堀慶末とは? わかりやすく解説

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堀慶末

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/29 14:00 UTC 版)

堀 慶末(ほり よしとも、1975年昭和50年〉4月29日[2][3] - )は、日本シリアルキラー(連続殺人犯)。岐阜県生まれ[3]本籍地は同県土岐市土岐津町[2]2023年令和5年)2月時点で、死刑囚死刑確定者)として名古屋拘置所収監されている[15]


  1. ^ a b c 碧南事件で死刑が確定したことにより、闇サイト事件における無期懲役刑の執行は停止されている[5]。これは、刑法第51条「併合罪について二個以上の裁判があったときは、その刑を併せて執行する。ただし、死刑を執行すべきときは、没収を除き、他の刑を執行せず、無期の懲役又は禁錮を執行すべきときは、罰金、科料及び没収を除き、他の刑を執行しない」(参照)に基づくものである。執行事務規程第32条において、「第11条第1項の場合において、死刑確定者が自由刑の執行中であって刑法第51条第1項ただし書の適用があるときは、刑執行取止指揮書により自由刑の執行を取りやめる旨を指揮(中略)する。」と規定されており[6]、検察官が同規定に則ってその指揮を行う[7]
  2. ^ a b 碧南事件の当時、堀は被害者男性が店長を勤めていたパチンコ店(尾張旭市)に近い名古屋市守山区内に在住し[18]、AやBとともに同じ外装工事関連の職場(名古屋市内)で働いていた[19]
  3. ^ 慶末の父方の祖父母は、(第二次世界大戦の)戦前もしくは戦時中に朝鮮半島(当時は日本領)から日本へ移住した在日朝鮮人[29]
  4. ^ 慶末の母親は2015年12月時点で78歳[30][31]。慶末は2019年1月7日付の手紙で、母親が亡くなったことなどを報告する内容の手紙を名古屋拘置所からオタワ愛徳修道女会のシスター宛に発信している[4]
  5. ^ 「紫斑病」とは、血管の傷害などにより皮膚に血が滲み出てくる病気で、切り傷などにより出血すると止血しにくくなる[3]。当時は珍しい病気で、治療法が確立していなかったため、慶末は退院後も怪我をしないよう、怪我をする虞のある遊びを固く禁じられた[3]
  6. ^ 慶末が9歳だった1984年8月22日付で日本に帰化した際の『官報』には、「住所:名古屋市守山区大字小幡字米野92番地」と記載されている[1]。この住所は、1984年1月に発行された住宅地図に記載されているが[33]、同地は1993年11月22日付で住居表示が実施され[34]、1997年2月時点で「名古屋市守山区苗代一丁目」の一部となっている[35]
  7. ^ 慶末の父方の祖父母(在日朝鮮人)は強い反日感情を有していたことから、日本人である義理の娘(慶末の母親)を冷遇していたが、祖父が死去して以降、遺された祖母の反日感情は薄まり、義理の娘との関係を改善させていたため、慶末は両親の離婚後もしばらくは父の実家で生活することを許された[36]
  8. ^ ほか3人の兄たちは、慶末の父親が暴力団に入るまでに独立していたが、長兄は父親の下で暴力団組員になった[29]。また、慶末本人は、闇サイト事件で同じく無期懲役が確定した共犯者に対し「親族が暴力団員」と話していた[37]
  9. ^ 慶末はサッカーに熱中していた当時を回顧し、「(進学先の中学にサッカー部がなかったことが)後に非行に走ることになる要因の1つだった可能性がある」と述べている[39]
  10. ^ この男は殺人・死体遺棄の罪に問われ、1996年5月10日に名古屋地裁(佐藤学裁判長)で懲役15年(求刑:懲役18年)の判決を言い渡されている[41]
  11. ^ 学校の休日にバスを乗り継いでクラブチームの練習に通っていた[43]
