特異なアメリカスタイル
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「アメリカ文学」の記事における「特異なアメリカスタイル」の解説
米英戦争と共にアメリカ固有の文学や文化を生み出したいという願望が増し、多くの新しい文学界の重要な人物が現れた。その中でもワシントン・アーヴィング(1783年 - 1859年)、ウィリアム・カレン・ブライアント(1794年 - 1878年)、ジェイムズ・フェニモア・クーパー(1789年 - 1851年)およびエドガー・アラン・ポー(1809年 - 1849年)が特筆される。アーヴィングはアメリカ固有のスタイルを開発した最初の作家と考えられることが多く(ただし異論が出ている)、『サルマガンディー』(Salmagundi)や良く知られた風刺『ディートリヒ・ニッカーボッカーによるニューヨークの歴史』(A History of New York, by Diedrich Knickerbocker、1809年)でユーモアある作品を著した。ブライアントはロマンチックで自然に触発された初期の詩人であり、ヨーロッパの影響から離れた。1832年、ポーは短編小説を書き始めた。その中には『赤死病の仮面』(The Masque of the Red Death、1841年)、『落とし穴と振り子』(The Pit and the Pendulum、1842年)、『アッシャー家の崩壊』(The Fall of the House of Usher、1839年)および『モルグ街の殺人』(The Murders in the Rue Morgue、1841年)があり、人間心理の以前は隠されていた面を探求し、小説の範囲を推理小説やファンタジーにまで拡げた。クーパーのナッティ・バンポーに関する『レザーストッキング・テイルズ』(Leatherstocking Tales、『モヒカン族の最後』(The Last of the Mohicans)はその第2作)は国内でも海外でも好評を博した。 この時代に人気のあったユーモア作家としては、ニューイングランドのセバ・スミス(1792年 - 1868年)とベンジャミン・P・シラバー(1814年 - 1890年)がおり、南部のデイヴィッド・クロケット(1786年 - 1836年)、オーガスタス・ボールドウィン・ロングストリート(1790年 - 1870年)、ジョンソン・J・フーパー(1815年 - 1863年)、トマス・バングス・ソープ(1815 - 1878年)およびジョージ・ワシントン・ハリス(1814年 - 1869年)はアメリカのフロンティアについて書いた。 ニューイングランド・ブラーマンズはハーバード大学とそれがあるマサチューセッツ州ケンブリッジを繋がりとする作家の集団だった。その中心となったのは、ジェイムズ・ラッセル・ローウェル(1819年 - 1891年)、ヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー(1807年 - 1882年)およびオリバー・ウェンデル・ホームズ(1809年 - 1894年)だった。 1836年、ラルフ・ウォルドー・エマソン(1803年 - 1882年)は元牧師であり、『自然』(Nature)と呼ぶ衝撃的なノンフィクションを出版した。その中で自然界を勉強し反応することで、既に組織化された宗教とは離れ、高い精神状態に達することが可能であると主張した。その作品は彼の周りに集まった作家達に超絶主義と呼ばれる運動を起こさせただけでなく、その講義を聞いた大衆にも影響を与えた。 エマーソンの共鳴者で最も才能豊かだったのは恐らく革新的反逆児だったヘンリー・デイヴィッド・ソロー(1817年 - 1862年)だった。ソローは森の中の池端にあった丸太小屋で2年間ほとんど一人で暮らした後で、『ウォールデン-森の生活』(Walden、1854年)を書いた。これは本1冊分にのぼる回顧録であり、組織化された社会のお節介な指図に反抗することを奨励している。その過激な書き方はアメリカ人の性格にある個人主義に向かう深く根ざした傾向を表現している。超絶主義に影響されたその他の作家としては、ブロンソン・オルコット(1799年 - 1888年)、マーガレット・フラー(1810年 - 1850年)、ジョージ・リプリー(1802年 - 1880年)、オレステス・ブラウンソン(1803年 - 1876年)およびジョーンズ・ベリー(1813年 - 1880年)がいた。 奴隷制度廃止運動に関わる政治紛争によって、ウィリアム・ロイド・ガリソン(1805年 - 1879年)とその新聞「リベレーター」における作品に刺激を与え、また詩人ジョン・グリーンリーフ・ホイッティアや、世界的に有名になった『アンクル・トムの小屋』(Uncle Tom's Cabin、1851年)を書いたハリエット・ビーチャー・ストウ(1811年 - 1896年)が続いた。 1837年、青年ナサニエル・ホーソーン(1804年 - 1864年)が、『二度語られた話』(Twice-Told Tales)として象徴主義でオカルト的事件が豊富なその作品を集めた。ホーソーンは長編の「恋愛小説」として寓話風な小説を書くようになり、罪、誇りおよび生まれ故郷のニューイングランドにおける感情的抑圧といった主題を開拓した。その傑作『緋文字』(The Scarlet Letter、1850年)は、姦通を犯し不義の子を産んだことでその地域社会から迫害される女性の過酷なドラマである。 ホーソーンの小説はその友人であるハーマン・メルヴィル(1819年 - 1891年)に大きな影響を与えた。メルヴィルはその船乗り時代の経験を風変わりでセンセーショナルな海洋説話小説に変えることでその名前を残した。メルヴィルはホーソーンの主題である寓話や暗い心理描写に影響を受けて、淡々たる思索の豊富なロマンを書くようになった。『白鯨』(Moby-Dick)では、冒険的捕鯨の旅が強迫観念、悪の性質、および原理に対する人間の戦いというような主題を掘り下げる舞台になった。他にも短編の傑作『ビリー・バッド』(Billy Budd、1924年の死後出版)では、戦時の艦船上における義務と同情心の葛藤をドラマ化した。メルヴィルの豊富な作品は存命中にほとんど売れず、死後も暫くは忘れられた存在だった。死後30年を経た1921年に再評価の動きがおこった。 メルヴィル、ホーソーンおよびポーによる反超絶主義的作品は当時の文学界の小ジャンル、暗黒ロマン主義を構成するものである。
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