太田・川とは? わかりやすく解説

太田川

水の都の太田川 川の文化伝えたい
太田川は、広島県廿日市市(旧吉和村)の冠山にその源を発し幾つも渓流合わせながら、広島市安佐北区可部山峡の地を離れ支川根谷川三篠川合流後、南に流下し、デルタの要である大芝にて太田川(放水路)と旧太田川とに分派、さらに京橋川天満川元安川猿猴川の計6本の川に分かれ瀬戸内海に注ぐ幹川流路延長103km、流域1,710km2河川です。

太田川と水の都広島
太田川と水の都広島

河川概要
水系太田川水系
河川名太田川
幹川流路延長103km
流域面積1,710km2
流域内人980,000
流域関係都県広島県

太田川流域図
○拡大図
1.太田川の歴史
"広島城下町は低平な三角州デルタ)及び干拓地位置するため、江戸時代より治水事業実施され、「水越の策」や「川ざらえ」等のハード的な治水事業の他、鉄穴流し禁止堤防取締令、量水標設置等のが実施されました。中国地方中心都市として発展している広島は、干拓治水という水辺との関わりの中で築かれ、これら広島歴史は、そのまま太田川の歴史つながってます。"

 
干拓の経緯
干拓経緯
7川が流れる市内派川
7川が流れ市内派川
現在6川の市内派川
現在6川の市内派川
干拓の歴史
太田川は、広島(ひろしま)県庁所在地である広島(ひろしま)市街地流れる川で、広島(ひろしま)市都心地域原始古代にはほとんど海中ありましたその後、太田川(おおたがわ)の搬出する土砂により砂州自然堤防ができ、中世1400年頃)には三角州デルタ上流部形成されました。天和5年(1589)に毛利輝元(もうりてるもと)が広島(ひろしま)築城をしたのを契機として、太田川(おおたがわ)三角州デルタ)は安芸(あき)の国(広島(ひろしま)県)の政治・経済文化中心となっていきましたそれ以前は「五か(五ヶ庄)」と呼ばれる土地幾つか分かれていましたが、城下町として整備下流向けて干拓進行しました明治以降陸上輸送発達するにつれて中小河川埋め立て進み、現在は広島(ひろしま)城内堀(堀川(ほりかわ))を除きほとんどの水面埋め立てられました。
治水の歴史
広島(ひろしま)城下町は低平な三角州デルタ)及び干拓地建設されているため、数々洪水見舞われ、太田川(おおたがわ)の治水歴代為政者宿命づけられた課題でした。その洪水対策としては、川筋固定や城側の堤防高くし、対岸低くする、いわゆる水越の策」や、「川ざらえ」等のハード的な治水事業の他、上流からの土砂による埋没懸念されるため、寛永5年(1628)には、穴流(かんななが)しを禁止寛永9年(1632)には堤防取締令を出して堤防保護命じてます。その内容は、「川を除き木、杭木抜き取り申しまじき候、くり石取りまじき候・・・。土手無造作に打ち、舟並びに牛馬繋ぎ申しまじき候・・・。土手外側1間内側3尺の間は(建物作りまじき候・・・」などといったものでした。また、その設置年代は明らかではありませんが、洪水高を示す量水標水尺)も設けられていたようで、この量水標をもとに、寛政9年(1797)5月、藩は「防水につき藩令」を出し勘定奉行及び藩士対し出水時に水防出勤すべき水位定め平時より堤防保護図りならびに急変応じるため、堤防付近家宅間には必ず通路設けておくこと。」などといった内容でした。しかしながら太田川(おおたがわ)の洪水繰り返し発生し抜本的な改修工事必要性叫ばれ近代広島(ひろしま)における太田川(おおたがわ)治水の要である放水路事業昭和7年より着手しました。太田川(おおたがわ)市内7川の(山手川(やまてがわ)、福島川(ふくしまがわ)、天満川(てんまがわ)、本川(ほんかわ)、元安川(もとやすがわ)、京橋川(きょうばしがわ)、猿猴川(えんこうがわ))内、山手川(やまてがわ)、福島川(ふくしまがわ)を統合する形で放水路整備され昭和42年完成しました
中国地方中心都市として発展している広島(ひろしま)は、干拓治水という水辺との関わりの中で築かれ広島(ひろしま)の歴史は、そのまま太田川(おおたがわ)の歴史つながってます。
2.地域の中の太田川
"太田川は、古くから川舟による輸送路として利用され水辺に今も残る雁木は当時の荷揚場として往時盛んだった舟運物語ってます。中流部建設されている高瀬堰貯水池より、広島市もとより太田川流域外の水源乏し瀬戸内海島しょ部まで送られています。また、毎年8月には市内各所において灯籠流しが行われるなど、周辺原爆ドーム平和公園との景観にも調和してます。"


