国連軍の攻勢とカタンガ国の消滅
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「コンゴ動乱」の記事における「国連軍の攻勢とカタンガ国の消滅」の解説
1960年7月14日に採択されたコンゴ情勢に関する最初の安保理決議の後、国連は7月22日に国連安保理決議第145号を採択して第143号の迅速な履行を迫った。8月9日に採択した国連安保理決議第146号ではカタンガの存在について初めて言及して第143号の履行も迫ったが、同時にONUCはいかなる紛争の解決にも介入してはならないという項目も追加された。1961年には、ONUCは2万人近くの兵士で編成されていた。彼らはカタンガ憲兵隊に協力する外国人傭兵を逮捕出来る権限を持っていた。1961年9月には武力を行使せずにカタンガの傭兵部隊を拘留するための試み「モーソー作戦」が展開されたが失敗し、銃撃戦になった。ONUCが主張するどちらの側にも偏らないという公平性は9月中旬にジャドヴィルにおいて、ONUCのアイルランド人部隊が兵数に勝るカタンガ憲兵隊と6日間に及ぶジャドヴィルの包囲戦(英語版)を繰り広げた末に敗北して捕らえられたことで損なわれた。カタンガは国連の活動とその支持者に屈辱を与える戦争捕虜としてアイルランド兵の拘留を続けた。 1961年9月18日には、ハマーショルドはONUCとカタンガ憲兵隊との停戦を協議するためにコンゴとの国境近くにある北ローデシアの都市、ンドラに飛んだ。しかし、彼の搭乗していた航空機はンドラ空港に着陸しようとする手前で謎の墜落事故を起こしてしまい、ハマーショルドを含めて搭乗者全員が死亡した(1961年国連チャーター機墜落事故)。事件の状況はまだ明らかになっていないが、最近になってカタンガ兵によって飛行機が撃墜されたという証言や、イギリスが撃墜に関与していたことを示唆するいくつかの証拠も浮上している。 コンゴに対して穏健な政策を追求したハマーショルドとは対照的に、彼の後任のウ・タントはコンゴの紛争に積極的に介入する、より急進的な政策を支持した。カタンガはONUCが軍を撤退させることに同意した停戦協定の一環として、10月中旬に捕虜としていたアイルランド兵を釈放した。国連のカタンガ政策に対するアメリカのジョン・F・ケネディ新政権の全面的支持の表明や1961年11月にギゼンガ政府の支配下にあったポールタンパンで発生したONUCに参加したイタリア空軍パイロット13人が殺害されたキンドゥの虐殺(英語版)の後、コンゴの分離活動を解決に向かわせようとする国際的な需要が高まった。「共産主義者」と見なしていたルムンバの失脚やアメリカの庇護の下で中央政府にシリル・アドゥラ政権が樹立された結果、「反共の砦」を自認するチョンベに対してアメリカが好意的に接する必要性が薄れた。何千人もの民間人が虐殺された国民軍による4ヶ月に及ぶ軍事作戦の結果、1961年12月30日にカロンジは逮捕され、南カサイ国は消滅した。 1961年2月21日に採択された国連安保理決議第161号は悪化する人権状況に対処して本格的な内戦の勃発を防止するために、ONUCの部隊に武力行使を含むあらゆる措置を講じることを認めたものであった。同年11月24日に米国とソ連が一致して採択された国連安保理決議第169号はカタンガが独立国家であるとの言い分を「完全に拒絶」して、「法と秩序の回復と維持においてコンゴ中央政府を支援」するために、ONUCの部隊にあらゆる措置を講じることを認めるという、より踏み込んだ内容になっている。カタンガは挑発行為をエスカレートさせ、ONUCはこれに対してカタンガ憲兵隊が築いたバリケードを解体し、戦略上重要なエリザベートヴィル周辺地域を奪取することを目的とした「ウノカト作戦」を開始した。国際的な圧力に直面したチョンベは1962年12月に中央政府の権威を受け入れ、カタンガ国憲法の放棄とカタンガ地域の分離独立要求を放棄することに原則的に同意するキトナ協定に署名した。しかし、宣言の後にカタンガ憲兵隊はONUCに対する嫌がらせをし続けてチョンベとアドゥラの話し合いは行き詰まりに達した。カタンガ国に対する支援が減少し、最大の支援国であったベルギーですら支援をためらうようになっていき、この国家の先がもう長くないことが予感された。 1962年12月24日には、ONUCとカタンガ憲兵隊がエリザベートヴィル近郊で衝突し、戦闘が勃発した。停戦交渉が行われたが失敗に終わり、ONUCはエリザベートヴィルを占領した直後に停戦合意が成立した。ONUCのインド人部隊は命令に背く行動を起こしてジャドヴィルを占領し、カタンガ国支持者の再編成を未然に阻止した。ONUCはカタンガの他の地域を徐々に制圧し、1963年1月21日にチョンベが最後の拠点としていたコルヴェジを明け渡したことでカタンガ国は事実上消滅した。
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