国連軍の38度線越境とは? わかりやすく解説

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国連軍の38度線越境

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 03:39 UTC 版)

朝鮮戦争」の記事における「国連軍の38度線越境」の解説

1950年10月1日韓国軍開戦以前から「北進統一」を掲げ、「祖国統一好機」と踏んでいた。李承晩大統領丁一権参謀総長呼び38度線には何か標でもあるのか?」と尋ねると、意図理解した丁は「38度線地図引かれ単なる線です」と答えた我が意を得たとばかりに丁に『ただちに軍を率いて北進すべし』という大統領命令書を渡した。この命令については事前にマッカーサーへの相談はなされていなかった。 しかし、アメリカでは既に仁川成功発言力増していたマッカーサーによる要求や、北朝鮮軍38度線以北逃げ込んで戦力立て直し再度侵略を図る懸念があるとの統合参謀本部勧告もあり、トルーマンマッカーサー38度線突破する事を承認し9月27日マッカーサー伝えていた。しかし条件付されており『ソ連中国大部隊が北朝鮮入ってない場合』『ソ連中国参戦する意図発表ない場合』『朝鮮における我々の作戦反撃される恐れない場合』に限るとされた。しかし、ジョージ・マーシャル国防長官マッカーサーに「貴下38度線の北を進撃するのに、戦術的戦略的に制限受けていないと思われたい。」と曖昧な打電をしており、マッカーサーは自らの判断38度線越え権限があると思っていた。その為、マッカーサー韓国軍独断専行を特に問題とは考えておらず、翌10月2日その事実がアメリカマスコミ公表されると、ついで10月7日にはアメリカ軍第1騎兵師団マッカーサーの命により38度線越えて進撃開始した。また国連でも、ソ連拒否権行使できる安全保障理事会避け10月7日アメリカ国務省発案総会により、全朝鮮に「統一され独立した民主政府」を樹立することが国連目的とする決議賛成47票、反対5票で採択されマッカーサー行動お墨付き与えた10月1日韓国軍進撃対し中華人民共和国国務院総理首相)の周恩来中華人民共和国建国一周年のこの日に「中国人民は外国侵略容認するつもりはなく、帝国主義者どもがほしいままに隣接領土侵入した場合、これを放置するつもりはない。」とする明白な警告声明発表したが、ワシントンこの声明を単なる脅しととって無視した。しかし毛沢東はかなり早い時期、それもまだ北朝鮮軍有利に戦争進めていた7月段階中国戦争介入不可避考えており、中朝国境中国の最精鋭部隊であった第4野戦軍から3個兵団抽出し東北辺国防軍を創設し準備進めていた。仁川上陸作戦についても、その可能性予測し金日成警告与えていたが、金日成警告無視したため、北朝鮮軍仁川への国連軍の上作戦阻止できず、38度線突破を許す事になったことに幻滅していた。中国からの警告外交ルート通じてなされている。インド中国大使カヴァーラム・バニッカーは10月2日深夜周恩来自宅呼ばれ、周より「もしアメリカ軍38度線越えたら、中国参戦せざるを得ない」と伝えられた。バニッカーは10月3日深夜1時30分にインド本国報告し、朝にはイギリス首相に伝えられほどなくアメリカ国務省にも届いたが、国務長官ディーン・アチソンはバニッカーを信用しておらずこの情報活かされる事はなかったが、実際正確な情報であった中国戦争介入準備進めている最中10月15日トラック島において、トルーマンマッカーサーによる会談が行われた。この会談中間選挙が近づいて支持率低迷に悩むトルーマンマッカーサー人気にあやかろうとする性質のもので、あまり重要なはなされなかったが、トルーマンがバニッカーからの情報聞いて以来になっていた中国参戦可能性について質問すると、マッカーサーは「ほとんどありえません。」と答え、さらに「最初の1〜2ヶ月参戦していたらそれは決定的だったでしょう。しかし我々はもはや彼らの参戦恐れていません」と自信をもって回答している。しかしこのマッカーサー予想大きく外れ、後にこの発言マッカーサー災いもたらすになったその間に、アメリカ軍中心とした国連軍は、中国軍派遣準備進んでいたことに気付かずに、敗走する北朝鮮軍追いなおも進撃続け10月10日韓国軍軍港である元山市激し市街戦の上奪取した元山港からはアメリカ第10軍団上陸しマッカーサー作戦では第8軍第10軍団二方面より進撃する計画であったウォルトン・ウォーカーは、第10軍団指揮今まで第8軍司令官として前線作戦全般取り仕切ってきた自分任されるものと考えていたが、マッカーサー第10軍団指揮マッカーサー心酔しているエドワード・アーモンド継続して行わせる事とし、更にウォーカー指揮にあった韓国軍半分アーモンド指揮下に移し朝鮮半島指揮権二分西部ウォーカー東部アーモンド管轄にすることを命じた。しかし補給についての全責任引き続きウォーカー任される事となった。ウォーカー現状よりも指揮権限が後退するのに、補給支援の負担だけ増大することに疑問感じまた、第10軍団時間がかかり危険も大き水陸両用作戦元山上陸させる事に統合参謀本部参謀らも疑問持ったが、仁川成功国民的喝采浴びているマッカーサー対し作戦疑問を呈する事は憚られた。 10月20日にはアメリカ第1騎兵師団韓国第1師団北朝鮮臨時首都平壌1948年から1972年まで法的効力有した朝鮮民主主義人民共和国憲法ではソウル法的な首都定めていた)を制圧したマッカーサー占領後間もなく航空機平壌入りしたが、航空機降り立った際に「私を出迎え要人はいないのか?出っ歯キムはどこにいる」という冗談を飛ばす得意満面であった平壌脱出していた金日成中国通化事実上亡命し、その息子と娘である金正日金敬姫兄妹中国疎開して吉林省中国人学校通学していた。マッカーサー平壌入り前の10月17日には、中朝国境から4060マイル離れていた線を決勝点決めたが、数日もしない内にその決勝点あくまでも中間点であり、更に国境に向け進む様に司令官伝達した国務省からは、国境付近では韓国軍以外は使用するなと指示されていたが、それに反す命令であったこの頃国連軍は、至る所相互支援も、地上偵察相互連絡維持すらできず、多く異なったルート辿りバラバラ鴨緑江目指していた。また補給港も遠ざかり補給路は狭く険しく曲がりくねっており補給困難にさせていた。しかしマッカーサー指揮東京から行っており、朝鮮半島来て日帰り東京帰り宿泊する事はなかった為、見た事のない敵地地勢正しく評価できていなかった。 その様過酷な環境下で先行していた林富澤大佐率い韓国陸軍第6師団第7連隊10月26日中朝国境鴨緑江達し、「統一間近」とまで騒がれた。

※この「国連軍の38度線越境」の解説は、「朝鮮戦争」の解説の一部です。
「国連軍の38度線越境」を含む「朝鮮戦争」の記事については、「朝鮮戦争」の概要を参照ください。

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