  12. ^ このような経緯から、慶末は「テニス部は本当に自分がやりたいことではなかったのだろう」と述べている[45]
  13. ^ 生地やポケットが制服の標準ズボンと少し違うが、一見しただけでは区別できないようなズボン[46]
  14. ^ 1989年(平成元年)ごろ[47]
  15. ^ また、この教諭は慶末に対し「絶対に(親に)話すな」と口止めしていた[48]
  16. ^ 碧南事件の共犯B(2018年に無期懲役が確定)[53]は1969年(昭和44年)生まれ[54]。中学卒業後、1986年(昭和61年)に鹿児島市内の職業訓練校(1年制の専修学校木工課)を卒業[55]。その後、自身の兄を頼って名古屋に出たものの、職場(木工所)で同僚からいじめを受けていったん帰郷するなどし、友人から紹介された職場(慶末の次兄の経営する会社)で働き始めた[55]
  17. ^ 母が慶末の結婚に反対したのは、それまで学校に行かず、勉強もしていない慶末に妻子を養う能力がないと考えていたためだったが、結婚が決まってからは義理の娘である甲を可愛がるようになった[61]
  18. ^ ただし、当時は慶末が乙に対し「自分には妻子がいる」と話していたため、関係は長続きせず、慶末と甲の夫婦関係が悪化することもなかった[62]
  19. ^ 慶末は当時腰痛も悪化し、医師から「将来的なことを考えると、重い物を持つような仕事は避けたほうが良い」と言われていた一方、次兄の仕事は扱う建材がそれまでよりかなり軽いものだった[64]
  20. ^ その後、この車はローン滞納により、碧南事件後に引き上げられた[66]
  21. ^ a b c 闇サイト事件の第一審判決 (2009) では、「堀の前科は交通関係の罰金前科のみである」と、同様に死刑を言い渡されたKTについても「詐欺罪などによる執行猶予付き前科が1犯あるのみ」とされている[69]。また名古屋高裁 (2011) でも、堀の前科は「交通関係の罰金前科2犯」とされている[70]
  22. ^ 慶末はそれ以前にバイクの免許を持っていたが、取得直後に免停となり、その期間中に運転したことで3回摘発され、免許取消処分を受けた[注 21][71]。また、20歳まで運転免許を取得できない状態にあったが、独立後は義弟の車を無免許運転していた[71]
  23. ^ 丙には当時、長男(中学1年生)・長女(小学6年生)・次女(小学4年生)がいた[73]
  24. ^ 碧南事件および守山事件の共犯である男A(2016年に無期懲役が確定)[74]は1976年(昭和51年)生まれ[75]。中学卒業後、就職した魚屋をすぐに辞め、ミュージシャンを志して東京の音楽専門学校に入学したが、喧嘩で右手を痛めたことにより群馬に戻り、暴走族に入った[76]。その後、覚醒剤の密売に手を染めたが、暴力団組員の先輩とトラブルになったため、名古屋にいた先輩のもとに逃げ、慶末の次兄のもとで下請けの仕事をするようになった人物を紹介された[77]
  25. ^ 当時、慶末は義弟を連れて飲みに行っていたため、月二十数万円 - 60万円ほどを飲み代に使っていた[78]
  26. ^ そのため、妻である甲の下には金融会社から督促状が届いていた[80]
  27. ^ 堀は「普段温厚な次兄を激怒させたことで焦りを感じた」と述べている[80]
  28. ^ 堀は「甲には負い目があって(借金のことは)相談できなかった」と述べている[82]
  29. ^ 碧南事件で遺された被害者夫婦の子供2人は長男(事件当時8歳/2015年12月時点で25歳)・次男(同6歳/24歳)[88]で、両者とも被害者参加制度を利用して碧南事件の審理に参加した[89]。堀は碧南事件の公判で、被害者夫婦に子供がいたことについて、長男(事件当時8歳)の代理人弁護士から「(子供の存在は)犯行を躊躇する要素にならなかったのか?」と問われ、「ならなかった」と答えている[31]
