誰が言い始めたか?
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 07:02 UTC 版)
「ニューミュージック」の記事における「誰が言い始めたか?」の解説
ミュージカル・ステーションの創業者・金子洋明は、1991年のインタビューで「中野サンプラザがスタートする時(1973年6月1日)、1週間のオープン記念のイベントを頼まれて、森山良子とまだ荒井由実だったユーミンを出演させて『ニューミュージック・シーン』っていうのをやったんだけど、それからマスコミが『ニューミュージック』って言葉を使うようになりましたね」と述べている。金子は1994年に『プロデューサー感覚』という著書を出しているが、この本文の中にはニューミュージックに関する言及がない。巻末の著者略歴に「現在のニューミュージックというカテゴリーの基盤をつくる」と紹介されている。この文面からは1994年にはまだ「ニューミュージック」という言葉が使われ、「J-POP」という言葉はまだ一般的ではなかったものと考えられる。 2013年4月から5月にかけて『デイリースポーツ』で「ニューミュージックを創った男 〜伝説のプロデューサー三浦光紀氏が語る裏話〜」と題する連載があった。この第1回で「1970年代初頭、日本の音楽界で『ニューミュージック』という言葉が使われ始めた。音楽プロデューサー・三浦光紀は『ニューミュージック』を日本で初めて使った人物といわれ、現在のJ-POPの源流を作った」と紹介し、三浦自身、ニューミュージックの説明を「後にJ-POPと呼ばれる日本特有のジャンル名で、1970年代の日本のシンガーソングライターたちが、自作の『うた』を英米のロックを取り入れる手法で、表現した新しいポップスの呼称でした」と説明している。 三浦光紀は1972年春にメジャーレーベル・キングレコードの中に、フォーク系のレーベル「ベルウッド」を立ち上げた人物であるが、デイリースポーツが三浦光紀を「ニューミュージック」を日本で初めて使った人物とする根拠について、音楽評論家の山田順一は「ベルウッド発足時に配布された『ベルウッドレコード発売記念 特別ダイジェスト』というプロモーションレコードに、三浦は『ニューミュージックの宝庫 Bellwoodの出発(たびたち)』と題した文章を寄せている。日本でニューミュージックという言葉が初めて出たのはここである」と述べています。さらにキングレコードの上司だった長田暁二(音楽文化研究家)も、雑誌「kamzine」の中でこう書いています。「ある日、ポップス担当の某ディレクターが町尻量光社長に直訴、『フォークやロックはオレの守備範囲、教養課で制作するのは越権行為だから止めてほしい』とクレームをつけた。このとき三浦は『いや我々がやっているのはニューミュージックだよ』といって、社長室に呼ばれた関係者全員を煙にまいた。これが日本で"ニューミュージック"という言葉が使われた最初である」などと書いている。この連載の第2回で三浦は、1971年大瀧詠一のソロアルバムの準備に入っていたころ、キングレコードのマーケティング担当者から「君の制作している作品のレコード店仕切り板を作りたいから、ジャンル名を決めてくれ」と言われ、僕が集めようとしていたアーティストの音楽は、それまでの日本のフォーク、ロックとは明らかに違っていたので、適当な言葉が浮かばず苦労して、たまたま愛読書だった『ニューミュージック・マガジン』が会社の机の上に置いてあったので、軽い気持ちで"ニューミュージック"とマーケティング担当の方に言ってしまいました。『ニューミュージック・マガジン』から勝手に借用したこともあって、公には使わず"新しい歌"とか"ニューポップミュージック"とあいまいな言い方をしていました。そうした中、1973年ごろ、CBSソニーでフォークを担当していた早大グリークラブで一年後輩だった前田仁から連絡があり、『ニューミュージック』をキングで商標登録してないんだったら、CBSソニーで使用させてくれという話だったので、快諾し、一緒に『ニューミュージック』を盛り上げようということになりました。彼は吉田拓郎、山本コウタロー、バンバンなどを次々とヒットさせ、CBSソニーの強力な影響力もあり、わたしが対抗文化的な意味合いで使った『ニューミュージック』が1970年代の音楽シーンの中核になってしまいました。もちろん、ユーミンの存在も大きかったと思います。『ニューミュージック・マガジン』はその後『ミュージック・マガジン』にタイトルを変えたこともあって、創刊者である中村とうようさんには謝罪しました。彼は「三浦くんがやったんだから仕方ないよ」と笑いながら許してくれました」などと述べている。三浦が1972年春ベルウッドを設立した時、「ニューミュージック」という言葉も生まれたとする見方も多い。 三浦の話に出てきた前田仁は、CBSソニーのプロデューサーで、2010年1月に亡くなったが、それまで『jinz bar - 前田仁の「歌たちよ、どうもありがとう」』というブログを配信していた。現在はもう見ることはできないが、この第1回に「僕の机がなくなって?『ニューミュージック』という音楽カテゴリーが生まれた」というタイトルで「ニューミュージック」に関する言及がありそれは以下のような内容であった。1973年に会社のN部長から「アメリカで面白いムーブメントが起こっているんだ..音楽シーンでね。