評価・批判および代替・関連モデル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 15:06 UTC 版)
「データベース消費」の記事における「評価・批判および代替・関連モデル」の解説
経済学者の田中秀臣は、物語消費論・データベース消費論で展開された1980年代~1990年代にかけての消費様式の変遷(「大きな物語」の凋落)は、国際情勢ではなく経済情勢によるものであるという見解を述べている。すなわち、バブル崩壊後の不況下では、「美少女キャラクターに萌える」というような金銭的な出費をほとんど伴わない活動に若者の行動はシフトしていくのが自然と考えられる。評論家の栗原裕一郎も、東浩紀・宮台真司・宇野常寛らが展開する日本のポストモダン論で持ち出される「大きな物語の失効」とは高度経済成長が終わって核家族化・郊外化などの共同体の解体がみられたというようなものであり、結局は「経済」に還元される程度のものでしかないことを指摘している。 社会学者の大澤真幸は、データベース消費は物語消費と断絶したものではなく地続きであると指摘している。それによると、物語消費論で「大きな物語」と呼ばれているものは、実際には(ポストモダンの到来によって崩壊したとされる、より包括的な大きな物語ではなく)あくまで個別の物語であり、データベース消費論で持ち出されるデータベースというのはそれらの個別の物語を内包するような「メタ物語的な領域」と考えられるという。 経済学者の橋本努は、データベース消費は1990年代後半に活発に議論されたリベラリズムと構造的に一致していると述べている。この頃の個人を尊重するリベラリズムの言説は、他者を傷つけたくないから人格的評価を与えるなどの干渉もなるべくしない社会が望ましいという考え方が背景にあり、そういった他者の欲望と干渉することなく自身は動物化してデータベース消費に耽溺することを認めるというような流れに行き着いたのだという。 大塚英志は、東浩紀が萌え要素の組み合わせだけで匿名的に構成されていると論じたデ・ジ・キャラットについて、その図像がしっぽや猫耳といった要素に還元できるとしても、それを積分してひとつのキャラクターするにあたってささやかながらも作家性は発揮されており、消費者はそこに惹かれて商品を購入するに至っているのではないかと述べた。また、民俗学者の柳田國男が和歌・新体詩といった日本の古典文学は決まり文句を組み合わせることによって自分が体験していないことでもリアルに描くことができると論じていることに注目し、データベース消費の起源を東浩紀が想定しているよりも以前に遡ることができる可能性を示唆している。 精神科医の斎藤環は、固有名そのものに対する過去作品の引用と違って匿名的に行われるデータベースの参照というアイディアを導入した点でデータベース消費論は新規性があると評価している。他方、キャラクターの独自性はパターン認識可能な萌え要素の順列組み合わせだけで規定されるものではなく過去の歴史やジャンル性・物語性といったコンテクストに依存している点も指摘し、キャラクターを生成する領域としてデータベースよりも自律的な作動原理を備えた「アーカイヴ」 を想定したほうがいいのではないかと示唆している。 宇野常寛は、データベース消費のモデル自体は認めながらも、キャラクターが小さな物語を越境することを根拠にそれが物語批判として展開されたことには否定的である。オタク文化においてある作品のキャラクターが二次創作によって別の作品に投下されて自律性を保ったとしても、それはあくまで作品単位の越境性であってオタク文化という小さな物語を越えるものではなく、むしろオタク文化内で共有される価値観を再強化するものだという。例えば、原作では清純な美少女として描かれていたキャラクターが同人誌では淫乱な行為に耽っていたとしても、あくまでそれは共同体の中で共有される元のキャラクターのイメージを再強化する意味でのギャップが消費されていると解釈できる。 山口直彦は、ライトノベルなどのオタク系文化の批評に情報工学の知見を導入した点を評価しながらも、データベース消費論におけるデータベースが関係データベースとして想定されているにもかかわらずリレーションについての記述が一切存在しないことが欠陥であると述べている。そして、さらなる情報工学的なアプローチとしてはオブジェクト指向の概念を導入することによって東浩紀のデータベース消費論と伊藤剛のキャラクター論を統合して発展させられる可能性を示唆している。 社会学者の稲葉振一郎は、崩壊した大きな物語の代替としてデータベースという概念を提示した点については東浩紀の議論を評価しつつも、 モダンとポストモダンの対比は行われているが、プレモダンとの対比が行われていない 議論が虚構の水準に終始しており現実になにをするのか、という水準に及んでいない データベースの生成プロセスや具体的な構造についての考察が無い という3つの点の不備を指摘している。 評論家の後藤和智は、オタクの中でも第三世代以降を想定して展開した東浩紀の「動物化」「データベース消費」の議論を「若者論」に位置づけ、作品論ですらない構造分析によって若者が近代の枠組みが逸脱し始めているとするこの言説はほかの多くの若者論と同様にきわめて実証性に欠けるものであると批判している。 メディア論を専門とする新井克弥は東の議論について、「物語」の質的視点(価値観の絶対性)と量的視点(支持者の規模)の区別が十分についていないと指摘している。そして、「物語」は質的視点(絶対的か相対的か)と量的視点(大規模か小規模か)の2軸によって計4つに分類することが可能であり、その中でも「小規模・相対的」な物語に相当するものが、オタク第二世代 が没頭するデータベース消費になると整理している。 鏡裕之は、前述の「ケータイ小説のヒットを説明できない」という点に加えて以下の2つの点からデータベース消費はポストモダン社会の説明として欠陥があると指摘している。 データベースを参照しながらコンテンツを消費するのは第一・第二世代のオタクであり、大きな物語が喪失して以降の第三・第四世代のオタクはただ作品世界に没頭するだけである 1人のキャラクターを題材とした複数の異なる同人誌が二次創作される事実が説明できない また、鏡裕之はポストモダン社会を説明するためのより妥当なモデルとしてウロボロス消費を提示している。ウロボロス消費では、作品の構成要素(キャラクターなど)を中心点として、それが意味解釈という線分を経てエンターテイメントという平面上で別の形態の点として現れ、それが何度も繰り返されて円環状となる(円環を自分自身の尾を咥える蛇のウロボロスに例えている)。このように考えれば、データベース消費で考察されていたオタクによる二次創作活動(キャラクターの追跡消費)だけでなく、若い女性の間でのケータイ小説の受容(ショッキングな事件の追跡消費)や出演する俳優ありきで視聴するテレビドラマを決めるような態度(俳優の追跡消費)、さらには美少女ゲームでのいわゆる「CG回収」(CGの追跡消費)といったものが説明可能となる。 社会学者の東園子は、男性オタクの間で物語消費的・データベース消費的な創作・消費活動が行われるのに対し、BL・やおいを好む女性オタク(いわゆる腐女子)の間では作品中のキャラクター同士の関係性に注目した二次創作活動が行われているとし、これを相関図消費と呼んでいる。女性オタクによるやおい的な消費様式と男性オタク的なデータベース消費の類似点・相違点についてはやおい#パロディやおいと男性オタク向け二次創作の消費様式の違いを参照。 伊藤剛は、1990年代前半の時点で漫画家のいがらしみきおが『GURU』誌の1994年7月号において物語の代替としてのデータベースに言及する文章を発表していることを指摘し、のちの東浩紀のデータベース消費の議論の先取りであると述べている。
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