国連軍の38度線越境
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1950年10月1日、韓国軍は開戦以前から「北進統一」を掲げ、「祖国統一の好機」と踏んでいた。李承晩大統領は丁一権参謀総長を呼び「38度線には何か標でもあるのか?」と尋ねると、李の意図を理解した丁は「38度線は地図に引かれた単なる線です」と答えた。李は我が意を得たとばかりに丁に『ただちに軍を率いて北進すべし』という大統領命令書を渡した。この命令については事前にマッカーサーへの相談はなされていなかった。 しかし、アメリカでは既に仁川の成功で発言力が増していたマッカーサーによる要求や、北朝鮮軍が38度線以北に逃げ込んで戦力を立て直し再度の侵略を図る懸念があるとの統合参謀本部の勧告もあり、トルーマンはマッカーサーに38度線を突破する事を承認し9月27日にマッカーサーに伝えていた。しかし条件が付されており『ソ連や中国の大部隊が北朝鮮に入っていない場合』『ソ連と中国が参戦する意図の発表がない場合』『朝鮮における我々の作戦が反撃される恐れのない場合』に限るとされた。しかし、ジョージ・マーシャル国防長官はマッカーサーに「貴下が38度線の北を進撃するのに、戦術的・戦略的に制限を受けていないと思われたい。」と曖昧な打電をしており、マッカーサーは自らの判断で38度線を越える権限があると思っていた。その為、マッカーサーは韓国軍の独断専行を特に問題とは考えておらず、翌10月2日にその事実がアメリカのマスコミに公表されると、ついで10月7日にはアメリカ軍の第1騎兵師団がマッカーサーの命により38度線を越えて進撃を開始した。また国連でも、ソ連が拒否権を行使できる安全保障理事会を避け、10月7日にアメリカ国務省の発案で総会により、全朝鮮に「統一され、独立した民主政府」を樹立することが国連の目的とする決議が賛成47票、反対5票で採択され、マッカーサーの行動にお墨付きを与えた。 10月1日、韓国軍の進撃に対し中華人民共和国の国務院総理(首相)の周恩来は中華人民共和国建国一周年のこの日に「中国人民は外国の侵略を容認するつもりはなく、帝国主義者どもがほしいままに隣接の領土に侵入した場合、これを放置するつもりはない。」とする明白な警告の声明を発表したが、ワシントンはこの声明を単なる脅しととって無視した。しかし毛沢東はかなり早い時期、それもまだ北朝鮮軍が有利に戦争を進めていた7月の段階で中国の戦争介入は不可避と考えており、中朝国境に中国の最精鋭部隊であった第4野戦軍から3個兵団を抽出し、東北辺国防軍を創設し準備を進めていた。仁川上陸作戦についても、その可能性を予測し金日成に警告を与えていたが、金日成は警告を無視したため、北朝鮮軍は仁川への国連軍の上陸作戦を阻止できず、38度線突破を許す事になったことに幻滅していた。中国からの警告は外交ルートを通じてもなされている。インドの中国大使カヴァーラム・バニッカーは10月2日の深夜に周恩来の自宅に呼ばれ、周より「もしアメリカ軍が38度線を越えたら、中国は参戦せざるを得ない」と伝えられた。バニッカーは10月3日深夜1時30分にインド本国に報告し、朝にはイギリス首相にも伝えられ、ほどなくアメリカ国務省にも届いたが、国務長官のディーン・アチソンはバニッカーを信用しておらずこの情報が活かされる事はなかったが、実際は正確な情報であった。 中国が戦争介入の準備を進めている最中の10月15日、トラック島において、トルーマンとマッカーサーによる会談が行われた。この会談は中間選挙が近づいて支持率低迷に悩むトルーマンがマッカーサー人気にあやかろうとする性質のもので、あまり重要な話はなされなかったが、トルーマンがバニッカーからの情報を聞いて以来気になっていた中国の参戦の可能性について質問すると、マッカーサーは「ほとんどありえません。」と答え、さらに「最初の1〜2ヶ月で参戦していたらそれは決定的だったでしょう。しかし我々はもはや彼らの参戦を恐れていません」と自信をもって回答している。しかしこのマッカーサーの予想は大きく外れ、後にこの発言がマッカーサーに災いをもたらす事になった。 その間に、アメリカ軍を中心とした国連軍は、中国軍の派遣の準備が進んでいたことに気付かずに、敗走する北朝鮮軍を追いなおも進撃を続け、10月10日に韓国軍が軍港である元山市を激しい市街戦の上に奪取した。元山港からはアメリカ第10軍団が上陸し、マッカーサーの作戦では第8軍と第10軍団が二方面より進撃する計画であった。ウォルトン・ウォーカーは、第10軍団の指揮は今まで第8軍司令官として前線の作戦全般を取り仕切ってきた自分が任されるものと考えていたが、マッカーサーは第10軍団の指揮をマッカーサーを心酔しているエドワード・アーモンドに継続して行わせる事とし、更にウォーカーの指揮下にあった韓国軍の半分をアーモンドの指揮下に移し、朝鮮半島の指揮権も二分、西部をウォーカー、東部をアーモンドの管轄にすることを命じた。しかし補給についての全責任は引き続きウォーカーが任される事となった。ウォーカーが現状よりも指揮権限が後退するのに、補給支援の負担だけ増大することに疑問を感じ、また、第10軍団を時間がかかり危険も大きい水陸両用作戦で元山に上陸させる事に統合参謀本部の参謀らも疑問を持ったが、仁川の成功で国民的喝采を浴びているマッカーサーに対し、作戦の疑問を呈する事は憚られた。 10月20日にはアメリカ第1騎兵師団と韓国第1師団が北朝鮮の臨時首都の平壌(1948年から1972年まで法的効力を有した朝鮮民主主義人民共和国憲法ではソウルを法的な首都に定めていた)を制圧した。マッカーサーも占領後間もなく航空機で平壌入りしたが、航空機を降り立った際に「私を出迎える要人はいないのか?出っ歯のキムはどこにいる」という冗談を飛ばす程得意満面であった。平壌を脱出していた金日成は中国の通化に事実上亡命し、その息子と娘である金正日・金敬姫兄妹も中国に疎開して吉林省の中国人学校に通学していた。マッカーサーは平壌入り前の10月17日には、中朝国境から40〜60マイル離れていた線を決勝点と決めたが、数日もしない内にその決勝点はあくまでも中間点であり、更に国境に向け進む様に各司令官に伝達した。国務省からは、国境付近では韓国軍以外は使用するなと指示されていたが、それに反する命令であった。この頃の国連軍は、至る所で相互の支援も、地上偵察の相互連絡の維持すらできず、多くの異なったルートを辿りバラバラに鴨緑江を目指していた。また補給港も遠ざかり、補給路は狭く、険しく、曲がりくねっており補給を困難にさせていた。しかしマッカーサーは指揮を東京から行っており、朝鮮半島に来ても日帰りで東京に帰り宿泊する事はなかった為、見た事のない敵地の地勢を正しく評価できていなかった。 その様な過酷な環境下で先行していた林富澤大佐率いる韓国陸軍第6師団第7連隊は10月26日に中朝国境の鴨緑江に達し、「統一間近」とまで騒がれた。
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