  30. ^ 堀は碧南事件の公判で、「離婚が人生で一番の後悔。夫や父としての責任から解放され、自分勝手な生活になった」と述べている[30]
  31. ^ 丙を誘ってパチンコ店に出入りしていた[92]
  32. ^ 守山事件の現場は、堀が2004年ごろに外壁工事を担当した新築住宅[95]
  33. ^ この時、堀は被害者宅の工事で使用した手配書・図面の入ったファイルを持ち込んでいたが[96]、犯行後、逃走時にこれを被害者宅に置き忘れたことに気づき、取りに戻っている[97]
  34. ^ a b 守山事件の被害者が首を絞められた時間は3分 - 5分程度とされ、名古屋地裁 (2015) は「人の首を3 - 5分間強い力で絞めることは、人が死亡する危険性の高い行為で、殺人の実行行為に当たる」と認定[99]。また、堀の弁護人は「被害者の首を絞めたのはAのみで、堀には殺意はなかった」と主張し、堀も「自分がいったんAと被害者から目を離していたところ、『バタン』という音が聞こえたので様子を見ると、Aが被害者に馬乗りになって首を絞めていたので、何度もやめるよう言った」と主張したが[100]、名古屋地裁 (2015) は「堀の供述は客観的証拠(堀の近くで被害者が首を絞められ続けていたこと)と一致せず、堀が事件後に証拠隠滅を図るなどしていたこと、Aが被害者の目隠しとなるガムテープを外すなど、関与に消極的だったことなどを併せれば、堀の供述は信用できない」と指摘し[101]、「仮にAが1人で被害者の首を絞め続けていたとしても、3 - 5分間にわたり、堀はあえてそれを制止しなかったことなどから考えれば、堀には強盗殺人罪の成立が認められる」と認定した[102]
  35. ^ 堀の当時の年齢は24歳 - 25歳。当時は2000年(平成12年) - 2001年(平成13年)ごろ。
  36. ^ 乙は当時、錦三のスナックで働いていた[105]
  37. ^ 乙は堀と知り合う以前、両親が離婚して父親(および父親の内妻)に引き取られていたが、堀と知り合った直後に父親が病死したため、父親の内妻や彼女の母親とともに3人で生活していた[106]
  38. ^ 堀は乙の流産について「乙の妊娠が判明した直後、自分は碧南事件のことが脳裏に浮かび、素直に喜ぶことも事件のことを乙に話すこともできず、煮え切らない態度を取っていた。その自分の態度が悪影響を及ぼしたのかもしれない」と述べている[110]
  39. ^ この時、堀は自身の借金を滞納していたため、新たな借入ができず、借金は乙名義だった[111]。乙は借金が約100万円になったころから自身のバッグなどを質入れするようになったが、それ以降はギャンブルから距離を置くようになった[111]
  40. ^ a b 堀は闇サイト事件で逮捕された当時、名古屋市東区泉一丁目[13]のマンションに住んでいた[113]。堀と乙は1DK(ペット可・家賃135,000円)の新築物件で、借金の返済と家賃の支払いを並行して行いつつ、ミニチュアダックスを飼いながら生活していた[114]
  41. ^ 堀は闇サイト事件で逮捕された当時、名古屋市内の複数のダーツバーに通い、チームのリーダーも務める社交家だった[115]。同事件当日(8月24日)夜、堀は中区のダーツバーに電話で「忙しくなる」と連絡していた[115]
  42. ^ 堀は丁について「キャバクラなどの水商売で働いているような感じだった」と述べている[118]
  43. ^ 丁は当時、キャバクラやデリヘルで働き、多い時には月60 - 70万円程度の収入を得ていた一方[123]、前夫からの子供の養育費を受け取っていたほか、愛知県・名古屋市からの福祉手当を不正受給していた[124]ため、それを知った堀は丁から数十万円単位で借金をするようになった[125]。また、丁は外食の際に注文した料理を提供間際にキャンセルしたり、癇癪を起こして子供に暴力を振るったりするようになったほか、堀は同時期に彼女が成人してからも中学時代と同様に薬物を乱用していることを知った[126]
