教師、オルガニスト時代 (1842年–1858年)
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「セザール・フランク」の記事における「教師、オルガニスト時代 (1842年–1858年)」の解説
ベルギーへ帰国したフランクだったが、祖国には2年と留まらなかった。収入源となるような演奏会を開くことは出来ず、批評家達は無関心か軽蔑的かのいずれかであり、ベルギーの宮廷からの援助は得られそうになかった(もっとも、国王は後になってフランクにゴールドメダルを授与することになる)。資金を得る術はなかったのである。ニコラ=ジョゼフに関する限りは、帰郷が失敗に終わったため息子をパリでの音楽指導と家庭向け演奏会の生活に引き戻そうとしていた。この演奏会についてローレンス・デイヴィス(Laurence Davies)は、過酷で実入りの少ないものだったとしている。しかし、長い目で見ると若きフランクにとってこの経験は有益な側面も持ち合わせていた。なぜならこの時期にパリへ戻れたことで、彼は音楽院に復学して最後の数年及びその後の時間を過ごすことが出来たからである。また、彼の最初の成熟した楽曲となるピアノ三重奏曲集が完成したことにもこの期間の役割が大きい。これらの作品はフランク自身が初めて自作と認め得たものであり、作品を見たリストは激励と建設的批判を与えた上で自らも数年後にヴァイマルで演奏している。1843年、フランクは室内楽作品以外では初の挑戦となるオラトリオ『ルツ』の作曲に取り掛かった。この作品はリスト、マイアベーアをはじめ他の有名音楽家を招いて1845年に私的に初演され、ほどほどの賛辞と前向きな提案を得た。しかしながら、1846年初頭に行われた公開初演においては聴衆が関心を示さず、オラトリオの芸術性の欠落と単純さには冷たい批判が浴びせられた。この作品が次に上演されたのは1872年、大改訂を加えた後のことであった。 これにともない、フランクは公の活動からは実質的に身を引き、教師と伴奏者として陽の当たらない生活をするようになった。彼の父もしぶしぶこれを認めた。フランクはパリとオルレアンの両方で、こうした仕事や歌曲や小規模な作品の作曲の依頼を受けていた。彼の元には1848年の第二共和政の成立を祝し、これを強固にするような作品の依頼が舞い込んでおり、そうした作品には聴衆が関心を示すようなものもあったが、ルイ・ナポレオンの下で第二帝政が立ち上げられたことで演奏の機会を失ってしまった。1851年にはオペラ『頑固な召使い』に取り組んだものの、リブレットは「最低の文学的出来」であり、曲は慌てて書きつけられたようなものだった。フランク自身も終生「印刷する価値のないものだった。」と言い続けることになる。しかし、概していえばこうした隠遁生活はそれまで脚光を浴び続けてきたフランクには休息となったと考えられる。「フランクは神の思召しに従い、いまだ全くの闇の中にいた。」そして、この期間に生じた2つの大きな変化が、彼のその後の人生を形作ることになっていく。 まず1点目は、フランクが両親とほぼ完全に縁を切ってしまったことである。直接の原因となったのは、彼がピアノの教え子であったウジェニー=フェリシテ=カロリーヌ・セイヨ(Eugénie-Félicité-Caroline Saillot; 1824年-1918年)と親密となり後に恋人関係となったことであった。彼女の両親はデムソー(Desmousseaux)という芸名で活動するコメディ・フランセーズ会社の一員であった。フランクは彼女と音楽院時代からの知り合いであり、若いフランクにとってフェリシテ・デムソーの家庭は威圧的な実の父からの避難所のような存在となっていた。1846年にニコラ=ジョゼフは息子の書類の中から「喜ばしい記憶の中のF.デムソー嬢」への献辞が付された楽曲を発見し、本人の目の前でそれを破り捨てたこともあった。フランクはそのままデムソー家へと向かい、記憶を頼りに曲を書き起こして献辞と共にフェリシテへと贈った。ニコラ=ジョゼフとの関係は、彼が息子の婚約や結婚の意志を一切認めようとしなかったことでさらに悪化した。ニコラ=ジョゼフはさらに母を苦痛に陥れたとしてフランクを非難し、フランクのいかなる縁談も夫婦間の毒殺事件という醜聞に繋がるに違いないと怒鳴りつけたのである。7月のある日曜日、フランクは持てるものだけを持って両親の家を後にすると、そのまま歩いてデムソー家に向かって移り住んだ。デムソー家で歓迎を受けた彼は二度と実家には戻らなかった。この時以来、若いフランクは名乗る際や書類や作品への署名を「César Franck」もしくは単に「C. Franck」とするようになった。「これは彼が父ときっぱり決別し、かつ周囲にそれを知らせようとする意志の現れであった。