スカウト時代
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引退後は産経新聞・夕刊フジの記者を経て、ヤクルトの一軍バッテリーコーチ(1971年, 1974年 - 1975年)を務めた。1972年からヤクルトのスカウトとなる。スカウト時代には若松勉、尾花高夫、伊東昭光、イケトラコンビ(池山隆寛・広沢克己)、古田敦也、高津臣吾などをスカウトした。その後は編成部長を歴任した。 1989年のドラフト会議では、同窓・立大野球部の黒須陽一郎に頼み込まれ、渋る当時の監督・野村克也を押し切って3位で縁故指名。しかし、黒須が交渉の結果入団を拒否し、ヤクルトは片岡の縁故指名のお蔭でみすみす上位指名枠を無駄にしてしまった。この件について片岡は後に「当初ヤクルトに黒須を獲得する気はなかったが、本人が『どうしても野球が捨てられない』と頼みに来たので、渋る野村監督を説得して指名した」、「それをひっくりかえしたからね。キャプテンがこんな人物ではと立大硬式野球部とは縁を切り、OB会も退会した」と黒須と立大にこそ責任があると後々まで主張している。この影響で立教大出身選手のヤクルトからのドラフト指名は、2016年ドラフトの菊沢竜佑まで27年間なかった。なお、菊沢は大卒後に複数チームを経ており、翌年に指名を受けた松本直樹も社会人野球を経ているため、それ以後も立教を卒業して直後にヤクルト入りしている選手はいない。 片岡はヤクルト球団を2003年をもって退団。翌2004年、週刊文春5月13日号で野村との9年間の確執・葛藤を語った。この週刊文春や別の雑誌インタビューでも、野村について「あの人は言う事がコロコロ変わる」と述べている。また、長嶋一茂がプロとして大成できなかった原因の一環に野村の存在があるとも述べ、指導者としての姿勢を批判している。 また、TBSテレビで放送された『ZONE』「洞察・古田敦也」にて、1989年シーズンオフに新監督に就任した野村がドラフト5日前のスカウト会議の場で「眼鏡のキャッチャーは要らん」「全日本のキャッチャーだからといってそんな簡単にプロでは使えない」「高校生捕手を獲ってくれ。わしが育てる」と古田の獲得を否定する発言をした事に対し、片岡は「ムッとした」ものの、片岡自身が古田に対しヤクルト一本に絞り他球団に断りを入れるよう説得していたこともあり「古田との約束を破る事になるのでそれはできない」と喰い下がったことを振り返った。ただし、元ヤクルトスカウトの鳥原公二は、当時のやりとりについて、野村とスカウト陣の間で議論があったことは認めているものの、野村は「メガネをかけているなぁ」とつぶやいただけで、眼鏡だからダメという話はなかったと思うと証言している。 指名順位については「本当は古田を(くじ引きで外れた野茂英雄の外れ)1位で指名したかった」が、野村の希望でピッチャーの西村龍次が外れ1位に指名され、結局2位での指名となったことを明かしている。 スカウティングの際に重視するのは、「野球に取り組む姿勢」であるという。 2021年12月6日、老衰のため死去。85歳没。11日に身内のみで葬儀・告別式が行われた。
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