徽典館の再編と教授内容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 14:05 UTC 版)
天保14年(1843年)には幕府の地方官学統制の下、駿府の明新館とともに、江戸にあった昌平坂学問所の分校としての再編が行われた。追手門前へ移転して昌平坂学問所や江戸城の紅葉山文庫から蔵書の一部が移管された。組織改編も行われ、2人の学頭はそれまで勤番士の中から選抜されていたが、昌平坂学問所から派遣されたもので独占されることとなった。 これには勤番士の間で不満の声が上がり、学頭問題が発生した。安政3年(1856年)に甲府勤番は、内部昇進が失われることにより教育効果が薄れることや経費節減などの理由から1人を内部から選抜することを幕府に申請し、受理された。だが林大学頭がこれに反対し、学頭の席は江戸からの派遣で、教授方を勤番士中から選抜することで合意に至った。徽典館の充実により教育効果は向上したものの、一方で優秀な学生を江戸へ留学させる機会がなくなる問題も発生した。 教授内容は四書五経を中心とし朱子学を重視する学風で、再編後の天保14年(1843年)3月布告「徽典館稽古日割」が、講義の内容や日時を記す唯一の史料として現存している。これによれば、徽典館では素読、講釈、輪講、会読が行われ、講釈については一般町人、百姓への開放されていた。試験(学問御試)は春秋の年二回、五日間に一日一科目の試験が実施された。答案は江戸へ送付されて評定が行われ、成績優秀の者に対しては褒美の下賜や勤番士への登用も行われた。
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