関わりの深い人物
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「M2 (ゲーム会社)」の記事における「関わりの深い人物」の解説
奥成洋輔 - セガエイジス2500シリーズ・セガ3D復刻プロジェクトプロデューサー、Nintendo Switch版「SEGA AGES」シリーズ シニアプロデューサー。 豊島隆志 - セガエイジス2500シリーズの一部の音源エミュレーションを担当)他。
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関わりの深い人物
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大江光 作曲家(1963年6月13日 - )。大江の長男で、知的な障害を持って産まれた。光という名前は、シモーヌ・ヴェイユが著作でひいた、カラスが辺りが真っ暗なのでなかなか餌が見つけられずにいるときに「この世に光があったら、どんなに餌を拾うのが易しいだろう」と思った瞬間に世界に光が満ちたというイヌイットの寓話から採られたという。光は作曲家であり、日本コロムビアより「大江光の音楽」(1992)「大江光ふたたび」(1994) のCDを出しており、後者は日本ゴールドディスク大賞を受賞している。光の存在は、大江の創作のインスピレーションの源となり、共生の経験は大江の文業を貫く大きな主題となっている。『個人的な体験』『新しい人よ眼ざめよ』『静かな生活』は光の誕生や成長がテーマ・題材である(なお、光は他の大江の作品にもヒカリ、アカリの名前で登場する)。NHKは1994年、大江と息子・光との共生を題材にして「響きあう父と子 大江健三郎と息子光の三〇年」という番組を放映した。1995年に伊丹十三が大江の原作を映画化した『静かな生活』の劇伴音楽は光の曲が採用されている。 伊丹十三 映画監督・俳優・エッセイスト(1933年5月15日 - 1997年12月20日)。大江の妻・ゆかりの兄である。大江とは松山東高等学校で知り合い、大江にアルチュール・ランボーの原語の詩集を与えるような文化的な手ほどきをした。伊丹の俳優時代のヨーロッパ滞在の見聞を綴ったエッセイ『ヨーロッパ退屈日記』は『日常生活の冒険』の元ネタとされ、主人公の斎木犀吉も伊丹がモデルであるとされる。伊丹は、大江のノーベル賞受賞後の1995年『静かな生活』を原作とした同名映画を監督しており、文庫版の『静かな生活』の解説として、エッセイを寄せて映画撮影の裏話を披露している。大江の小説『取り替え子(チェンジリング)』は1997年の伊丹の投身自殺の衝撃を受けて書かれており、伊丹をモデル人物とする登場人物は「塙吾良」と名付けられている。大江の擬似自伝小説『懐かしい年への手紙』においては伊丹は「秋山君」として登場する。 渡辺一夫 フランス文学者・東京大学教授(1901年9月25日 - 1975年5月10日)。大江は高校時代に渡辺の著作『フランス・ルネサンス断章』を読んで感銘を受け、渡辺の指導を受けたいと考えて東京大学へ進学して師事する。大江の最初期の作品の文体は渡辺が翻訳したピエール・ガスカールの短編集『けものたち・死者の時』の文体から大きな影響を受けている。渡辺は大学卒業後も大江の精神的な庇護者であり、大江の仲人も務めている。渡辺は、作家生活を続ける上で三年毎に一つの主題を決めて書物を読み進めていくといいと助言を与え、大江はそれを実践し創作に結びつけている(「人物」項目の「創作方法など」参照のこと)。1975年の渡辺の死去は大江に大きなショックを与えて、大江のメキシコ渡航を促した。大江にとってメキシコ体験は重要で『同時代ゲーム』の大きなインスピレーションの源となった(大江のメキシコでの体験は『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』や『人生の親戚』などの題材ともなった)。1984年に大江は渡辺の全体像を語った連続講義『日本現代のユマニスト渡辺一夫を読む』を出版している。また『狂気について―渡辺一夫評論選』(岩波文庫)の編纂を清水徹と共に行い、同書と『フランス・ルネサンスの人々』(岩波文庫)の解説を執筆している。大江のレイト・ワークにおいては渡辺は「六隅先生」として登場する。 武満徹 作曲家(1930年10月8日 - 1996年2月20日)。「若い日本の会」に大江と共に参加して1960年安保改定に反対する。1963年に武満が大江の住む成城の家の100mくらいの近所に引っ越してきて親交が始まる。武満は大江文学のよき理解者で、大江の著作の解説を担当したこともある。1980年に大江が『文學界』に発表した短編「頭のいい「雨の木」」にインスピレーションを受けて武満は「(3人の打楽器奏者のための)雨の樹」を作曲する。さらにそれを受けて大江は『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』連作を書き継ぐことになった。連作第二作の表題作冒頭には、その初演のコンサートの場面が出てくる。1985年、雑誌『へるめす』創刊時に、ともに編集同人となった。1980年代に武満は大江と共にオペラを作る構想を立てており、お互いの芸術観,世界観を語りあった対談を行い、共著『オペラをつくる』(岩波新書)を出版している。ここから派生して大江は『治療塔』を執筆している(『治療塔』にはリブレットもあり、これは短編集『僕が本当に若かった頃』に収録されている)。1990年代、大江は「最後の小説」とした『燃えあがる緑の木』を1995年に書き終えて小説執筆をやめていたが、1996年の武満の死に促されて『宙返り』で小説執筆を再開した。同書巻頭には「──永遠の武満徹に」という献辞が記された。2001年に東京オペラシティのコンサートホール・タケミツメモリアルで没後5年特別企画として行われた「講演と室内楽演奏会「音と言葉」」の講演録は「武満徹のエラボレーション」としてエッセイ集『言い難き嘆きもて』に収録されている。大江のレイト・ワークにおいて、武満は「篁さん」として登場する。 山口昌男 文化人類学者・東京外国語大学教授(1931年8月20日 - 2013年3月10日)。山口は1970年代に「中心と周縁」理論を提唱し、大江はその大きな影響を受けた(ただし、山口が「中心と周縁」理論として提示したことは大江はすでに『万延元年のフットボール』に書き込んでいるのではないかという説をニューアカデミズムの論者浅田彰、柄谷行人らは主張している。『万延元年のフットボール』参照のこと)。大江はまた、山口が『文化と両義性』などの著作において日本に紹介した文化理論からも大きな影響を受けた。岩波書店の『叢書文化の現在』の編者を共に務めて、親交が始まった。1979年、山口や、やはり編者の中村雄二郎らと連れ立ってバリ島の習俗を取材する旅行に出ており、そのエピソードは連作『新しい人よ眼ざめよ』の同名短編に描かれている。1985年に、共に『へるめす』編集同人となる。大江は関心のある書物を、蔵書家の山口から借りたり、山口を通じてよその大学の研究室から借りたりして読むことも多かったという。その代表的なものが大江文学の中期において重要な役割を果たしたキャスリーン・レイン著『ブレイクと伝統』(Blake and Tradition) である。大江は、山口らと酒場で落ち合って、書物を借り受けて内容の説明を聴いているうちに、その書物を早く読みたくてたまらなくなって酒席を切り上げて一人先に帰宅するということもあったという。
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