成人映画スターの時代
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1943年(昭和18年)1月29日、山形県に生まれる。本名は不明である。 1961年(昭和36年)3月、地元の高等学校を卒業して東京に移り、マキノ真三のマキノ芸術学院に学ぶ。渡辺護の回想によれば、同年にはマキノ真三による経営母体のマキノ映画が倒産しており、渡辺は同社所属の市川春代らを野村浩将らの東京文芸プロダクションに売り込んでいた時期であるという。同社には、のちに火鳥の作品を多く監督した向井寛が助監督として在籍していた。火鳥は、1962年(昭和37年)12月に発行された『100万人のよる』昭和37年12月号(季節風書店、1966年廃刊)の表紙に採用されており、「東映スタア」とキャプションがある(右画像)。この時期に東映の作品に出演した記録は残っていない。俳優の久保新二の回想によれば、当時、火鳥は、愛染恭子や辰巳典子らとともに、杉並区高円寺に所在した火石プロ(代表・火石利男)に所属していたという。 1965年(昭和40年)10月に公開された『熱い樹液』(監督藤田潤八・岡野進)が火鳥の映画界へのデビュー作である旨の記述が『日本映画俳優全集・女優編』(キネマ旬報社)にはあるが、東京国立近代美術館フィルムセンターに所蔵されている『くされ縁』(監督志賀隆、製作・配給日本シネマ)や『悦楽』(監督大島渚、配給松竹)の上映用プリントには火鳥の名がクレジットされており、同作のほうが先に公開(前者・1965年4月、後者・同年8月29日)されている。いずれにしても火鳥は、満22歳のときに成人映画の女優として、映画界に登場した。 『日本映画発達史』の田中純一郎は、同書のなかで黎明期の成人映画界のおもな出演者として、扇町京子、橘桂子、城山路子(光岡早苗と同一人物)、内田高子、香取環、新高恵子、松井康子、西朱実、朝日陽子、華村明子、森美沙、湯川美沙、光岡早苗、路加奈子、有川二郎、里見孝二、川部修詩、佐伯秀男とともに、火鳥の名を挙げている。1967年(昭和42年)2月21日に公開された若松孝二企画・製作、足立正生監督による『避妊革命(英語版)』(製作若松プロダクション、配給日本シネマフイルム)では、「丸木戸定男」役の寺島幹夫を相手に「丸木戸満子」役で主演している。 独立系プロダクションの作品のほか、1968年(昭和43年)5月1日には、東映京都撮影所が製作、石井輝男が監督、火鳥が出演して「おかじ」を演じた『徳川女系図』が公開されたが、同作には火鳥のほか、内田高子、谷ナオミ、辰巳典子、祝真理ら、いわゆる独立系のピンク映画女優が多数出演しており、興行的に成功を収めた。火鳥は、同作と同時上映の『前科者』(監督山下耕作)にも「若い情婦」役で出演している。これに触発された日活も、当時はまだロマンポルノ(1971年 - 1988年)を開始していなかったが、児井英生がプロデュースした『女浮世風呂』(監督井田探、同年7月10日公開)や『ある色魔の告白 色欲の果て』(監督江崎実生、同年8月14日公開)、『秘帳 女浮世草紙』(監督井田探、1968年10月19日公開)といった作品に火鳥を出演させた。『女浮世風呂』には、火鳥のほか、林美樹、美矢かほる、辰巳典子、清水世津、大月麗子、谷ナオミ、乱孝寿、内田高子ら、『ある色魔の告白 色欲の果て』には美矢かほる、乱孝寿、林美樹、辰巳典子、高月絢子、清水世津、橘桂子、大月麗子、高鳥和子、真湖道代ら、『秘帳 女浮世草紙』には辰巳典子、林美樹、真湖道代、乱孝寿、高月絢子ら、独立系のピンク映画女優が多数出演した。児井はなかでも『女浮世風呂』における火鳥の「妙照尼」役の芝居を高く評価した。 『日本映画俳優全集・女優編』には、1969年(昭和44年)に「『女犯系図』『嫉妬』を最後に引退した」とある。『嫉妬』の公開月が不明であるが、『女犯系図』(監督向井寛)は同年7月の公開であり、同年8月には主演作『肌のもつれ』(監督佐々木元)、同年10月には『情欲の鞭』(監督武田有生)が公開されている。その後も、1971年(昭和46年)4月に公開された『近世毒婦伝 少女地獄責め』(監督向井寛)、1973年(昭和48年)3月3日に公開された『団地妻㊙研究会』(監督向井寛)にも出演した記録が残っている。ただしこの時期の作品記録が掲載されている『映画年鑑 1973』において、独立系の映画作品については監督名以外記載されておらず、この時期の出演者が概して不明である。同年以降の出演記録はみられず、以降の消息も不明である。
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成人映画スターの時代
