捕鯨の旅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/07 16:35 UTC 版)
「カルステン・ボルクグレヴィンク」の記事における「捕鯨の旅」の解説
ボルクグレヴィンクが加わった遠征は、ノルウェーの実業家で起業家のヘンリク・ブルが組織していた。ブルはボルクグレヴィンクと同様1880年代にオーストラリアに入っていた。ブルは南極海域でのアザラシ漁と捕鯨を計画した。メルボルンの学会で、商業と科学の両面を持つ費用折半の事業に興味を引かせることに失敗し、ノルウェーに戻ってそこで遠征隊を組織した。ブルは84歳の「近代捕鯨の父」かつ捕鯨砲の発明者であるスヴェン・フォインと出逢った。フォインの支援を得て捕鯨船カップノア(北の岬)を取得し、アンタークティック(南極)と改名した。ブルは経験を積んだ捕鯨船の船長レナード・クリステンセンを雇い、1893年9月、乗組員と小さな科学チームと共にノルウェーを出発した。ボルクグレヴィンクは1894年9月にアンタークティックがメルボルンに寄港すると知ったとき、人員に空きが無いかを期待して急ぎメルボルンに行った。後に自分で南極遠征を率いることになるウィリアム・スペアズ・ブルースが、博物学者としてブルの遠征に加わるつもりだったが、船がノルウェーを離れる時に間に合わなかった。このことでボルクグレヴィンクの入り込む隙間が生じていたので、メルボルンでブルに会い、甲板員と科学者を兼ねる要員として自分を連れて行くよう説得した。 その後の数か月間、亜南極地域の諸島周辺でのアザラシ漁は成功だったが、クジラを見つけるのは難しかった。ブルとクリステンセンはさらに南に進んでみることに決めた。それ以前の遠征ではクジラの存在が報告されていた。船は流氷のベルトを抜けてロス海に入ったが、依然としてクジラは見つからなかった。1895年1月17日、ポゼッション島に上陸した。そこは1841年にジェイムズ・クラーク・ロス卿がイギリス国旗を立てた所だった。ブルとボルクグレヴィンクは、自分たちがそこに来た証拠として、缶にメッセージを入れてそこに残した。この島でボルクグレヴィンクは地衣類を見つけた。南極圏より南では初めて見つけられた植物だった。1月24日、船はケープ・アデアの近くに着いた。そこは南極大陸のヴィクトリアランド海岸線の北端だった。ロスが1841年にここへ来たときは上陸できなかったが、アンタークティックが岬に近づくと、ボートを降ろせるほど気象条件が良かった。ブル、クリステンセン、ボルクグレヴィンク他を含む1隊が岬の下の砂利浜に向かった。このとき誰が最初に上陸したかが議論になった。クリステンセンとボルクグレヴィンクがその栄誉を巡って争った。17歳のニュージーランド水夫アレクサンダー・フォン・タンゼルマンも「ボートから飛び降りてボートをしっかり保持した」と主張していた。この隊は南極大陸初の上陸だと主張したが、この前の1821年2月にイギリスとアメリカの捕鯨船長ジョン・デイビスが南極半島に上陸したか、あるいは他にも捕鯨船の遠征があった可能性もある。 ボルクグレヴィンクはケープ・アデアで上陸している間にさらに石と地衣類の標本を集めた。それまでこれほど南で植物が生育できるか疑われていたが、その標本が科学の世界に大きな興味を生み出すことになった。ボルクグレヴィンクはさらに海岸線の細かい調査を行い、将来遠征隊が上陸して越冬用の基地を設営できるか可能性がある場所を評価した。アンタークティックがメルボルンに戻ったとき、ブルとボルクグレヴィンクは船を離れた。それぞれがさらなる南極探検の資金を集めようとしたが、うまく行かなかった。むしろ二人の間に敵意が生まれた。これはアンタークティックでの航海に関する二人の証言が異なっていたことが原因である可能性が強い。それぞれが互いの役割を十分に認識しないままに自分の役割ばかりを強調していた。
※この「捕鯨の旅」の解説は、「カルステン・ボルクグレヴィンク」の解説の一部です。
「捕鯨の旅」を含む「カルステン・ボルクグレヴィンク」の記事については、「カルステン・ボルクグレヴィンク」の概要を参照ください。
- 捕鯨の旅のページへのリンク