  44. ^ 堀の父は息子(慶末)に対し、知り合いの工場で働くことを勧めたが、慶末は既に怠け癖がつき、「たとえ働いても、乙に気づかれず丁への返済をすることはできない」と考え、働こうとしなかった[134]
  45. ^ 堀が闇サイトの閲覧を始めたのは2007年6月[136]
  46. ^ この時、堀は相手が「山下」という偽名を使っていたことから、自身も「田中」の偽名を名乗っていた[137]。しかし、この時は堀が「山下」と落ち合う当日にダーツのトーナメントの予定を入れており、「山下」に「都合が悪くなった」と連絡したところ、「山下」との連絡はいったん途絶えた[137]
  47. ^ KTはこの時に知り合った4人の中で唯一、本名を使っていた[140]
  48. ^ これに並行し、堀はパチンコ店の常連客を襲うための道具としてハンマーや軍手を購入した[143]
  49. ^ しかし、堀自身は「この時は殺害しても良いと本気で考えていたわけではなく、迎合気味の発言に過ぎない。もし最初から殺人を考えていたなら、ハンマーより殺傷力の高い包丁を選んでいただろう」と述べている[146]
  50. ^ 「杉浦」は当時、家賃の滞納によってアパートを追い出され[148]、すぐに金銭を必要としていたが、KTは詐欺などによって長期的に稼ごうとしていたため、考えが合わなかった[149]。8月24日未明、「杉浦」は「山下」とともに会社事務所(「山下」のかつての職場)へ空き巣に入ったが、「山下」によって置き去りにされ、最終的には自首した[150]。その後、「杉浦」は強盗予備・窃盗未遂などの罪に問われ、名古屋地裁(寺沢真由美裁判官)で懲役2年・執行猶予3年(求刑:懲役2年)の有罪判決を受けた[151]
  51. ^ また、堀はこの時に標的を監禁する場所として、友人のアパート(名古屋市名東区高針)を提案した[154]が、堀自身は自著 (2019) で「(そのアパートは)碧南・守山の両事件の共犯だったAの部屋」と述べている[155]
  52. ^ 3人は19時ごろに同店を出たが、名古屋高裁 (2011) は「殺害の共謀は、3人が24日15時ごろに同店の駐車場に駐めた車内で、KTが『最後は殺しちゃうけど、良いよね』と言い、堀と『山下』がいずれもそれを承諾する返事をした時点で成立した」と認定している[157]
  53. ^ 被害者が殺害される直前、KTや堀から車内で暗証番号を教えるよう脅迫された際、虚偽の暗証番号を教えたため[158]
  54. ^ 3人は翌27日に同容疑で名古屋地検へ送検された[162]
  55. ^ 同日、名古屋地検は堀ら3人を最初の逮捕・送検容疑である死体遺棄罪で起訴した[163]
  56. ^ また、「山下」は被害者女性を殺害する前に強姦しようとしており[165]、被害者の遺族が逮捕後にそれを告訴した[22]。名古屋地検は「強姦未遂の事実が認定できる証拠がある」として、「山下」については強盗強姦未遂罪でも起訴した[22]
  57. ^ 堀は闇サイト事件で無期懲役が確定するまで、長男と手紙などで交流していた[31]。その後、碧南事件で逮捕されてからは接見禁止となり[168]、息子たちも就職で遠方に行っていたため、音信不通になっていた[168]。しかし、2015年10月23日付の申立で両親と兄4人については接見が解禁された[169]ほか、同年6月には裁判所から堀の母親を通じて堀の次男に手紙を送ることが許可された[168]。その後、2016年には再び次男から手紙を受け取っている[170]
