民族解放戦争時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 19:56 UTC 版)
「ラオス内戦」も参照 1956年7月4日、王国政府とネオ・ラーオ・ハクサート(NLHS)の連立政権樹立の合意をうけて、カタイ内閣が総辞職、8月10日にプーマ親王を首相とする連立政権が発足した。翌年12月8日にはサムヌア県、12月18日にはポンサーリー県の行政権がそれぞれラオス王国に返還された。 1958年5月4日サムヌアとポンサーリーでNLHSが初めて参加する補欠選挙が行われ、新設21議席のうちNLHSは9議席を獲得、NLHSと同盟した平和中立党が4議席を獲得し、左派が議席の過半数を得た。これはNLHSが唯一参加した選挙であった。しかしこれに危機感を募らせたアメリカは対ラオス援助を停止、右派は総辞職を決行し、次代首相に親米派のプイ・サナニコーン(英語版)を指名した。 NLHSは親米派首相の元での入閣を拒否、プイ内閣の単独・親米内閣が発足した。こうして、ジュネーヴ国際会議で合意された連合内閣は9ヶ月で終わった。プイ内閣発足後、アメリカは対ラオス援助を再開した。ラオスにおけるアメリカの影響力強化を懸念したNLHSは、プイ内閣への反政府行動を宣言、やがて、王国政府軍に帰属するNLHS派兵士が集団脱走していくという事態が発生、各地で衝突が勃発し始めた。 1959年5月11日、王国政府はスパーヌウォン親王らNLHS幹部らを逮捕、ポンケーン刑務所へ収監するという強硬手段に出た。7月16日、王国政府軍とNLHS軍が衝突(en:North Vietnamese invasion of Laos)、プイ内閣はNLHS側に政権ポストを空けて交渉しようとしたが、こうした態度を弱腰だとする国益擁護委員会(CDNI)により、10月30日にクーデターが発生。プイ内閣は崩壊した。1960年4月24日、CDNIがNLHSを除外して実施した管理形式選挙によりCDNIは全59議席中37議席を獲得。6月、CDNIが結成した民主社会党内閣(首相はソムサニット(英語版)殿下)が発足した。ソムサニット内閣誕生でラオス王国はさらに親米に偏り、アメリカの短期間かつ過剰な援助は急激なインフレを引き起こした。 1960年5月23日、住民らの手を借り、ポンケーン刑務所からスパーヌウォン親王らNLHS幹部が脱走。反政府活動は次第に激化していった。当時のチャンパサク国防相によれば1960年初期には南部ボロベン高原、アッタプー、パークセーなどでもっとも反乱軍がはびこっていた。 1960年8月9日、王国政府軍第二空挺大隊副隊長コン・レー大尉がクーデターで首都ヴィエンチャンを占拠。コン・レー大尉はプーマ元首相に対し左派との連立組閣を要請、元首相はNLHSとの連立政権を発足させた。アメリカはラオス援助を停止し、タイ王国もアメリカの要請で国境封鎖を断行した。これらの経済制裁にラオス政府は困窮し、ソビエト連邦に援助を要請、ソビエト連邦との国交を樹立した。ソビエト連邦にとってはこの要請は東南アジアへ進出する契機となり、緊急救援物資の輸送などを積極的に行った。 アメリカはコン・レー大尉のクーデターから避難していたノーサワン(英語版)将軍ら右派を援助し、軍を再編成した。将軍は1960年12月16日首都ヴィエンチャンを奪回し、ブン・ウム内閣を発足させた。NLHS側は1960年末から再び軍事行動を開始し、1961年1月1日シエンクワーンを占領し、その後ルアンパバーンやポンサーリーなどといった地域を次々と占拠していった。こうした事態を受けアメリカ合衆国大統領ドワイト・D・アイゼンハワーは第7艦隊に警戒態勢を発動するなどしてNLHSへ圧力をかけたが、NLHS軍はその後もサムヌア、ヴィエンチャン、ルアン・ナムター、カムムアン、サヴァナケートなどの各地域に勢力を拡大していった。 タイのサリット首相はNLHSの伸張を阻止すべくSEATOへ派兵要請をしたが、実現しなかったためSEATOを激しく批判した。1961年5月16日からのジュネーヴ国際会議で、チューリッヒにラオス諸派の会談を設ける事が決定された。翌1962年6月12日、この三派会談で、プーマ首相による新連立政権樹立が合意された。これを受けジュネーヴ国際会議は「ラオス王国の中立に関する宣言」を7月23日に採択した。ラオス王国内に駐在するアメリカ軍及びベトナム軍は撤退し、ようやく平和が訪れたかに見えたが、1963年中立派のケッサナー大佐と左派のキニム(英語版)外相が暗殺され、以後右派の政治勢力が台頭した。同年4月にはクープラシット(英語版)将軍によるクーデター未遂が起こった。連立政権への不信を増したNLHSは閣僚を引き揚げ、以後政権は中立派がプーマ首相のみで閣僚は全て右派となり、発足当初の三派連合政権としての機能を完全に失った。 1965年7月にはNLHS不参加の形式選挙が実施され、右派が政権を握った。NLHSは中立派の軍と連携を強化し、この頃より呼称を「人民解放軍」と改めた。1967年末頃サヴァナケートで活動を開始し、翌1968年にはジャール平原、ルアンパバーン空港、ムオン・スイ基地などを占領した。同年北爆が停止されるとアメリカ軍はラオス国内へ爆撃目標を転換、パテート・ラーオ支配地域は人口密集地域においても激しい空爆が行われるようになった。ひと月1.7万~2.7万回の出撃、1日800回もの空爆が行われた。1969年にはナチ占領下の欧州戦線で投下された爆弾量を上回る猛爆となった。この空爆により70万人以上の国内難民が発生し、35万人が犠牲となった。これらの爆撃で使用されたクラスター爆弾の多くが不発弾化して広範な田畑や村落部に残った。NLHSは1970年3月の声明で、アメリカ軍の完全撤退・総選挙実施・臨時連合政府樹立・休戦を訴えた。王国政府側はベトナム軍が駐留するかぎりありえないとこれを退けた。このためNLHSと中立派は軍事行動を激化させ、同年3月以降、サムトーン基地、アトプー、サラワンを制圧した。 この後、1972年パリ和平会談を受け、王国政府とNLHSとの交渉で、2月21日「ラオスにおける平和の回復および民族和解に関する協定」(通称ラオス和平協定)が調印され、ラオス王国における王政維持を含む枠組みを定めた政治体制について合意がなされた。1973年、ラオス和平協定が成立、アメリカ軍はベトナムから撤退。1974年王国政府とNLHSは解体され、三派合同で設立した暫定国民連合政府によって、行政機関の改組が実施されていった。 1975年5月1日には首都で住民2万人規模の大規模な反右派デモが起こり、鉾先を向けられた右派閣僚五名が辞職したほか、高級官僚・軍人・警察官の相当数が辞職または国外に脱出した。5月21日、アメリカ国際開発局(USIDA)ビルがデモ隊群集に占拠され、暫定国民連合政府がUSIDAの閉鎖を示唆すると、アメリカ政府は5月27日撤収に合意した。12月1日、ルアンパバーンで開催された全国人民代表者会議において、暫定国民連合政府によりサワーンワッタナー国王の退位が承認され、王制の廃止と共和制への移行が宣言、スパーヌウォン最高人民議会議長兼国家主席を頭に置くラオス人民民主共和国が誕生した。
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