野球指導者として
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引退後は巨人にて通算4シーズン外野守備走塁コーチを務めてきたが、その後は全国で少年少女の指導に力を入れてきた。少年軟式野球国際交流協会理事の理事も務めている。幼稚園から中学生まで、平日は東京と神奈川の各野球教室を中心に、土日は全国の野球教室に足を運び指導を続けてきた。子どもたちに対する指導においては、自分の野球理論を押しつけないこと、野球を知らない保護者もよく理解できるよう噛み砕いて教え、自分の頭で考えさせることを大切にしている。指導した少年たちの中には後のプロ野球選手も多く、乙坂智、関根大気、奥村展征らがいる。神奈川大学でコーチを務めた時には濵口遥大の指導もしていた。神奈川、栃木、新潟では少年野球大会の「屋鋪杯」を開催している。
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野球指導者として
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1949年、国民リーグで一緒だった真野春美が在籍していた日鉄二瀬(福岡県嘉穂郡、日鉄鉱業二瀬鉱業所)野球部に引っ張られ同チームの監督に就き、厳しい指導で無名選手を鍛え上げ強豪チームにする。1951年第22回都市対抗野球大会のチーム初出場、翌第23回大会は選手兼任監督1番遊撃手としてチームを牽引、準優勝に導く。1954年から監督専任、江藤愼一、古葉竹識、寺田陽介、吉田勝豊らを育て「濃人学校」と呼ばれ教祖的な人気を得て九州の野球のレベルアップにも貢献。第29回大会(1958年)で再び準優勝に導くなど11年指揮をとった。スポーツジャーナリスト・越智正典は1954年のサン大会(現在のスポニチ大会)で逞しく鍛えられた日鉄二瀬の魅力につかまり、何度も筑豊に足を運んだと話している。1959年退任(石炭不況が原因で1962年秋チーム解散)。古葉竹識は「濃人から教わったことが、自身の野球人生の礎で全てだと思う」と話している。広島の監督時代にベンチの端から顔を半分出して試合を見る姿が有名になったが、あれは濃人のマネだという。 1960年、金鯱時代の知り合いで当時、中日の代表だった平岩治郎に誘われ、同チームの二軍監督としてプロ球界復帰。翌1961年一軍監督に就任。「天知カラー」の一掃を図り、井上登、吉沢岳男、森徹、伊奈努、大矢根博臣、岡嶋博治ら、生え抜きトレードを敢行しチームを改革。これにより中日は1949年から固められた天知俊一体制から完全に決別したが、反面、子飼いの江藤慎一や権藤博を優遇したことから、チームは長年にわたる内紛体質を抱え込むことになる。 師匠・石本秀一をヘッドコーチに招き、「天知-杉下ライン」に代わる「石本-濃人ライン」を敷いて、与那嶺要らを入団させ、新人権藤博の大車輪の活躍で巨人より1勝多い72勝をしたにもかかわらず、引き分けの差で2位に甘んじる、4月20日に日本生命で活躍していた内野手の柳川福三を獲得し、柳川事件を起こして、プロとアマの断絶を招いた。ユニフォームを変更し(1962年中日ユニフォーム)この時代では斬新だったカラフルユニフォームは話題を呼び、翌年も3位と健闘したが、親会社(中日新聞社)の「六大学出身の監督が欲しい」という理不尽な理由で解任され、球団技術顧問という閑職へ追いやられる。 解任の背景には当時、中日新聞社が、中日の前身・名古屋軍の親会社だった新愛知と、名古屋金鯱の親会社だった名古屋新聞の合併会社であり、両社の出身者が持ち回りで球団オーナーを務める取り決めから、1962年までは名古屋新聞系のオーナーで、翌1963年からは新愛知系のオーナーが就任する事が決まっていた、という事情があった。それに加えて、自身のノンプロから、江藤慎一など子飼いの選手を入団させた一方、生え抜きの選手を多く放出した事から、地元名古屋で総スカンを食らっていた。ただ、森徹らを放出したことで選手の新旧交代が進み、高木守道は濃人が監督の時にレギュラーになった。また、投手起用に関しては完全に旧世代の感覚しか持たず、大矢根放出の穴を埋めるためとはいえ、権藤博を酷使し、その選手生命を縮めさせた監督としても知られる。 濃人の後任として監督に就任したのは、中日OBで地元出身、さらにフロントの希望していた六大学のひとつ・明治大学出身の杉浦清(1度監督経験があるので、厳密には復帰)だった。そして、ドラゴンズブルーのユニフォームがはじめて登場する事になったのも、1963年の事である。 メジャーリーグ視察後の1963年秋、東京オリオンズからヘッドコーチに招かれる。1967年、成績不振で解任された戸倉勝城監督に代わり永田雅一オーナーに請われ、8月途中から監督昇格。同年のドラフト会議で、植村義信投手コーチの進言で村田兆治を1位指名。1969年、近藤貞雄を再び投手コーチに招聘、有藤通世をルーキー年から三塁手のレギュラーに抜擢、「ミサイル打線」復活を目指し、与那嶺を再び打撃コーチとして招き、球団名がロッテに変わった2年目の1970年、投の成田文男、木樽正明、小山正明、打の江藤愼一、アルトマン、榎本喜八、山崎裕之、有藤道世らを率いてパ・リーグ独走優勝。しかし日本シリーズは巨人に1勝4敗で敗れた。飯島秀雄在籍時の監督でもあった。 1971年7月13日の阪急西宮球場での対阪急戦において放棄試合を引き起こした。7回表、江藤愼一のスイングをめぐって主審の砂川恵玄が判定を「ボール」から「ストライク」に変え、これに納得いかなかった濃人は、来場していたオーナーの中村長芳の指示もあって試合続行を拒否。後のパ・リーグ審判部長、前川芳男は「あの温厚な濃人さんが…」と事件を聞いて驚いたが、放棄試合は現場にいた中村の独断に近く、すでに濃人の意志が反映される状態になかった。放棄試合(フォーフィテッドゲーム)が宣告され0-9で負けた。日本プロ野球では1968年に放棄・没収試合は厳禁という規制が出来ていたため、この試合以降放棄試合は起きていない。 7月24日には首位阪急ブレーブスとのゲーム差が8に広がり、二軍監督へ降格された。濃人に代わって一軍監督に昇格したのが二軍監督の大沢啓二だった。シーズン終了後にスカウトに転出し、1977年頃から並行して広島テレビの野球解説者も務めた。 1975年のドラフト会議では、スカウト部長として「使いものにならなかったら腹を切る」と啖呵を切って田中由郎を全体1位で強行指名。結局、田中は物にならず、約束通り濃人は1978年退団。このため田中には「人斬り」というあだ名が付いた。退団後の1979年からは、スカウト時代から兼務していた広島テレビの野球解説者に専念した。 1990年10月10日死去。75歳没。 帝国ホテル大阪総支配人・顧問を務めていた濃人賢二は実子。孫は濃人一仁。
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野球指導者として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 02:44 UTC 版)
2012年1月に帰郷し、高校の先輩が率いる少年野球チームの函館北斗ポニーのコーチに就任。 2016年の学生野球資格回復研修を受講した上で、翌2017年2月7日に日本学生野球協会より学生野球資格回復の適性認定を受けたことにより、学生野球選手への指導が可能となる。 2021年4月1日に函館大有斗高OB会からの要請を受け、古溝克之監督率いる同校野球部のコーチに就任。会社経営との二足の草鞋となる。
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