映像化と経緯とは? わかりやすく解説

映像化と経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 04:42 UTC 版)

木枯し紋次郎」の記事における「映像化と経緯」の解説

テレビ局制作費調達して下請け制作会社支給する自主制作作品」とは異なり放送買った広告代理店制作費調達して制作会社支給する持ち込み制作作品」で、広告代理店電通制作電通関連企業であるC.A.L一任された。 1971年の春頃、既にシリーズ監修演出決定していた市川崑からの要請で、電通ラジオ・テレビ企画室・プロデューサー松前洋一が、部下の坂港(大映東京宣伝部出身)を通じて大映京都撮影所美術監督だった西岡善信本作への協力打診した。この打診には、市川古巣大映京都撮りたい希望していたことと、大映本社倒産危機、という切迫した状況でも制作可能か?という確認の意味含まれていた。乞われるままに西岡上京してみると制作準備はかなり進行しており、フジテレビジョンで『浮世絵 女ねずみ小僧』の後番組として、放送が「土曜日2230開始1時間」であることやC.A.L制作中村敦夫主演決定済みだった。市川は、大映京都撮影所協力決定したオールスタッフ打ち合わせの席で「好きに遊んでくれ(自分たちのやりたいようにやれ)」と激励し当時20代から30代若手がほとんどだった各パート奮い立たせる。しかし、第1部2話分を撮り終えた1971年11月21日大映倒産管財人による大映京都撮影所差し押さえで、制作中断危機遭う制作参加した93人の大映京都撮影所スタッフ大映契約スタッフ)は、倒産した会社から給与支払われず、早朝から深夜まで仕事続行。「完成まで仕事をさせて下さい私たち残っているのは活動屋根性だけです」という世間常識超えた西岡訴え根負けして、管財人撮影所差し押さえ1か月延期するその間年明け早々に東映紹介で、地元レンタルスタジオだった日本京映撮影所制作継続西岡たちは別資本新会社映像京都」も設立し映像京都には、森一生三隅研次安田公義池広一夫井上昭10人の監督や、美術内藤昭撮影宮川一夫森田富士郎照明中岡源権録音大谷巌以外にも、中村努徳田良雄などの大映社員参加した番組は「市川崑劇場」と銘打たれ1972年元日放送開始された。市川監修と、第1部第1話から3話18話の演出監督)を務めている。 原作者の笹沢は元来紋次郎田宮二郎モデルイメージしていたが、「主役新人で」という市川意向により、元・俳優座若手実力派で、準主役級俳優として活躍していながら一般的な知名度は必ずしも高くはなかった、中村敦夫紋次郎役に抜擢された。 劇中で、紋次郎が口にする決め台詞「あっしには関わりのないことでござんす」が流行語になった。しかし、テレビ版は「あっしにゃぁ関わりのねぇこって…」と答えるのが定番で、紋次郎台詞の「ねぇ」が「ない」に替わり さらに、無宿渡世人という設定から語尾に「…ござんす」が付けられ誤って流布したものである菅原文太主演東映版では「…ござんすとなっており、結果として東映版決め台詞普及したことになる。 主題歌だれかが風の中で」は、市川の妻で、市川監督作品のほぼ全てに関わった脚本家和田夏十作詞し、フォークバンド「六文銭」を率いフォークシンガー小室等作曲した。その力強く希望満ちた歌詞と、西部劇テーマ曲思わせるような軽快メロディーは、上條恒彦歌声相まって時代劇には似つかわしくないのだったが、その新鮮さ幅広い支持を得ることになり、結果的に1972年だけで、シングル23万枚売り上げる同年屈指の大ヒットとなった本作品は、これまでの股旅物主流であった義理人情厚く腕に覚えのある旅の博徒無宿人)が、旅先の街を牛耳る地回り役人らを次々倒し善良な市井の人々救い立ち去っていく」といった定番スタイル排し他人との関わり極力避け、己の腕一本生きようとする紋次郎ニヒルスタイルと、主演中村敦夫クールな佇まい見事にマッチした。2230開始というゴールデンタイムから外れた時間帯にもかかわらず第1シーズンでは毎週視聴率30パーセント超え最高視聴率38パーセント記録する大人気番組になった殺陣師美山晋八は、それまで時代劇ありがちだったスタイリッシュな殺陣捨てひたすら走り抜ける紋次郎など、博徒喧嘩想定した殺陣独自に考案した当時博徒が銘のある刀を持つことなどありえず、刀の手入れをすることもないため、通常時代劇に見られる相手が斬りかかってきた時に、刀で受ける」などの行為自分の刀が折れてしまうので行わずまた、正式な剣術を身につけていないため、刀は斬るというより、振り回しながら叩きつけたり剣先突き刺すといった目的使われるなど、リアリティ重視した擬斗シリーズ全編通して展開されている。主演中村敦夫途中でアキレス腱を切る事故見舞われたが、その後スタンドイン大林丈史阿藤海務めることで制作続行された。 ノンクレジット参加したフジテレビジョン編成部金子満プロデューサーは、過去メトロ・ゴールドウィン・メイヤーアシスタント・プロデューサー担当した経験から「テレビで血を見せると絶対に茶の間から拒否されヒットしない」という信念持っており、第1話試写でも市川崑演出し凄惨なアクション シーンに「これでは受け取れません」と、毅然とした態度NG告げて周り仰天させるテレビ番組における金子持論対し市川も「そういう方針もあるよね。ようし、それでいこう」と理解することで、金子は「血はともかく、映像素晴らしいものだった」と当時を回願する。近年金子シナリオ制作必要なリマインダー存在指摘しており、「喧嘩仕方衣裳食事ヤクザらしいリアリティ持たせて描き最初最後に情緒たっぷりのナレーション毎回、同じ時間に同じ場所で流す」本作ならではの特色をポジティブ・リマインダー、「絶対に血のアップを撮らせない」特色をネガティブ・リマインダーと命名した後者のネガティブ・リマインダーを守れなかった後の作品は、フジテレビ版より人気得られなかったと分析している。 1977年には『新・木紋次郎』(全26話)が製作され東京12チャンネル放映された。中村敦夫主演だけでなく、やしきたかじんが歌う主題歌焼けた道」(作曲猪俣公章)の作詞も手がけたが、ヒットには至らなかった。本作紋次郎決め台詞は「あっしには言い訳なんざ、ござんせん」だったが、これも前作ほどの話題とはならなかった。 1993年には、中村敦夫主演映画帰って来た木枯し紋次郎』が東宝配給制作された。こちらは従来中村敦夫主演テレビ版の続編であり、このため原作者笹沢左保新たにシノプシス書き下ろし小説としては発表されていない)、監督市川崑務めた主題歌も、テレビ版の『だれかが風の中で』が使われている。この作品紋次郎台詞が、東映版準じた「あっしには関わりのねぇことでござんすとなっている。フジテレビ系列で、後にテレビ放映された。 1990年には岩城滉一2009年には江口洋介主演で、単発スペシャル ドラマ製作された。

※この「映像化と経緯」の解説は、「木枯し紋次郎」の解説の一部です。
「映像化と経緯」を含む「木枯し紋次郎」の記事については、「木枯し紋次郎」の概要を参照ください。

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