徽宗期とは? わかりやすく解説

徽宗期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 22:00 UTC 版)

新法・旧法の争い」の記事における「徽宗期」の解説

しかし1100年元符3年)に哲宗もまた24歳という若さ死去する哲宗に子が無かったために神宗皇后であった向氏意向で、哲宗の弟である端王・趙佶即位して徽宗となる。宰相章惇は「端王は道楽者であるから皇帝ふさわしくない」という意見出し徽宗即位強硬に反対したため失脚し左遷された。 徽宗治世は、当初向太后垂簾政治布き政権の座には、新法党から王安石側近であった曾布旧法党から韓琦の子である韓忠彦をつけ、新法党旧法党双方融和させることで政治混乱収めよう図った。だが向太后は翌1101年急死する。まもなく韓忠彦が能力不足で宰相降り曾布も同じ新法派李清臣との対立から朝廷全体掌握できず政権動揺したそのような中、親政始めた徽宗寵愛掴んだのが蔡京である。政権握った蔡京1102年崇寧元年)、司馬光旧法党人物119人を元祐姦党と称して石に刻み、これを宮殿の側に建てさせた(元祐党籍碑)。その後石碑載せられる人物309人にまで増え、この碑を全国府州にまで建てるようにとの命令出した。更に蘇軾旧法党人士書いた文は発禁処分とされる。こうして旧法党人士を完全に追放すると、新法推進称して神宗時代の「制置三司条例司」にならった講義司」を設置した。しかし、講義司では蔡京と仲の悪い曾布や弟の蔡卞など、新法功労者追放し、自らの部下息子達取り立てたてられ、実際に自身利殖行為使われただけであった崇寧5年1106年)に対遼外交を巡る徽宗との意見対立から蔡京一時罷免され反対派への弾圧緩められたが、既に政権蔡京派に握られ徽宗意向通りに対遼和平実現すると、すぐに蔡京派の官僚であった居中劉正夫の進言蔡京がすぐに呼び戻される有様だった。 そのような施策にもかかわらず蔡京政権初期は、官員増加銅銭改鋳有価証券乱発公共事業増大などにより、首都開封周辺ではバブル景気発生し結果的に税収増加することとなった。また政府支出増加によって世間金回り良くなり、その結果文化活動活発になった。最初蔡京警戒していた徽宗もこの成果満足してしまい、以降道教書画などの文化事業没頭して政治顧みなくなった。 しかし国の退廃混乱比例して当時民間施行されていた新法は、本来の趣旨から完全にはずれた乱脈な運用がされていた。青苗法市易法では、官人大商人胥吏らが偽って青苗銭や市易銭を借り受け、それを貧農小商人に対して貸し付けるということ公然と行われる同時に、これらを収める農民中小商人にとっても負担ともなりつつあった。方田税法では、担当役人らの独断従来のものより短い尺が使って算出されるという不法な測量が行われ、余剰土地判定したものを強制的に没収し役人への賄賂までが要求された。また募役法免除されるはずの土地でも役税の徴収勝手に行われ、その徴収された募役銭さえも「役で働いた人たち」への賃金支払使われないという差役化(無償労働化)現象まであちこち発生した国家整備の法である農田水利法も、農村から花石綱などの宝物を運ぶため、一度しか利用しない道路水路)を建設するなど、意味のない工事乱発されるといった有様であった徽宗蔡京はこれらの事態に手を打つどころか、逆に新法不正な運用利用し集めた国の公的資金絵画購入や石集めなどの私的な趣味散財した。それでも資金足りないとなると皇帝威光宰相地位悪用して、民間から大量賄賂お目こぼし料をとるようになった最終的に地主商人役人達などが、蔡京ならって新法私腹を肥やす道具として勝手に利用し始め統制取れなくなった宋の社会破滅に向かっていく。 20年近く宰相として権勢振るった蔡京だが、最後高齢理由息子蔡攸や鄭居中劉正夫によって権力奪われて「三省統括」という実務的職掌負わない名誉職祀り上げられその後引退させられた。跡を継いだ蔡攸宰相王黼利権ありつくため活動開始しようとした。しかし、このころになると数十年来銅銭過剰大量鋳造供給弊害国内銅山がほぼ掘りつくされたうえに、交子無制限大量発行さえももはや財政限界達してきてこれ以上金融・財政政策をとれなくなってしまい不景気発生したまた、無駄な役人数の大量増加新法悪用より政府の効率極端に悪化徴税層となるべき農村共同体中小地主中小商人中間層)が長年悪政崩壊状態に陥り、新法以前のような成果得られなくなってきた。これにより急激に国庫空になる年が続き増税賄賂要求繰り返されるうになる租税負担不均衡役人からの度重なる賄賂要求国内の不満は鬱積し保甲法雇った兵士たち軍隊役に立たず治安悪化し反乱相次ぐうになる軍事費の増大にもかかわらず税収格段に少なくなり、膨大な赤字の額が政府重くのしかかったこのような国内の不満を国外にそらすため、宋は新興の金と交渉おこない連携して北方の遼を滅ぼすことにする。これによって形だけは「燕雲十六州」を一時的に取り戻すが、金との約束反故にしてしまう。宋の違約激怒し中原弱体化見透かした金は宋に対して侵攻開始し、宋軍は連戦連敗する。事態の悪化受けた徽宗はようやく自らの足元起こっている状況理解した宰相王黼宦官童貫蔡京蔡攸親子一派など、取り巻きたちを完全追放して厳しい罪に問い、自らは譲位することにしたが全てが遅すぎた。金軍により首都開封陥落し徽宗と息子の欽宗捕らわれの身となり、北宋滅亡した靖康の変)。

※この「徽宗期」の解説は、「新法・旧法の争い」の解説の一部です。
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