  58. ^ a b c 最高裁は1983年(昭和58年)7月に連続射殺事件の被告人・永山則夫への上告審判決で、死刑の適用について「犯行の罪質、動機、態様(ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性)、結果の重大性(ことに殺害された被害者の数)前科などを併せて考察し、罪責が誠に重大で、罪刑均衡・一般予防双方の見地からもやむを得ない場合に許される」とする基準(いわゆる「永山基準」)を示した[171]。同判決は「ことに」と強調した上で被害者数に言及しているため、その後は殺害された被害者が1人の場合、死刑適用は回避されることが多い[171]
  59. ^ 参照:刑法第45条「確定裁判を経ていない二個以上の罪を併合罪とする。ある罪について禁錮以上の刑に処する確定裁判があったときは、その罪とその裁判が確定する前に犯した罪とに限り、併合罪とする。」
  60. ^ 2件の強盗殺人・強盗強姦事件で起訴されたが、2つの事件の間に確定判決を挟んでいたため(2事件が併合罪にならず)[注 59]、確定判決以前の事件で無期懲役、確定判決後の事件で死刑に処された事例[173]
  61. ^ 司法研修所 (2012) は、1970年度(昭和45年度)以降に判決が宣告され、1980年度(昭和55年度) - 2009年度(平成21年度)に死刑か無期懲役が確定した死刑求刑事件346件(いずれも殺人事件もしくは強盗殺人事件)について調査[172]。その結果、殺害された被害者が1人の強盗殺人事件(全52件)では14人(27%)の死刑が確定しているが、うち5件は無期懲役刑の仮釈放中に再犯した事例、1件は実質的に被害者が複数人の事件[注 60]であり、残る8件(本事件の死刑囚KTを含む)はいずれも当初から被害者の殺害を計画していた事例であることが判明している[173]。司法研修所 (2012) は、それら8事件の個別の事情を考慮し、「被害者1人の強盗殺人事件では、当初から被害者の殺害を計画・決意していたか否かに加え、種々の犯情(犯行の動機・具体的な計画性の程度、犯行の社会的影響など)や一般情状を総合し、死刑適用の可否が判断されているようだ」と結論づけている[174]
  62. ^ 堀は闇サイト事件で死刑を求刑される前、刑務所から出所できることを前提とした手記を書いていた[176]ほか、証言の際に涙を見せたが、近藤裁判長から「他人のせいばかりにして、本当に反省しているのですか」と厳しく問い質される場面があった[136]。ただし、無期懲役刑の確定後には「もう二度と社会に出ることはない」と考え、自身の服をすべて処分している[30]
  63. ^ 近藤は2007年4月以降、名古屋地裁刑事第6部で部総括判事合議体の裁判長)を務めていた[179](2010年3月31日まで)[180]。裁判所ウェブサイト (2009) によれば、2008年12月1日時点では近藤と野口卓志・酒井孝之の各裁判官が「名古屋地方裁判所刑事第6部イ」合議係を担当していた[181]
  64. ^ 堀は閉廷後、『毎日新聞』の記者と面会した際には「想定はしていたが、(死刑宣告は)重かった」「反省については毎日考えているが、犯行の経緯など、細かい部分で自分と他2人の供述が対立した。判決で自分の供述が『信憑性がない』とされたことは納得できない」と述べている[182]ほか、同年5月中旬に同所で『読売新聞』記者と面会した際には「判決直後は2日ぐらい食事が取れなかった」と述べている[183]
  65. ^ 控訴審では、堀の両親や元交際相手らが嘆願書を提出していた[70]
  66. ^ 下山保男は2009年(平成21年)5月22日以降、定年退官(2012年6月5日)まで名古屋高裁部総括判事を務めていた[186]。裁判所ウェブサイト (2011) によれば、2010年4月1日時点では下山と高橋裕・柴田厚司・松井修の各裁判官が名古屋高裁の刑事第2部を担当していた[187]。このうち、高橋を除く3裁判官が本事件の審理を担当した[188]
