教師、オルガニスト時代とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 教師、オルガニスト時代の意味・解説 

教師、オルガニスト時代 (1842年–1858年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/10 09:34 UTC 版)

セザール・フランク」の記事における「教師、オルガニスト時代 (1842年1858年)」の解説

ベルギー帰国したフランクだったが、祖国には2年と留まらなかった。収入源となるような演奏会を開くことは出来ず批評家達は無関心軽蔑的かのいずれかであり、ベルギー宮廷からの援助得られそうになかった(もっとも、国王後になってフランクゴールドメダル授与することになる)。資金を得る術はなかったのであるニコラジョゼフに関する限りは、帰郷失敗終わったため息子をパリでの音楽指導家庭向け演奏会の生活に引き戻そうとしていた。この演奏会についてローレンス・デイヴィス(Laurence Davies)は、過酷実入り少ないものだったとしている。しかし、長い目で見る若きフランクにとってこの経験有益な側面持ち合わせていた。なぜならこの時期パリへ戻れたことで、彼は音楽院復学し最後数年及びその後時間を過ごすことが出来たからである。また、彼の最初成熟した楽曲となるピアノ三重奏曲集が完成したことにもこの期間の役割大きい。これらの作品フランク自身初め自作認め得たものであり、作品見たリスト激励建設的批判与えた上で自らも数年後ヴァイマル演奏している。1843年フランク室内楽作品以外では初の挑戦となるオラトリオルツ』の作曲取り掛かった。この作品リストマイアベーアをはじめ他の有名音楽家招いて1845年私的に初演されほどほど賛辞前向きな提案得たしかしながら1846年初頭行われた公開初演においては聴衆関心示さずオラトリオ芸術性欠落単純さには冷たい批判浴びせられた。この作品次に上演されたのは1872年、大改訂加えた後のことであったこれにともないフランクは公の活動からは実質的に身を引き教師伴奏者として陽の当たらない生活をするようになった彼の父もしぶしぶこれを認めたフランクパリオルレアン両方で、こうした仕事歌曲小規模な作品作曲依頼受けていた。彼の元に1848年第二共和政成立祝し、これを強固にするような作品依頼舞い込んでおり、そうした作品には聴衆関心を示すようなものもあったが、ルイ・ナポレオンの下で第二帝政立ち上げられたことで演奏機会失ってしまった。1851年にはオペラ頑固な召使い』に取り組んだものの、リブレットは「最低の文学的出来」であり、曲は慌てて書きつけられたようなのだったフランク自身終生印刷する価値のないものだった。」と言い続けることになる。しかし、概していえばこうした隠遁生活それまで脚光を浴び続けてきたフランクには休息となった考えられる。「フランクは神の思召し従い、いまだ全くの闇の中にいた。」そして、この期間に生じた2つ大きな変化が、彼のその後人生形作ることになっていく。 まず1点目は、フランク両親とほぼ完全に縁を切ってしまったことである。直接の原因となったのは、彼がピアノ教え子であったウジェニーフェリシテ=カロリーヌ・セイヨ(Eugénie-Félicité-Caroline Saillot; 1824年-1918年)と親密となり後に恋人関係となったことであった。彼女の両親はデムソー(Desmousseaux)という芸名活動するコメディ・フランセーズ会社一員であったフランクは彼女と音楽院時代からの知り合いであり、若いフランクにとってフェリシテ・デムソーの家庭威圧的な実の父からの避難所のような存在となっていた。1846年ニコラジョゼフ息子書類の中から「喜ばしい記憶の中のF.デムソー嬢」への献辞付され楽曲発見し本人目の前でそれを破り捨てたこともあった。フランクそのままデムソー家へと向かい記憶頼りに曲を書き起こし献辞と共にフェリシテへと贈ったニコラジョゼフとの関係は、彼が息子婚約結婚意志一切認めようとしなかったことでさらに悪化したニコラジョゼフはさらに母を苦痛に陥れたとしてフランク非難しフランクいかなる縁談夫婦間毒殺事件という醜聞に繋がるに違いない怒鳴りつけたのである7月ある日曜日フランク持てるものだけを持って両親の家を後にすると、そのまま歩いてデムソー家に向かって移り住んだ。デムソー家で歓迎受けた彼は二度と実家には戻らなかった。この時以来、若いフランク名乗る際や書類作品への署名を「César Franckもしくは単に「C. Franck」とするようになった。「これは彼が父ときっぱり決別し、かつ周囲にそれを知らせようとする意志現れであった。(中略)彼は元の自分と出来るだけ違った新し人間になろうと決意したのである。」 フェリシテ両親注意深く友好的な眼差しの中、フランクは彼女へ求婚し続けた1847年に彼が25歳となるや否や、彼は父にフェリシテとの結婚意志伝え実際に二月革命勃発したのと同月1848年2月22日念願成就させた。