スカウト時代とは? わかりやすく解説

スカウト時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 13:38 UTC 版)

片岡宏雄」の記事における「スカウト時代」の解説

引退後産経新聞夕刊フジ記者経てヤクルト一軍バッテリーコーチ1971年, 1974年 - 1975年)を務めた1972年からヤクルトスカウトとなる。スカウト時代には若松勉尾花高夫伊東昭光イケトラコンビ池山隆寛広沢克己)、古田敦也高津臣吾などをスカウトした。その後編成部長を歴任した1989年ドラフト会議では、同窓立大野球部黒須陽一郎頼み込まれ渋る当時監督野村克也押し切って3位縁故指名。しかし、黒須交渉結果入団拒否しヤクルト片岡縁故指名お蔭でみすみす上位指名無駄にしてしまった。この件について片岡は後に「当初ヤクルト黒須獲得する気はなかったが、本人が『どうしても野球捨てられない』と頼みに来たので、渋る野村監督説得して指名した」、「それをひっくりかえしたからね。キャプテンがこんな人物ではと立大硬式野球部とは縁を切り、OB会退会した」と黒須立大にこそ責任があると後々まで主張している。この影響立教大出身選手ヤクルトからのドラフト指名は、2016年ドラフト菊沢竜佑まで27年間なかった。なお、沢は大卒後に複数チーム経ており、翌年指名受けた松本直樹社会人野球経ているため、それ以後立教卒業して直後ヤクルト入りしている選手はいない。 片岡ヤクルト球団2003年をもって退団。翌2004年週刊文春5月13日号で野村との9年間の確執葛藤語った。この週刊文春別の雑誌インタビューでも、野村について「あの人は言う事がコロコロ変わる」と述べている。また、長嶋一茂プロとして大成できなかった原因一環野村存在があるとも述べ指導者としての姿勢批判している。 また、TBSテレビ放送された『ZONE』「洞察古田敦也」にて、1989年シーズンオフに新監督就任した野村ドラフト5日前のスカウト会議の場で「眼鏡キャッチャー要らん」「全日本キャッチャーだからといってそんな簡単にプロでは使えない」「高校生捕手を獲ってくれ。わしが育てる」と古田獲得否定する発言をした事に対し片岡は「ムッとした」ものの、片岡自身古田対しヤクルト一本絞り他球団断りを入れるよう説得していたこともあり「古田との約束を破る事になるのでそれはできない」と喰い下がったことを振り返った。ただし、元ヤクルトスカウトの鳥原公二は、当時やりとりについて、野村スカウト陣の間で議論があったことは認めているものの、野村は「メガネをかけているなぁ」とつぶやいただけで、眼鏡だからダメという話はなかったと思うと証言している。 指名順位については「本当古田を(くじ引き外れた野茂英雄外れ)1位で指名したかった」が、野村希望ピッチャー西村龍次外れ1位指名され結局2位での指名となったことを明かしている。 スカウティングの際に重視するのは、「野球取り組む姿勢」であるという。 2021年12月6日老衰のため死去85歳没。11日身内のみで葬儀・告別式が行われた。

※この「スカウト時代」の解説は、「片岡宏雄」の解説の一部です。
「スカウト時代」を含む「片岡宏雄」の記事については、「片岡宏雄」の概要を参照ください。

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