(中略)彼は元の自分とは出来るだけ違った、新しい人間になろうと決意したのである。」 フェリシテの両親の注意深くも友好的な眼差しの中、フランクは彼女へ求婚し続けた。1847年に彼が25歳となるや否や、彼は父にフェリシテとの結婚の意志を伝え、実際に二月革命が勃発したのと同月の1848年2月22日に念願を成就させた。教会にたどり着くまでに一向は革命群が築いたバリケードを乗り越えなければならなかったが、ダンディが伝えるところでは「この仮設の要塞の後方に集まっていた大勢の蜂起民が進んで手助けをした。」結婚にあたってはフランクの両親も和解の上、式典に出席するとともに登記簿への署名を行った。この時のノートル=ダム=ド=ロレット教会(Notre-Dame-de-Lorette)がフランクの教区教会となった。 2点目は上記のように、ノートル=ダム=ド=ロレット教会がフランクの教区教会となったことであった。1847年にこの教会のオルガニスト補佐となったフランクであったが、これを契機として次々とより重要で影響力の高いオルガニストの職を歴任していくことになる。フランクは音楽院時代にピアニストとして異彩を放ったのと同じようにオルガニストとして輝きを見せたわけではなかったが、彼はオルガニストの職を嘱望しており、そこには安定した収入が望めるという理由が少なからずあった。こうして彼は人々の礼拝に必要な技術を学ぶという形でローマ・カトリックへと帰依する機会を得て、時おり上司にあたるアルフォンス・ギルバ(Alphonse Gilbat)の代役をこなすこともあった。この教会におけるフランクの働きが、1851年に新しく建立されたサン=ジャン=サン=フランソワゾー=マレ教会(Saint-Jean-Saint-François-au-Marais)に牧師(curé)として移ってきたダンセル牧師(Abbé Dancel)の目に留まった。2年後、牧師はフランクを「titulaire」の地位、すなわち第1オルガニストへと誘う。フランクの新しい教会にはアリスティド・カヴァイエ=コルが設置した優れた新式のオルガン(1846年製)が備えられていた。カヴァイエ=コルは芸術性に恵まれ、機能的には革新的な大オルガンの制作で名を馳せていた。フランクは「私の新しいオルガンはまるでオーケストラのようだ!」と述べていた。フランクの即興演奏の能力は非常に必要とされるようになっていた。というのも、当時の礼拝の慣習においてはミサや礼拝で歌われる単旋律聖歌の伴奏を行った上で、そこから楽想を派生させて聖歌隊による歌唱や神父の説教との間を繋がねばならなかったからである。さらにフランクの演奏能力とカヴァイエ=コルの楽器への愛情が合わさったことで、彼はカヴァイエ=コルと協力関係を結ぶことになる。フランクはフランス中を訪ねて回って古い楽器を引き立てるとともに、新しい楽器の除幕式で演奏する役割を担った。 期を同じくして、フランスにおけるオルガン演奏には革命が起こっていた。バッハの伝記作家として知られるヨハン・ニコラウス・フォルケル門下でドイツのオルガニストであるアドルフ・フリードリヒ・ヘッセは、1844年のパリにおいて、バッハ作品の演奏が可能となるような足鍵盤の技巧とドイツ式の足鍵盤を披露した。これはフランクがブノワから音楽院で学んだ奏法の範疇からは全く外れたものだった。大抵のフランスのオルガンにはそうした作品に用いられている足鍵盤の音がなく、クープランの時代から続くフランスの由緒ある古典的なオルガンの伝統も、その当時は即興演奏を重視するあまりないがしろにされていたのである。ヘッセの演奏もまばゆい超絶技巧によって一過性の騒ぎになったに過ぎないと思われる。続いて1852年から1854年にかけては、当時ブリュッセル王立音楽院のオルガン科で教授を務めていたジャック=ニコラ・レメンスがパリを訪れた。レメンスは技巧的なバッハ演奏家であるにとどまらず、全てのオルガニストが正確に、音を濁らせず、レガートのフレージングをもって演奏できるようになるオルガン指導法を開発した人物だった。フランクは1854年にレメンスが出演したのと同じ就任記念演奏会に出席しており、レメンスの古典的なバッハの解釈を高く評価するのみならず、その素早くかつ均質な足鍵盤さばきにも称賛を惜しまなかった。ヴァラ(Vallas)によればオルガニストになる前にピアニストであったフランクは「生涯自分自身でレガートの様式を確立するには至らなかった」ものの、そのような技術を取り入れることでオルガン演奏の幅を広げることが出来るということは認識しており、技術の習得に向けた取り組みを開始していたという。
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