観応の擾乱とは? わかりやすく解説

観応の擾乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 17:09 UTC 版)

足利尊氏」の記事における「観応の擾乱」の解説

詳細は「観応の擾乱」を参照 延元3年/暦応元年1338年)、尊氏光明天皇から征夷大将軍任じられ室町幕府名実ともに成立した翌年後醍醐天皇吉野崩御すると、尊氏夢窓疎石勧められ、「報恩謝徳」「怨霊納受」のため、また源頼朝東大寺供養のように権威誇示する一大デモンストレーションのために天龍寺造営開始した造営費を支弁するため、元へ天龍寺船派遣されている。さらに諸国安国寺利生塔建立命じた南朝との戦い基本的に足利方が優位に戦い進め北畠顕家新田義貞楠木正成遺児正行などが次々戦死し小田治久結城親朝南朝離反して幕府従ったほか、正平3年/貞和4年1348年)には高師直吉野攻め落とし全山焼き払うなどの戦果をあげている。 新政権において、尊氏政務直義任せ自らは軍事指揮権恩賞握り武士の棟梁として君臨した佐藤進一はこの状態を、主従制支配権を握る尊氏統治権支配権所管する直義との両頭政治であり、鎌倉幕府以来将軍有していた権力二元性具現したものと評価した(「室町幕府論」『岩波講座日本歴史7』岩波書店1963年)。しかし、二元化した権力徐々に幕府内部対立呼び起こし高師直らの反直義派と直義派の対立として現れていく。この対立はついに観応の擾乱と呼ばれる内部抗争発展した尊氏当初中立的立場取っていた。正平4年/貞和5年1349年)、直義師直襲撃しようとするも師直側の反撃受けた直義逃げ込んだ尊氏邸を師直の兵が包囲し直義引退求め事件発生した直義出家し政務を退くこととなった直義排除には師直尊氏の間で了解があり、積極的に意図されていたとする説もあるが、後の直義言動より、直義師直襲撃にも尊氏言質与えていたもの思われ尊氏優柔不断に直義にも師直にもいい顔をしていたとの説もある。 師直直義に代わって政務担当させるため尊氏嫡男義詮鎌倉から呼び戻し尊氏代わりに次男・基氏を下して鎌倉公方とし、東国統治のための鎌倉府設置した直義引退後尊氏庶子直義猶子直冬九州直義派として勢力拡大していたため、正平5年/観応元年1350年)、尊氏直冬討伐のために中国地方遠征した。すると直義京都脱出して南朝降伏し桃井直常畠山国清直義派の武将たちもこれに従った直義勢力強大になると、義詮劣勢となって京を脱出し、京に戻ろうとした尊氏光明寺合戦打出浜の戦い敗れた尊氏高師直・師泰兄弟出家配流条件直義和睦し正平6年/観応2年1351年)に和議成立した。この交渉において尊氏は寵童饗庭氏直代理人立てたが、氏直に直義に「師直殺害許可する」旨を伝えるように尊氏命じたという記録残っている。和睦後師直兄弟とともに京に戻るが、この時尊氏出家姿になってみすぼらしい二人一緒に上洛するのは「見苦しいと言って嫌い、彼らに行列後ろから3里(約2km)ばかり離れてついてくるようにと指示出していた(『観応二年日次記』)。師直ら高一族尊氏見捨てられたような形で、護送中に彼らを父の敵として恨んでいた上杉能憲により殺害された。 直義は、義詮補佐として政務復帰した上記通り、この一連の戦闘勝者直義敗者尊氏であり、尊氏権威大きく失墜しもおかしくないはずである。ところが尊氏は全く悪びれる様子もなく、むしろ以前より尊大に振る舞ううになる論功行賞では尊氏派の武将優先直義約束させ、高兄弟滅ぼした上杉能憲死罪主張し直義との交渉の末これを流罪にした。また、謁見現れ直義派の細川顕氏降参扱いし、太刀抜いて威すなどまるで勝者のように振る舞い勝ち戦上機嫌だった顕氏は尊氏不思議な迫力気圧され一転して恐怖震えたという。そもそも尊氏細かいことに拘らない性格だったが、今回敗戦尊氏直義戦いではなく、あくまで師直直義戦いだと、自分都合いいよう考えてたようだ。更に、直義北条泰時理想とする守旧的な政治は、幾度戦乱経て現実即しているとは言い難かったため、尊氏派に宗旨替えする武将続出し敗者だった尊氏側が実際に優勢であるという情勢ができてゆく。このような情勢の中で、直義派の武将殺害されたり襲撃されたりするなど事件洛中続発し終には直義政務から再び引退するに至る。 尊氏佐々木道誉謀反名目近江へ、義詮赤松則祐謀反名目として播磨へ、京の東西出陣する形となったが、佐々木赤松謀反真相不明で(後に彼らは尊氏帰順)、実際に尊氏はむしろ直義追討企てて南朝和睦交渉行った。この動きに対して直義は京を放棄して北陸経由して鎌倉逃亡した尊氏南朝和睦同年10月成立し、これを正平一統という。この和睦によって尊氏南朝から直義追討綸旨得たが、尊氏自身がかつて擁立した北朝崇光天皇廃されることになった。そして尊氏直義追って東海道進み薩埵峠の戦い (南北朝時代)静岡県静岡市清水区)、相模国早川尻(神奈川県小田原市)の戦いなどで撃ち破り直義捕らえて鎌倉幽閉した。直義は、正平7年/観応3年1352年2月高師直一周忌急死した『太平記』物語では、尊氏による毒殺疑い匂わせるように描かれた。 なお、観応の擾乱前夜正平4年/貞和5年1349年後半ごろから、薨去数年前正平10年/文和4年1355年後半ごろまで、尊氏以前違って将軍自ら政治行い嫡子義詮共同統治行った通説では尊氏政治余り顧みられることがなかったが、21世紀初頭入り日本史研究者森茂暁亀田俊和はこの時期尊氏義詮政治的手腕高く評価している。

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観応の擾乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 05:37 UTC 版)

足利義詮」の記事における「観応の擾乱」の解説

観応の擾乱によって義詮は、叔父である足利直義をとても嫌ったという。 足利直義義詮をとても支持していた高師直などを暗殺してしまったからであり、実際に義詮南朝降伏したときに、直義討伐条件南朝に書かせている。 ちなみに義詮の弟・足利基氏義詮反対で、直義支持していたという。 観応の擾乱でも基氏は直義となっていた。

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