  67. ^ 2006年(平成18年)6月20日・最高裁第三小法廷判決[191]。同判決は、「犯行自体に関連する量刑要素を評価した上で、特に酌量すべき事情がない限りは死刑を選択するほかない」と判示したもの[192]で、検察官は闇サイト事件における堀の控訴審判決に対する上告趣意書で「控訴審判決は、結果の重大さ・悲惨さや、動機に酌むべき余地がない点、犯行が計画的である点、遺族の処罰感情の強さ、社会的影響の大きさなどの諸情状を軽視し、殺害された被害者が1人であることを過大に評価している」と指摘した[193]
  68. ^ 闇サイト事件の控訴審で、検察官は「山下」への死刑適用を、「山下」自身も有期懲役刑適用をそれぞれ求めていた[199]
  69. ^ 堀のDNA型は闇サイト事件で逮捕された直後に採取され[206]警察庁のデータベース(2005年より運用開始)に記録されていた[207]
  70. ^ Aは2009年、群馬県(本籍地)にて覚醒剤取締法違反容疑で逮捕された[58]。その後、覚醒剤取締法違反・大麻取締法違反の罪により、同年7月14日に前橋地方裁判所で懲役3年6月+罰金50万円の判決を受け(同月29日に確定)[75]、碧南事件で逮捕された当時は関東地方刑務所に服役していた[208]
  71. ^ 同日には身柄を名古屋拘置所から碧南署へ移送されたが、11月8日には再び名古屋拘置所へ移送されている[4]
  72. ^ 同日には身柄を名古屋拘置所から愛知県警本部へ移送されたが、同年3月5日には再び名古屋拘置所へ移送されている[4]
  73. ^ 名古屋地検はAに関して、「守山事件では被害者への殺意は認められない」として、強盗殺人未遂罪ではなく強盗致傷罪で起訴した[26]。その後、第一審の途中で名古屋地検は訴因変更を行い、(起訴前の容疑および、堀と同様に)「Aは守山事件でも被害者への殺意を有していた」として、強盗殺人未遂罪が成立する旨を主張したが、名古屋地裁 (2016) は「強盗に関して堀と共謀し、被害者に暴行を加えて負傷させた事実は認められるが、殺意は認められない」として、強盗致傷罪の成立を認定した[75]
  74. ^ 上告審判決に対し被告人が判決訂正申立を行った場合、申立棄却決定が被告人へ送達された時点をもって死刑確定とみなされる[216]
  75. ^ 名古屋地裁刑事第4部(景山太郎裁判長):2016年2月5日宣告判決[75]
  76. ^ 名古屋地裁刑事第4部(景山太郎裁判長):2016年3月25日宣告判決[54]
  77. ^ 名古屋高裁(村山浩昭裁判長):2016年12月19日宣告判決[219]
  78. ^ 最高裁第一小法廷(小池裕裁判長):2018年6月20日付決定[53]
  79. ^ 連続企業爆破事件(1971年12月 - 1975年5月)で死刑が確定し、2017年に獄中死した元死刑囚・大道寺将司[220]の母親(2004年没)[221]
  80. ^ a b 「死刑囚表現展」は「大道寺幸子基金」の主催により、2005年に開始された[222]。その後、同基金は2015年度以降、島田事件(四大死刑冤罪事件の1つ)の冤罪被害者である元死刑囚・赤堀政夫からの基金提供申し出を受け、「死刑廃止のための大道寺幸子・赤堀政夫基金」と改称している[222]
  81. ^ 原稿用紙700枚以上に及ぶ長編の自伝的作品。同作中において人名などは仮名となっているが、写真などが挿入されている点から、選考委員・川村湊は「フィクション=小説ではなく、自伝的記録=ノンフィクションとして受け取るべきだろう」と述べている[225]。また、同作品では(闇サイト事件とは明確に言及していないが)「インターネットで共犯者を募って安易な金儲けの方法を考え、次第にエスカレートして路上で通行中の女性を襲って拉致し、金品を強奪して殺害する」という犯罪の経緯が描写されている[225]
