競技者として
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まず特筆すべきは2008年と2009年に、世界選手権のロング種目を連覇し、2011年にはスプリント種目で優勝。また2009年のワールドゲームズではミドル種目において金メダルを獲得しており、オールラウンダーといえるだろう。2008年のワールドカップではティエリー・ジョルジュやマティアス・メルツを破って総合優勝を果たしている。世界的に名高いリレー大会TiomilaやJukolaでもその実力を遺憾なく発揮し、チームメイトであったマティアス・メルツとともに所属クラブを優勝へと導いている。
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競技者として
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「ソフィー・クリスチャンセン」の記事における「競技者として」の解説
2004年のアテネ・パラリンピックはクリスチャンセンが経験した初めてのパラリンピックであった。さらに当時16歳の彼女は、当該大会に出場する英国選手の中で最年少であった。フリースタイルでは4位、馬場馬術個人グレード1では1位(金メダル)、団体では3位(銅メダル)であった。 パラリンピック競技大会がクリスチャンセンの人生に大きな影響を及ぼした、ということがよく言われる。彼女とパラリンピックとの出会いは彼女がティーンエイジャーの頃であるが、当時彼女は学校で、自分の障碍のことを非常に気にしており、特に話すことが苦手であった。しかし、いちどきに多くの障害者と出会い、自らの生に折り合いをつけて笑い飛ばしもする、そういうポジティブな光の中にいるかのような経験を彼女はパラリンピックで得た。そして、もう一度パラリンピックに出場したいと思うようになった。 2008年の北京・パラリンピックにおける馬術競技は、ホスト都市の北京では開催されず、香港のオリンピック馬術センターで開催された。クリスチャンセンは馬場馬術個人グレード1、フリースタイル、団体に出場した。騎乗馬匹はラムブラスコ3号(Lambrusco III)、個人と団体で金メダルを獲得し、フリースタイルでは銀メダルを獲得した。 2012年のロンドン・パラリンピックで、クリスチャンセンはハネイロ6号(Janeiro 6)に騎乗し、3個の金メダルを獲得した。1つ目はフリースタイル。2つ目は個人種目グレード1。3つ目は団体。デビー・クライドル、リー・ピアソン、ソフィー・ウェルズらと共に出場した 2016年のリオ・パラリンピックで、クリスチャンセンは3個の金メダルを手にした。1つ目はフリースタイル。79.7% のスコアを得た。2つ目は馬場馬術個人グレード1。グレード1は最も障碍の程度が重いアスリートの属するクラスである。3つ目は団体。ナターシャ・ベイカー、アン・ダンハム、ソフィー・ウェルズらと共に出場した。 パラリンピックのみならず、クリスチャンセンは多数の世界大会に出場し、いくつものメダルを得ている。
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競技者として
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増田が長距離走に取り組み始めた当時、日本陸連は1980年にトラック・ロードの女子長距離種目を公認対象に加えたばかりであった。ロサンゼルス五輪での女子マラソン正式採用決定(1981年)もあって強化が求められていたが、まだ選手層も薄く、欧米と比べて記録面での格差は否めなかった。その時期に、日本の記録水準を高めた選手である。当時の新聞にも「国際水準に数えられる日本新を出した意義は極めて大きい」と記された。上記の通り、マラソンで世界歴代および年間ベスト10に入った最初の日本選手であった。 増田が作った日本記録のうち、フルマラソンは4年4ヶ月、トラック種目は5年以上破られず、他の選手の目標となった。小出義雄は、皆が増田の記録を破ろうとしたことで、(女子長距離走の)コーチや練習環境もよくなったと述べている。無名の中高生ランナーだった有森裕子が、全盛期の増田に憧れて練習日誌に増田に関する記事を貼っていたと証言する など、後続の選手にも影響を与えた。