筏ながしの風景
ながしの風景
[太田川と舟運
太田川(おおたがわ)は、古くから川舟による輸送路として利用され、太田川(おおたがわ)上流からは木炭、紙などが運ばれ材木は筏によって運搬されいました。それに併せ船乗り船大工舟問屋などの職業発達しまた、神田(かんだ)の渡し、ときはの渡しなど随所渡し船が行来していました水辺に今も残る雁木(がんぎ)は当時の荷揚場として往時盛んだった舟運物語ってます。江戸時代後期(1862)には川床埋まり通船などに支障がでてきたために藩に願い出て町民出資川ざらえが行われた記録もあり、舟運によって発達していた当時暮らし伺い知ることができます
今でも太田川残る雁木
今でも太田川残る雁
[太田川の水利用
太田川(おおたがわ)の豊富なは、古くから農業用水上水道用水工業用水水力発電などに利用されています。現在においては中流部建設されている高瀬堰(たかせぜき)の貯水池内に貯められた太田川(おおたがわ)のは、広島市もとより太田川(おおたがわ)流域外の水源乏しい呉(くれ)市や瀬戸内海(せとないかい)の島しょ部まで送られ水道用水などに使われています。
灯籠流し
灯 籠 流 し
せせらぎの夕べ
せせらぎ夕べ
[太田川の水辺利用
太田川(おおたがわ)の利用について上流部は、西中国山地国定公園内にあり、一帯自然景観美を誇り中でも戸河内(とごうち)町にある三段峡(さんだんきょう)は国の特別名勝にも指定されています。また、平成13年度末に完成した温井(ぬくい)ダムアーチ式ダムにおいては富山(とやま)県の黒部(くろべ)ダムに次ぐ2番目の156mのダム高を誇り年間30万人の方がスポーツ自然観察などに訪れてます。 太田川(おおたがわ)中流部流れ古川は、昔は太田川(おおたがわ)の本川として流れていました支川となった今では市街地近くありながら比較的自然も豊かな環境活かし多自然型川づくり行ってます。地域方々取り組み盛んに行われ年間通じた清掃活動、夏には毎年古川(ふるかわ)を舞台に「せせらぎ夕べ」と題したコンサート併せお祭り開催され大変賑わってます。下流部の広い河川空間は、地域方々にとって手軽に自然とふれあえる場であり、一帯魚釣り水遊びバードウォッチング等の場として親しまれている他、河口部潮干狩り魚釣りなどの身近なレクリエーション施設の場として、市民に深い愛着もたれてます。また、広島(ひろしま)に原爆落ちた8月6日には、元安川(もとやすかわ)を始めとする市内各所において灯籠流しが行われるなど、人々接することができるようになっており、周辺原爆ドーム平和公園などとの景観にも調和してます。
4.太田川の主な災害


発生発生原因被災市町村被害状況
昭和18年 9月台風26号広島市死者39
負傷者22
全半壊家屋1,504
浸水家屋16,128
昭和47年 7月梅雨前線広島市死者3名
全半壊家屋6棟
浸水家屋843棟

(注:この情報2008年2月現在のものです)




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