  82. ^ 『鎮魂歌』の原作となった手記を執筆した動機について、堀は「余罪(碧南事件・守山事件)が明るみになり、誤魔化しや偽りが必要なくなった今だからこそ語れることや、語るべきことがあると思った一方、闇サイト事件では余罪の露頭により、行動・行為などの意味や理解に大きく齟齬が生じているため、被害者や遺族のためにも自分からすべてを公にすべきだと思った。決め手になったのは、2015年に闇サイト事件の共犯KTが処刑されたことを知ったことで、『これまで隠してきた事実なども含め、事件に関わることを出来る限り書き綴って残そう』と思った」と述べている[227]
  83. ^ 堀は『鎮魂歌』第1部を2016年に執筆し、『破滅』の題名で死刑囚表現展へ応募しようとしたが、この時は名古屋拘置所が発送を遅らせたため、締め切りに間に合わなかった[228]。そのため、翌2017年に完成させた『来信・私に届いた90の手紙』を第2部として、第1部と併せ『鎮魂歌』(読み:レクイエム)として応募した[228]
  84. ^ 2019年6月14日[228]
  85. ^ 「死刑廃止のための大道寺幸子・赤堀政夫基金」の運営委員を務める深田卓(インパクト出版会代表)は、2017年初めから同作の書籍出版へ向けて準備を進めていたが、第2部を構成していた堀の手紙の選別作業に追われたことに加え、2018年3月にはオウム真理教事件の死刑囚2人(岡崎一明横山真人/同年7月)が名古屋拘置所へ移送され、深田は2人の死刑執行後(同年8月末)まで堀との信書発受信ができなかったため、出版は大幅に遅れた[228]
  86. ^ その後、朝日新聞社は同月7日付で、出版協およびインパクト出版会に対し、「チェックの仕組みが不十分だった」と説明・謝罪し[230]、同月22日付の朝刊でインパクト出版会の新刊広告を掲載した際、改めて『鎮魂歌』の広告を掲載した[231]。劉永昇(風媒社編集長)は、『朝日新聞』2019年5月31日朝刊「本の虫」で、同紙の対応を「版元(インパクト出版会)の『出版を通じて死刑存廃議論を高めたい』という願いを黙殺する、ただの異物の排除だ」と批判した[232][233]
  87. ^ 西村の担当部は名古屋地裁民事第8部合議係(2023年1月23日時点)[237]
  88. ^ 『毎日新聞』 (2009) は、堀の弁護人の声として「堀は判決前から死刑宣告を覚悟していた」と報じている[182]
  89. ^ 山田は堀と「山下」それぞれの弁護人から依頼を受け[240]、堀の生育歴も踏まえて心理鑑定を実施[238]。両被告人との面接や、心理テストの結果などを基に鑑定報告書を作成し、控訴審で証拠として提出した[240]
  90. ^ 闇サイト事件の被害者女性の母親は、事件発生後から一貫して加害者3人(堀・KT・「山下」)への死刑適用を求める署名活動を行い、5年間で約33万筆の賛同を集めたほか、法務大臣検事総長に請願の手紙を送ったり、講演などを通じて犯罪被害者遺族の支援拡大を訴えている[241]
  91. ^ 大崎善生は2014年(平成26年)から同事件の被害者の母親や、元交際相手の男性らへの取材を行い[244]、2016年にノンフィクション『いつかの夏』を出版した(#参考文献)。
  92. ^ また、大崎は堀が闇サイト事件の公判で、常に裁判官に一礼するなど、礼儀正しく振る舞っていた一方で主導性を否定する供述をしていたことや[246]、第一審で死刑を宣告された際にはそれまでと異なり一礼せず、傍聴席も見向きせずに退廷したことを挙げ、「本性が垣間見えた」と述べている[247]





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