競技者時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/22 07:47 UTC 版)
1989年の彦根東高校3年時、高知インターハイ1500mで3分54秒41をマークし、優勝した武井隆次に次ぐ5位であった。早大OBの瀬古利彦の勧誘を受け、1990年、早稲田大学に入学。同大学競走部では同期の武井隆次、櫛部静二とともに早大三羽烏と呼ばれ注目を浴びる。2年後輩には渡辺康幸がいる。1993年正月に行われた第69回箱根駅伝の4区(21.0km)では、1時間2分7秒の区間新記録で区間賞を獲得し、同大学の7年ぶりの往路優勝・8年ぶりの総合優勝に貢献した。同年の全日本インターカレッジでは5000mで優勝している。 早大卒業後、瀬古利彦が監督を務めていたエスビー食品に入社し、陸上競技部で活躍した。1994年の日本選手権では5000mで優勝。1996年のアトランタ五輪選考会の日本選手権では10000mで2位。いずれの2レースとも、カネボウの高岡寿成vs花田・渡辺康幸・平塚潤らエスビー食品勢の強烈なデッドヒートが繰り広げられ、5000mでは、ラスト800mでスパートを仕掛け、追う高岡を平塚がラスト250mでかわし抑え込む形となり、高岡に競り勝ち優勝。10000mでは、平塚・渡辺をかわした高岡にラスト100mでかわされ2着であった。 1997年のアテネ世界陸上マラソン代表。1996年のアトランタオリンピック陸上競技男子10000m代表、2000年のシドニーオリンピック陸上競技男子5000m・10000m代表と、2度のオリンピック出場を果たす。シドニーオリンピック以降は、ケガの影響もあり目立った活躍はなく2004年引退。引退後、指導者に転身。
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