テレビ局のマラソン中継番組スタッフからは、選手層が薄くしかも年齢が高い女子マラソン選手が多かった当時、「小柄で若くて強」く、「軽が重を制す」という増田は「昔ながらの日本人好みのパターン」としてスター選手となったと指摘されている。 こうした成績を可能にしたのは、一日15km・1ヶ月に600km という当時の女子選手としては豊富な練習量と、海外の有力選手とも遜色のない高い心肺能力(最大酸素摂取量が全盛期で体重1kgあたり毎分72ml)であった。この心肺能力について、瀧田は当時「軽自動車にF1のエンジンを搭載したようなもの」と評していた。 ランニングスタイルは、「他人の後ろを走るのが嫌い」という性格もあって「先行逃げ切り形一本槍」だったと述べており、宗兄弟からは「おまえは日本のイカンガーだ」と評されたという。身長が低いため瀧田からはストライド走法を勧められ、それを可能にするため一日に3000回の腹筋運動などの激しい補強運動をおこなっていた。 一方でメンタル面で弱さを持つランナーだったことを引退後に認めている。特に瀧田の指導を受けた時期はマンツーマンの指導になってから自主性を失い、「負けん気はあっても芯の強さが不足していた」と述べている。 瀧田は当初取材に対して「じっくり育てて、1988年のソウルオリンピックのマラソンを狙わせる」、「増田の心身のピークは1992年のオリンピックの頃」 といった発言をおこなっていた。しかし、他に適任者が佐々木七恵しかいなかったり、ロサンゼルス五輪のトラック種目は3000mが最長(10000mが種目に加えられたのは次のソウル五輪から)だったといった事情もあり、20歳のロサンゼルス五輪でマラソンに出場した。この点について、小掛照二は1991年に「結果的には、若いうちからマラソンに追い込みすぎた。犠牲者は、もう増田ひとりでいい」とコメントした。「一週間の差」で指導する機会を逸した小出義雄は「増田の力をうまく開花させられたら、(引用者注:日本の女子長距離選手の中で)五輪で最初にメダルに届いたのは彼女じゃなかっただろうか。しっかり食べさせたかった」とその才能を惜しんでいる。 アメリカ留学から帰国後の選手時代について増田は、自主性をもって取り組めたという点で「オリンピック前の競技生活とは比べものにならないほど豊かで、充実した競技生活だったと自信を持って言うことができる」と引退後に述べている。 スペシャルドリンクは蜂蜜入りの紅茶を使っていた。ある年の北海道マラソンでは調子が悪かったため、気分転換にすべてのドリンクをレース中に飲み干したところ、レース後の体重がスタート前より0.8kg増えており、「夏のフルマラソンを完走して体重が増えるのは増田くらいだ」と笑われたという。 スタート前に聴く音楽は松任谷由実やサザンオールスターズなどだった が、あるレースの前に突然「天城越え」が「無性に聴きたくなり」、レース中もメロディーが頭から離れずに上り坂では腕の振りまでこぶしを回すような動きになった。それ以来、レース前日などに「天城越え」をカラオケで歌った調子と当日の調子が妙に符合するようになり、「コンディションを計るバロメーターになった」という。 高校1年生のとき、瀧田から吉川英治の『宮本武蔵』と武蔵の著書である『五輪書』を手渡され、それ以来競技生活で心の支えとしていた。 川鉄千葉の頃までは、修行僧のように無表情で走っていた。これは高校1年生の全国高等学校総合体育大会陸上競技大会800mの際、ウォーミングアップ直前まで知人などとしゃべりすぎて力が抜け予選落ちした時に、瀧田から「強くなりたければ口を閉じろ」と指導されたことに由来する。また、この指導を受けて「書くことでストレスを発散する」方針に切り替え、引退まで約300冊の練習日誌をつけることになった。 上記の通り、1982年のノルウェー遠征でグレテ・ワイツと同走した。5000mではワイツからは大きく離され、ハーフマラソンでもやはりワイツのペースについていけず、スタート直後に引き離されそうになったときに悔しさからワイツのランニングパンツを手で引っ張ったところ、ワイツは増田の手をはたいて走り去った。
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