ビルボードの記事にあったんだけど、それを『ニューミュージック』と呼んでいるらしいんだ。お前がやろうとしている音楽、アーティストを日本じゃフォークってカテゴリィーでくくっているだろう?ちょっとチガウと思うんだよ。カレッジ・フォーク?キャンパス・ポップ?、どれもチガウと思うんだ。だから、今後お前が作る音楽、アーティストを『ニューミュージック』って呼ぼうと考えているんだ。」と言われ、その日を境に、自分の机を部長の側に移し、N部長直轄の新しい試み、プロジェクトを始めた、全社的にコンセンサスを取り付け、営業のセールスの人達がお店に届ける注文書にも『ニューミュージック』というカテゴリーを設け、レコード店の方々にも意図を説明し、ご理解をいただくことになったのです」「セールスマンの皆さんとの会議で、N部長がフォークもロックも違うジャンルの音楽なのに、日本ではフォークと言うカテゴリーに押し込めているんだ、おかしいだろ? だから、これからの日本の新しい音楽のウェーブを、前田の作る音楽、アーティストを『ニューミュージック』と呼ぶんだよと言った。まさしく『ニューミュージック』と言う、新しい音楽ジャンル、カテゴリーの誕生の瞬間でした」などと書いていた。このN部長のいうビルボードの記事『ニューミュージック』というのが本当なのかは分からないが、この前田の言及では「ニューミュージック」という言葉を最初に使ったのは、CBSソニーの当時の前田の上司・N部長ということになる。前田はさらに「1972年5月21日発売の『The Best Of "Folk-Jack"』と言うオムニバス・レコードが手元にあるのですが、この時の発売企画書には、「我がCBS・SONYは今や新しい音楽の宝庫的存在になって居ります..」と僕の字で書き残されている。しかし、1973年6月27日付けで書かれた友部正人君の移籍に際しての発売企画書には、「今度当社より発売が決定した事は、当社のNEW MUSICに非常に大きな財産が増えた事になります。」とも記述があり、ちょうどこの頃からCBSソニーの、否、その後延々と多くの音楽ファンを虜にしてきた『ニュー・ミュージック』と呼ばれるカテゴリーが産声を上げたのでした」などと書いていた。つまり、先の三浦光紀の話とは完全に食い違っている。 デイリースポーツの三浦の連載や前田のブログの説明で出された文献なりが、発売企画書や販促品などで、市販された書籍などでないため、1972年に「ニュー・ミュージック」と書かれた現物を確認することが出来ない。現在でも確認できる市販された書籍では、ブロンズ社という出版社が1973年1月に『ニッポン若者紳士録』という本を出しているが、この189頁の広告に『爆発するロック』という本の紹介があり、ここに「ブロンズ社のニューミュージック選書」と書かれている。つまりこの頃、ブロンズ社が同社のロック関係の書籍を既に"ニューミュージック"というカテゴリーに入れていたということになり興味深い。この本が1973年1月の発売なので「ニュー・ミュージック」という言葉は遅くとも1972年末までには使われ始めていたということになるが、市販された書籍文献で1972年に「ニュー・ミュージック」と書かれた物を探すのは難しい。 猫のアルバムの帯に「ニューミュージック」「NEW MUSIC」と記載されたのがニュー・ミュージックの語源という説があるが、いつ発売された猫のレコードの帯なのかが重要になる。1972年なのか、1973年以降なのか、1972年であれば、或いは確認出来る文献等では最初になるかもしれない。1973年以降なら前述したようにブロンズ社の書籍の方が早く猫が一番にはならない。それはおそらくCBSソニーにニュー・ミュージックのセクションが出来たという1973年以降の猫のアルバムについてと推測する。 荒井由実のファーストアルバム『ひこうき雲』が1973年11月に発売される際にアルファミュージック社長・村井邦彦が、当時の新人売り出しの慣例だったキャッチフレーズを付けるため、アルファ社内10数人で知恵を絞り、富澤一誠にも相談し、決定したキャッチフレーズが「魔女か!スーパーレディーか!新感覚派・荒井由実 登場」であった。"新感覚派"だけでは訴求力は弱かったといわれるが、『ひこうき雲』のレコーディングは1973年初秋であるため、1973年秋の時点では「ニューミュージック」という表現は、まだ音楽業界に浸透していなかったものと考えられる。村井は、担当者から『ひこうき雲』は、フォークか、ロックか、アイドルか、どんなジャンルなのか聞かれ、これが決まらないと、レコード店の売り場コーナーの見通しがつかないと言われた、荒井由実の音楽を簡単に説明をすることは出来ず、いずれにも置きたくなく即答しなかったと述べている。それではどこに置いたのかは『アルファの伝説 音楽家 村井邦彦の時代』には書かれていない。 庄野真代は「昔の事なので、鮮明には覚えてませんけど」とした上で、1976年6月に自身のデビューアルバム「あとりえ」が発売されて、レコード屋さんに行ったら、当時はジャンル分けでいくと、フォーク・ロックというところにそれが入れられていて、そのうちに1年ぐらい経ってから「ニュー・ミュージック」という言葉が出てきて、それからは「ニュー・ミュージック」のところに入れられるようになった、と話している。
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