捕鯨の歴史とは? わかりやすく解説

捕鯨の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 04:48 UTC 版)

太地町」の記事における「捕鯨の歴史」の解説

太地における捕鯨の歴史は、1606年慶長11年)に和田家一族豪族)の和田頼元外来漁師などと共に原始的な捕鯨技術の開発行い太地浦を拠点として組織的な捕鯨行ったのが始まりで、和田一族中心として5つの刺手組という捕鯨団体のようなものが形成されていた。その後1675年延宝3年)に三代目和田頼治がを網に追い込んでとる網捕法(網掛突捕法)という方法発明すると、今度和田一族統制下太一村大きな方を形成する至り最盛期には捕鯨従事者が1,000人ほどいたと言われる)、これが200年近く続いた太地では親子を捕らないという独特の習慣もあった。しかし1878年明治11年)に捕鯨中の事故により百名上の死者を出す大背美流れ起こったため、この方も崩壊した太地が再び捕鯨の町となるのは25年ほど経った日露戦争後のことである。近代的な資本による捕鯨基地として多くの船で賑わい体の処理場缶詰にする工場もでき、太地は再び捕鯨産業盛んになった。遠洋捕鯨船乗組員としても、多く太地町出身者活躍した小型鯨類ゴンドウクジラなどを対象とし、捕鯨銃を使う沿岸捕鯨明治時代の末には非常に盛んになった。ゴンドウクジラ漁はテント(天渡)船(動力式の小型キャッチャーボート)を利用した捕鯨銃や銛による突き取り漁となり、また北日本沖でミンククジラ対象として操業する沿岸捕鯨拠点でもあった。しかし遠洋捕鯨は、資源の枯渇などから国際捕鯨委員会 (IWC) を中心とした規制進み最終的に商業捕鯨モラトリアムにより、資源状態に関わらず全面停止となった。これにより1988年には太地でも、沿岸ミンククジラ漁を含むヒゲクジラ商業捕鯨中断される至った以後は、捕鯨砲用いてゴンドウクジラ類やツチクジラ捕獲する小型捕鯨業と、追い込み網漁などの「いるか漁業」だけが行われ、また、追い込み網漁に関して他地域での衰退もあり、太地は、日本国内大規模な追い込み網漁が残った唯一のとなったここで言う「いるか」はゴンドウクジライルカなどの「小型鯨類」を指す)。また、かつては頻繁に行われた小型鯨類突きん棒漁業も現在はごくわずか行われる。また当地に、日本最後に残るイルカ追い込み網漁が、他国から動物福祉観点から非人道的批判を受けることもあったが、イルカ漁支持する国民多くおり、日本国政府イルカ漁日本の伝統文化だと説明し2014年閣議決定した。

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捕鯨の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 18:05 UTC 版)

捕鯨問題」の記事における「捕鯨の歴史」の解説

詳細は「捕鯨#歴史」および「鯨肉#鯨肉食文化」を参照 現在では反捕鯨側に立っている国々も、過去には捕鯨国だった場合がある。それらの国々捕鯨も、最初沿岸捕鯨から始まった19世紀末にはノルウェー捕鯨開発されナガスクジラ科捕獲進んだ鎖国中の日本異なり遠洋航海可能だった国々では、沿岸捕鯨減れば沖合捕鯨遠洋捕鯨へと移行し、さらに他の漁場移動して捕鯨続けた初期には食肉利用行っていたが、十分な保存技術がなかったため、鯨油ヒゲなどの資源のみを目的とするようになった南極海でも20世紀初頭に本格的な捕鯨始まった19世紀から20世紀半ばにかけてアメリカオーストラリアノルウェー灯火燃料機械油用の鯨油目的捕鯨当時世界最大規模盛んに行ったため、絶滅寸前瀕した種もいたといわれ、主にセミクジラマッコウクジラ減少した1931年シロナガスクジラ捕獲ピークとなる。以後ナガスクジラなどのより小型種に移行して捕獲続いたが、最終的には、鯨類資源減少鯨油需要低下から不採算となる。 日本では文化全国育まれていた事から欧米商業捕鯨とは一線を画す漁法が行われていたものの、前述アメリカ捕鯨船捕鯨により日本近海短期間の内に資源の枯渇招いた、とする論調もある[要出典]。しかし、欧米捕鯨対象種が種としてマッコウクジラセミクジラ対象にしているのに対し、網捕り式捕鯨では当時欧米が捕れなかったシロナガスクジラなども獲物出来たため、必ずしも欧米のみに起因する資源枯渇であったかは疑問視されている。特にアメリカ式捕鯨重視されたのはマッコウクジラであるが、殆ど食用向かないマッコウクジラ日本の捕鯨ではあまり重視されていなかった。セミクジラに関して日本近海での欧米操業行われてはいない。また、そもそも世界規模航海を伴うものの、この時代アメリカ式捕鯨とは帆船母船から肉眼クジラを捜し、発見後漕ぎボート降し人力にて銛を打ち込むというものであって全盛期世界全体800程度が年10程度ずつを捕獲していた。 日本各地点在していた鯨組多く姿を消していった。この為日本前述ノルウェーなどとともに20世紀初頭から南氷洋捕鯨参加している。

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