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1947年(昭和22年)10月12日、大阪府大阪市阿倍野区に生まれる。 1963年(昭和38年)4月、大阪府立今宮高等学校に進学するも、1964年(昭和39年)、二年生のときに中途退学する。電話交換手の仕事をしていたが、翌1965年(昭和40年)には東京に移り、友人が成人映画の女優をしていた関わりでヌードモデルの職を得る。『日本映画俳優全集・女優編』(キネマ旬報社)には、同年、『泥だらけの制服』で映画界にデビューした旨の記述があるが、同年には同名の作品の公開はなく、同作は新藤孝衛の監督作であり、公開は1967年(昭和42年)3月7日、辰巳が満19歳のときである。同日公開された『女の責め』(監督山本晋也)にも、出演している。同作に先行して、1967年1月29日公開の『ダブル処女』(監督岸信太郎・三樹英樹)、同年2月28日公開の『禁断の情事』(監督小川欽也)、同年3月公開の『情事の階段』(監督松原次郎)に出演した記録がある。映倫(新映倫、現在の映画倫理委員会)審査番号にみる完成時期では、このなかでは『泥だらけの制服』とくらべても『禁断の情事』がもっとも早い時期の作品である。俳優の久保新二の回想によれば、辰巳のデビュー作は火鳥こずえの首から下の吹き替え(ボディダブル)であったといい、映画監督の渡辺護の回想によれば、辰巳が最初に現れたときには17歳であったという。辰巳は『白日夢』(1964年)以降の1967年のデビューであり、『日本映画発達史』の田中純一郎は、同書のなかで黎明期の成人映画界のおもな出演者を挙げているが、辰巳についての言及はない。久保新二よれば、当時、辰巳は、愛染恭子や火鳥こずえらとともに、杉並区高円寺に所在した火石プロ(代表・火石利男)に所属していたという。 独立系プロダクションの作品のほか、1968年(昭和43年)には、日本のメジャー映画会社初の成人指定映画といわれる石井輝男監督の東映ポルノ『徳川女系図』に出演して「おしの」を演じた。同作には辰巳のほか、内田高子、谷ナオミ、火鳥こずえ、祝真理ら、いわゆる独立系のピンク映画女優が多数出演しており、興行的に大成功を収めた。辰巳は続けて、同年6月28日に公開された石井輝男監督による『温泉あんま芸者』にも出演した。これに触発された日活も、当時はまだロマンポルノ(1971年 - 1988年)を開始していなかったが、児井英生がプロデュースした『女浮世風呂』(監督井田探、同年7月10日公開)や『ある色魔の告白 色欲の果て』(監督江崎実生、同年8月14日公開)、『秘帳 女浮世草紙』(監督井田探、1968年10月19日公開)といった作品に辰巳を出演させた。『女浮世風呂』には、辰巳のほか、林美樹、美矢かほる、火鳥こずえ、清水世津、大月麗子、谷ナオミ、乱孝寿、内田高子ら、『ある色魔の告白 色欲の果て』には美矢かほる、乱孝寿、林美樹、火鳥こずえ、高月絢子、清水世津、橘桂子、大月麗子、高鳥和子、真湖道代ら、『秘帳 女浮世草紙』には火鳥こずえ、林美樹、真湖道代、乱孝寿、高月絢子ら、独立系のピンク映画女優が多数出演した。同年9月7日に大映が配給して公開された『浮世絵残酷物語』(監督武智鉄二)にも出演しており、東映・日活・大映の大手各社への出演を果たした。同年当時の週刊誌には「映画会社を股にかけ、目下売り出し中の辰巳典子は、まだ二十歳の若さ。体あたりの演技で独特の色気をつくりだしていくのもこれから」と書かれ注目された。寺山修司は『さかさま英雄伝』において、「リルケはピンク映画を観て辰巳典子や杉村久美にあこがれるべきである」と書いた。トーマス・ワイサーは武智鉄二監督の『浮世絵残酷物語』(1968年)における辰巳を「すべてのみずみずしい美女たちのなかでも際立っているのは、極めて情熱的な尼を演じる辰巳典子である」と評した。ワイサーは、辰巳の傑作として、関孝二の監督作『売女』(ばいた、1967年)と『エロチック風土記 替え床』(1968年)の2作を挙げている。 1971年(昭和46年)1月に公開された『新手 女ぜめ裏表』(監督秋山駿、製作・配給葵映画)、『肉奴隷』(監督団鬼六、配給ミリオンフィルム)、『日本恥部物語』(監督渡辺護・山本晋也・小森白、製作東京興映)、『日本夜這風俗史』 (監督向井寛、配給ミリオンフィルム)の4作を最後に、同年、独立系成人映画やテレビ映画の現場で照明助手を務めていた鮎川欽一郎と結婚し、引退した。ただしこの時期の作品記録が掲載されている『映画年鑑 1973』において、独立系の映画作品については監督名以外記載されておらず、この時期の出演者が概して不明である。引退後、『日本映画俳優全集・女優編』が発行された1980年(昭和55年)前後までには、東京都世田谷区北沢の下北沢駅前で居酒屋「らりぱっぱ」を経営していた。1976年(昭和51年)10月3日に放映された連続テレビ映画『俺たちの旅』第45回『愛しているから哀しいのです』(監督斎藤光正)に出演し、本名の鮎川 千代の名でクレジットされた。2014年(平成26年)3月現在、『日本映画俳優全集・女優編』に記載された所在地に該当する店舗は存在しせず、閉店時期も不明である。以降の消息は不明である。
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