徽宗期
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しかし1100年(元符3年)に哲宗もまた24歳という若さで死去する。哲宗に子が無かったために神宗の皇后であった向氏の意向で、哲宗の弟である端王・趙佶が即位して徽宗となる。宰相の章惇は「端王は道楽者であるから皇帝にふさわしくない」という意見を出し、徽宗の即位に強硬に反対したため失脚し左遷された。 徽宗の治世は、当初向太后が垂簾政治を布き、政権の座には、新法党から王安石の側近であった曾布と旧法党から韓琦の子である韓忠彦をつけ、新法党・旧法党双方を融和させることで政治混乱を収めようと図った。だが向太后は翌1101年に急死する。まもなく韓忠彦が能力不足で宰相を降り、曾布も同じ新法派の李清臣との対立から朝廷全体を掌握できず政権は動揺した。 そのような中、親政を始めた徽宗の寵愛を掴んだのが蔡京である。政権を握った蔡京は1102年(崇寧元年)、司馬光ら旧法党の人物119人を元祐姦党と称して石に刻み、これを宮殿の側に建てさせた(元祐党籍碑)。その後、石碑に載せられる人物は309人にまで増え、この碑を全国の府州にまで建てるようにとの命令を出した。更に蘇軾ら旧法党の人士が書いた文は発禁処分とされる。こうして旧法党の人士を完全に追放すると、新法推進と称して、神宗時代の「制置三司条例司」にならった「講義司」を設置した。しかし、講義司では蔡京と仲の悪い曾布や弟の蔡卞など、新法の功労者を追放し、自らの部下や息子達が取り立てたてられ、実際には自身の利殖行為に使われただけであった。崇寧5年(1106年)に対遼外交を巡る徽宗との意見対立から蔡京が一時罷免されて反対派への弾圧が緩められたが、既に政権は蔡京派に握られ、徽宗の意向通りに対遼和平が実現すると、すぐに蔡京派の官僚であった鄭居中・劉正夫の進言で蔡京がすぐに呼び戻される有様だった。 そのような施策にもかかわらず、蔡京の政権初期は、官員の増加・銅銭の改鋳・有価証券の乱発・公共事業の増大などにより、首都開封周辺ではバブル景気が発生し、結果的に税収が増加することとなった。また政府支出の増加によって世間の金回りが良くなり、その結果文化活動が活発になった。最初は蔡京を警戒していた徽宗もこの成果に満足してしまい、以降は道教や書画などの文化事業に没頭して政治を顧みなくなった。 しかし国の退廃・混乱に比例して、当時民間で施行されていた新法は、本来の趣旨から完全にはずれた乱脈な運用がされていた。青苗法や市易法では、官人・大商人・胥吏らが偽って青苗銭や市易銭を借り受け、それを貧農や小商人に対して貸し付けるということが公然と行われると同時に、これらを収める農民や中小商人にとっても「負担」ともなりつつあった。方田均税法では、担当役人らの独断で従来のものより短い尺が使って算出されるという不法な測量が行われ、余剰の土地と判定したものを強制的に没収し、役人への賄賂までが要求された。また募役法が免除されるはずの土地でも役税の徴収が勝手に行われ、その徴収された募役銭さえも「役で働いた人たち」への賃金支払に使われないという差役化(無償労働化)現象まであちこちで発生した。国家整備の法である農田水利法も、農村から花石綱などの宝物を運ぶため、一度しか利用しない道路(水路)を建設するなど、意味のない工事が乱発されるといった有様であった。 徽宗や蔡京はこれらの事態に手を打つどころか、逆に新法の不正な運用を利用し、集めた国の公的資金を絵画購入や石集めなどの私的な趣味に散財した。それでも資金が足りないとなると、皇帝の威光や宰相の地位を悪用して、民間から大量の賄賂やお目こぼし料をとるようになった。最終的には地主や商人・役人達などが、蔡京にならって新法を私腹を肥やす道具として勝手に利用し始め、統制の取れなくなった宋の社会は破滅に向かっていく。 20年近く宰相として権勢を振るった蔡京だが、最後は高齢を理由に息子の蔡攸や鄭居中・劉正夫によって権力を奪われて「三省の統括」という実務的な職掌を負わない名誉職に祀り上げられ、その後引退させられた。跡を継いだ蔡攸や宰相の王黼も利権にありつくため活動を開始しようとした。しかし、このころになると数十年来の銅銭過剰大量鋳造供給の弊害で国内の銅山がほぼ掘りつくされたうえに、交子の無制限大量発行さえももはや財政の限界に達してきてこれ以上の金融・財政政策をとれなくなってしまい不景気が発生した。また、無駄な役人数の大量増加や新法の悪用により政府の効率が極端に悪化。徴税層となるべき農村共同体や中小地主・中小商人(中間層)が長年の悪政で崩壊状態に陥り、新法も以前のような成果を得られなくなってきた。これにより急激に国庫が空になる年が続き、増税と賄賂要求が繰り返されるようになる。租税負担の不均衡と役人からの度重なる賄賂要求に国内の不満は鬱積し、保甲法で雇った兵士たちや軍隊も役に立たず治安は悪化し反乱も相次ぐようになる。軍事費の増大にもかかわらず税収は格段に少なくなり、膨大な赤字の額が政府に重くのしかかった。 このような国内の不満を国外にそらすため、宋は新興の金と交渉をおこない、連携して北方の遼を滅ぼすことにする。これによって形だけは「燕雲十六州」を一時的に取り戻すが、金との約束を反故にしてしまう。宋の違約に激怒し、中原の弱体化を見透かした金は宋に対して侵攻を開始し、宋軍は連戦連敗する。事態の悪化を受けた徽宗はようやく自らの足元で起こっている状況を理解した。宰相の王黼・宦官の童貫や蔡京・蔡攸親子の一派など、取り巻きたちを完全追放して厳しい罪に問い、自らは譲位することにしたが全てが遅すぎた。金軍により首都開封が陥落し、徽宗と息子の欽宗は捕らわれの身となり、北宋は滅亡した(靖康の変)。
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