捕鯨とグアノ採掘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 03:36 UTC 版)
19世紀前半は中部太平洋におけるアメリカ合衆国の捕鯨が全盛期であり、この捕鯨従事者達がマルデン島を訪れることがしばしばあった。 1918年、アメリカ合衆国のスクーナー・アニー・ラーセン(英語版)がマルデン島に立ち寄っている。アニー・ラーセンはHindu–German Conspiracyによって悪名高い。 1856年に成立したアメリカ合衆国のグアノ島法に基づき、アメリカ合衆国のグアノ採掘業者が利権を主張した。このグアノ島法は、他国政府によって領有されていないあらゆる島、岩、珊瑚礁に堆積するグアノを米国市民が発見し平和的に占領したときはいつでも、アメリカ合衆国大統領の裁量で領有したと判断して差し支えないといったものであった。しかしながら、アメリカ合衆国の業者がグアノ採掘を始める前に、マルデン島はイギリス政府から許可を受けたオーストラリアの採掘業者によって占拠されていた。この採掘業者とその後継業者は、1860年代から1927年までマルデン島でグアノの採掘を行った。 グアノ採掘期にマルデン島を訪れたベアトリス・グリムショー(英語版)は、「不毛と言うほかないちっぽけな島」と酷評しており、「...日陰、涼しさ、清々しい果物、愉快な光景や音、ここにはその様なものは全く存在しない。この島で生活する人々が見るのは、どうにかして耐え忍ばねばならない流刑地の光景である。」とも述べている。また彼女は、マルデン島には「大きな木製の桟橋を正面に備えた入植地がある。背の低い、灰色がかった緑の草に覆われた平原のうら寂しさは、ささやかな黄色い花を咲かせた灌木が点在することで和らげられている」と述べている。淡水が無く、淡水の井戸の採掘もできなかったマルデン島において移住者たちの水は、大規模な蒸留施設によって賄われていた。 一方で、5人ないしは6人のヨーロッパ人のマルデン島の監督者は、「砂浜の上のブリキ屋根の小さな平屋建ての家」を与えられたが、一方でニウエやアイツタキ島から来た労働者たちは、「大きい納屋のような小屋」に居住していた。グリムショーは、この建物について「広く、がらんとした、日陰の多い建物で、取り付けられた広い棚に敷物と枕を敷いて眠る」と述べている。労働者たちの食事は、「米、ビスケット、サツマイモ、缶詰の牛肉と紅茶、それと病気になった者には僅かばかりのココナッツ」から構成されていた。また白人の監督者の食事は、「様々な種類の缶詰、パン、米、鳥肉、豚肉、羊肉と羊乳」から構成されていた。その一方で、野菜を採ることは困難であった。 契約によってマルデン島に来た労働者達は、1年間の契約で1週間当たり10シリングの給与に加えて部屋と食事が与えられ、契約が終了した際には出身の島へ送還されることになっていた。監督者たちの給与は、「かなり高額である」と述べられていた。仕事は、朝5時から夕方5時まで行われ、1時間と45分の食事休憩の時間が間に含まれていた。 このグアノ採掘者達によって、マルデン島には大きな帆を付けた車両を用いて移動する軌道が設置された。労働者たちは、空の車両を押して荷役作業場から採掘場所まで押し上げた。そして一日の最後に帆を張り、マルデン島でよく吹く南東方向の風にのってグアノを積み込んだ車両を移動させ、グアノを運び出した。その間、車両が一度や二度の脱線事故を起こすのが常だったが、この仕組みは十分に有用なものだった。また、この軌道では手押し車も同様に用いられていた。この軌道は、1924年にいたるまで使用されており、今日においてもその路盤は残っている。 マルデン島におけるグアノ採掘は、1920年代前半を通して継続されていたが、1930年代初頭までにマルデン島から人の営みはすべて潰えた。そして、1956年にいたるまで、誰一人としてマルデン島を利用する者はいなかった。
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