教会にたどり着くまでに一向革命群が築いたバリケード乗り越えなければならなかったが、ダンディ伝えるところでは「この仮設要塞後方集まっていた大勢蜂起民が進んで手助けをした。」結婚にあたってフランク両親和解の上式典出席するとともに登記簿への署名行った。この時のノートル=ダム=ド=ロレット教会(Notre-Dame-de-Lorette)がフランク教区教会となった2点目は上記のように、ノートル=ダム=ド=ロレット教会フランク教区教会となったことであった1847年にこの教会オルガニスト補佐となったフランクであったが、これを契機として次々とより重要で影響力の高いオルガニストの職を歴任していくことになる。フランク音楽院時代ピアニストとして異彩を放ったのと同じようオルガニストとして輝き見せたわけではなかったが、彼はオルガニストの職を嘱望しており、そこには安定した収入望めるという理由少なからずあった。こうして彼は人々礼拝必要な技術を学ぶという形でローマ・カトリックへと帰依する機会得て、時おり上司にあたるアルフォンス・ギルバ(Alphonse Gilbat)の代役をこなすこともあった。この教会におけるフランク働きが、1851年新しく建立されサン=ジャンサン=フランソワゾー=マレ教会(Saint-Jean-Saint-François-au-Marais)に牧師curé)として移ってきたダンセル牧師Abbé Dancel)の目に留まった。2年後牧師フランクを「titulaire」の地位、すなわち第1オルガニストへと誘う。フランク新し教会にはアリスティド・カヴァイエ=コル設置した優れた新式オルガン1846年製)が備えられていた。カヴァイエ=コル芸術性恵まれ機能的に革新的なオルガン制作名を馳せていた。フランクは「私の新しオルガンはまるでオーケストラのようだ!」と述べていた。フランク即興演奏能力は非常に必要とされるようになっていた。というのも当時礼拝慣習においてはミサ礼拝歌われる旋律聖歌伴奏行った上で、そこから楽想派生させて聖歌隊による歌唱神父説教との間を繋がねばならなかったからである。さらにフランク演奏能力カヴァイエ=コル楽器への愛情合わさったことで、彼はカヴァイエ=コル協力関係を結ぶことになる。フランクフランス中を訪ねて回って古い楽器引き立てるとともに新しい楽器除幕式演奏する役割担った。 期を同じくして、フランスにおけるオルガン演奏には革命起こっていた。バッハ伝記作家として知られるヨハン・ニコラウス・フォルケル門下ドイツオルガニストであるアドルフ・フリードリヒ・ヘッセは、1844年パリにおいて、バッハ作品演奏が可能となるような足鍵盤技巧ドイツ式足鍵盤披露した。これはフランクブノワから音楽院学んだ奏法範疇からは全く外れたのだった。大抵のフランスオルガンはそうした作品用いられている足鍵盤音がなく、クープラン時代から続くフランス由緒ある古典的なオルガン伝統も、その当時即興演奏重視するあまりないがしろにされていたのであるヘッセ演奏まばゆい超絶技巧によって一過性の騒ぎになったに過ぎない思われる続いて1852年から1854年にかけては、当時ブリュッセル王立音楽院オルガン科で教授務めていたジャック=ニコラ・レメンスパリ訪れたレメンス技巧的バッハ演奏家であるにとどまらず全てのオルガニスト正確に、音を濁らせず、レガートフレージングをもって演奏できるうになるオルガン指導法開発した人物だった。フランク1854年レメンス出演したのと同じ就任記念演奏会出席しており、レメンス古典的なバッハ解釈高く評価するのみならず、その素早くかつ均質な足鍵盤さばきにも称賛惜しまなかった。ヴァラ(Vallas)によればオルガニストになる前にピアニストであったフランクは「生涯自分自身レガート様式確立するには至らなかった」ものの、そのような技術取り入れることでオルガン演奏の幅を広げることが出来ということは認識しており、技術習得向けた取り組み開始していたという。

※この「教師、オルガニスト時代 (1842年–1858年)」の解説は、「セザール・フランク」の解説の一部です。
「教師、オルガニスト時代 (1842年–1858年)」を含む「セザール・フランク」の記事については、「セザール・フランク」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「教師、オルガニスト時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「教師、オルガニスト時代」の関連用語

教師、オルガニスト時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



教師、オルガニスト時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのセザール・フランク (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS