の情緒不安定な女性を妻に娶ることになる(ツヴィにとっては三回目の結婚である)。彼女は故郷のリヴォルノにて救世主の妻になるという預言を受けたそうで、その噂はエジプトまで届いていた。彼女に関しては淫行をはじめとした数々の醜聞もささやかれていたのだが、『ホセア書』1章2節の「行け、淫行の女をめとり/淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」(新共同訳)という預言を成就するため、ツヴィ自らが彼女をエジプトへ招待したことになっている。ツヴィは本来の目的が終わると、シナイ半島からガザを経由してエルサレムへ向かった。その途中で、預言者を自称する「ガザのナタン」こと、アブラハム・ナタン・ベン・エリシャ・ハイム・ハ=レヴィ・アシュケナジーと出会ったのである。1665年のことであった。 エルサレムで生まれ育ったナタンは、少年時代より周囲からエロイ(天才)とみなされていたほどの人物である。ツヴィと出会った当時は優秀なカバリストとしての地位をすでに固めており、まだ21歳の青年であったにもかかわらず、民衆の心の病を癒すなど、預言者めいた力があることで知られていた。ツヴィもその噂を聞いてガザに駆けつけたようである。ナタンはツヴィとの最初の出会いにおいて、同じ年のプリム祭のころに見た幻について語っている。彼はその幻の中で、シャブタイ・ツヴィこそがイスラエルの救世主であるという預言を受けていたのである。ナタンはさらに、カバラの理論に基づいた自らの思想の核心についてツヴィに説明した。こうしてふたりは互いに影響されながら、シャブタイ・ツヴィの個人的資質によって救済が訪れるという信仰の基礎を完成させ、民衆に教えはじめたのである。なお、ナタンはツヴィに命じられ、以降はナタン・ベニヤミンを名乗るようになった。 ふたりを中心にした布教活動はガザやヘブロンでは大きな成功をおさめ、シャブタイ派の思想は多くのユダヤ人に受け入れられた。しかし、エルサレムに戻ったツヴィを待ち受けていたのは、ラビ・ヤアコブ・ハギズ(1620年〜1674年)を筆頭にしたユダヤ人社会からの辛らつな批判であった。町の道化師からは「シャリァハ(使者)を送ったのに帰ってきたのはマシァハ(救世主)だった」と馬鹿にされたりもした。エルサレムのラビは、その影響力や求心力からして特別な存在だったため、ナタンとしては是が非にも彼らからの理解を得たいところであった。彼は12人の弟子を集めて「イスラエルの12支族」と呼び、彼らをエルサレムに捧げる神聖な生贄と定めた。また、ガザのラビで弟子の筆頭格でもあったラビ・ヤアコブ・ナジャラを大祭司に任命して生贄の儀式を執行しようとした。しかしエルサレムのラビは、イスラム教徒からの非難を招く恐れがあるとして反対した。ナタンはそれに同意すると、すでに準備の整っていた計画をすべて白紙撤回した。ラビ・ヤアコブ・ナジャラはその後、生贄に指名された12人と共にヨルダン川を渡り、ペトラにあるアロンの墓にてティクンの儀式を行った。 その後、エルサレムのラビからさまざまな件で難癖をつけられたツヴィは、王位をうかがっているとして告発されてカディ(イスラム法の裁判官)の手に引き渡される運びとなった。しかし、ツヴィの友人が担当のカディとも親しかったことが幸いして無罪放免となり、特例として馬に乗ることも許可された(当時のエルサレムではユダヤ人の乗馬は禁止されていた)。ツヴィは当時もっとも荘厳とされた緑色の衣装をまとうと、さながら凱旋パレードのように馬にまたがって市街を7回も巡ったという。彼の後ろには悪霊に取り付かれたかのごとく狂喜乱舞する信奉者が随行したのだが、その異様な光景にエルサレムの住民は唖然とするしかなかった。 エルサレムのラヴィはツヴィに破門を言い渡し、強引にエルサレムから追放した。ツヴィはイズミールに戻ったのだが、ユダヤ人社会の大衆からはイスラエルの王として迎えられ、絶大な支持を得るようになった。彼は反対派の大物だったアロン・ベン・イツハク・ラパパを退け、ツヴィとの一時的な不和を乗り越えて彼の熱烈な支持者に復帰したラビ・ハイム・ベンベニストをラパパに代わる地位に就かせた。ラビ・ハイム・ベンベニストはカバラの名著『シュルハン・アルーフ』の注釈書『クネセト・ハ=ゲドラー』の著者と知られる人物で、近代ハラハーにおける巨匠のひとりとされている。 ナタンはカバラ的な論説を多数執筆し、そのなかでシャブタイ・ツヴィこそが救世主であることを宣言した。彼の著作は深遠な内容で、多くのカバラに精通した彼の博識ぶりをうかがうことができる。 「 トーラーではツヴィについてこう述べられています。「地は混沌であって、闇が深遠の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(『創世記』 1:2)この「神の霊」とは、救世主である王の霊であり、シャブタイ・ツヴィの名前を指しているに他なりません。そのとき、ツヴィの魂は深い闇の底にありました。彼はやがて、清浄なものを祝福するのです。-『デルシュ・ハ=タンニニーム』(ベニヤミン・ナタン・アシュケナジー著)より引用 」 ツヴィとナタンはミツヴァト・アセー(肯定の戒律)の一部を無効とする一方、ミツヴァト・ロー・タアセー(否定の戒律)の解禁を推し進めた。そのほとんどは、違反した場合に罰則が与えられる戒律であった。ふたりの主張によれば、ユダヤ教の戒律とは救世主の到来を促すための手段にすぎず、すでに救世主たるツヴィが現れている以上、戒律の有効性は自ずから消失するという理論なのであった。その他にも、アーヴの9日に行われるティクン・ハツォット(神殿崩壊を哀悼する真夜中の朗誦)と断食の廃止を宣言し、その日になると「イスラエル救済の日」と銘打ち、シャブタイ派の信奉者を集めて祝賀行事を開催した。また、ルリアのカバラにおける思想を、ユダヤ人の追放の時期にのみ固執しているとして排斥した。それに対して反シャブタイ派の陣営は、ツヴィと弟子たちが乱交パーティを開催し、そこで同性愛行為にふけっているなどと因縁をつけては、たびたびシャブタイ派の活動を非難していた。 カバラとシャブタイ派について詳しいゲルショム・ショーレムによると、ツヴィは救世主とみなされていたにもかかわらず、意外と他人の意思に影響されやすい性格で、彼自身にはシャブタイ派を当代随一の運動にまで発展させるほどのカリスマ性はなく、シャブタイ派の世界的な拡散と受容の責任を負っていたのはむしろナタンであったという。
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