収容者の生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/21 00:50 UTC 版)
寄宿舎には『振武寮』という看板が掲げられ、周りは塀と鉄条網で囲われ、小銃を携えた歩哨が2名立っていた。2階建てで、1階は下士官、2階が将校用であり、ずらっと並んだ2名が居住する8畳の部屋に収容隊員が寝泊まりした。施設からの外出は禁止、手紙や電話も含めて外部との接触も厳禁、食事と用便の時以外は部屋を出ることも禁止、他の入寮者との会話も禁じられていたとされる。 しかし、これらは必ずしも徹底されておらず、第65振武隊の片山少尉は、先に入寮していた隊員らに事情を聞き、振武寮が帰還特攻隊員の隔離収容施設と認識し、第54振武隊の小川少尉は、自分の部屋に訪ねてきた特別操縦見習士官1期生の少尉から、特攻出撃したが引き返してきたこと、引き返してきた後に両親と面会し驚かれたことなど身の上話を聞かされている。また、第6航空軍に接収された寄宿舎から、近隣の民家に移らされた福岡女学校の女学生は、振武寮の隊員と会話し「戻ってきたらぼくの名札がなかった。死んだことになっとんたんよ」と寂しそうに告げられたと証言している。その女学生は振武寮の様子を外部より継続的に観察できており、「隊員の皆さん、とても投げやりだったのが不思議でした。」と証言している。 特攻隊員らは朝食が一番の苦痛だったという。倉澤は元々は自ら航空機を操縦する航空士官であったが、事故により生死をさまよう重傷を負ってその後遺症で頭が割れるような頭痛に頻繁に襲われ、その頭痛を和らげるために常態的に飲酒をしており、泥酔していることが多かった。その泥酔している倉澤が、隊員らが朝食を食べている食堂を訪れ「命が惜しくて帰ってきたろ、そんなに死ぬのが嫌か、卑怯者。死んだ連中に申し訳ないとは思わんのか」「お前ら軍人のクズがよく飯を食えるな」「おまえら人間のクズだ。軍人のクズ以上に人間のクズだ」と酔った勢いで罵倒したという。そこで食事を躊躇っていると、倉澤は「なんで飯を食わない?食事も天皇陛下から賜ったものだぞ」と食べるまで部屋を出ていかなかった。 倉澤は司令部内で一番若年の参謀だったこともあり、血気盛んでよく怒鳴っていたことから、司令部内で勤務していた女子職員の中で最も印象に残っている参謀であったという。また事故の後遺症の頭痛を和らげるための飲酒により泥酔した勢いで上官の参謀に噛みつくこともあって、「神経露出狂」などとあだ名を付けられて煙たがられていた。後遺症の頭痛によるヒステリーで隊員を司令部に呼び出し竹刀で殴打したり、倉澤が陸軍航空士官学校の教官時代の教え子で、隊長なのに1人だけ帰還した第43振武隊の陸士今井光少尉に拳銃を渡し「部下だけ突入させて、隊長一人が残ったのは、職業軍人として恥ずかしくないのか?」と罵倒し自決まで迫った。今井は口惜しさのあまり卒倒して2~3日寝込んだという。この屈辱で今井は、振武寮から二式戦闘機で特攻出撃を命じられた牧甫少尉に、今井が司令の菅原や倉澤ら参謀を一室に集めるから、そこに牧甫が特攻してほしいと要請するなど(この時は出撃が中止となったので未遂)収容された隊員らは不満や恨みを募らせており、中には実際に拳銃で自決をはかった者もいたと、特攻出撃前に振武寮行きとなった片山少尉は耳にしている。 振武寮の日々は反省文の提出、軍人勅諭の書き写し、写経など精神再教育的なものが延々と続けられた。喜界島より救出された第22振武隊大貫健一郎少尉は、毎晩就寝前に軍人勅諭全文を毛筆で書き写して、翌朝の朝食時に提出するよう命じられた。酔ってがなり立てる倉澤に「そんなバカなことを書く(軍人勅諭を書き写すこと)よりも特攻機を下さい。亡くなった戦友たちが待っているんです。毎日軍人勅諭を書いて何になりますか」と反論したところ、泥酔していた倉澤と口論になり、倉澤から竹刀で気を失うまで殴打されたこともあった。大貫の様に振武寮にいた特攻隊員の多くは再出撃を希望し、倉澤に特攻機の受領を求めたが、倉澤から「お前らのように途中で帰ってくる卑怯者にやる特攻機はない。また同じように飛行機の故障だといって逃げて帰ってくるに違いない!」と罵倒され、特攻機を受領することは無く、再出撃はできなかった。 振武寮の向かいに居住していた住民は、「毎日校庭に出て、一人で軍人勅諭を暗唱する隊員がいた。日の丸の鉢巻を締めて、悲しそうな表情をしていた。」と目撃証言をしている。 第54振武隊小川光悦少尉によれば、振武寮に到着した夜に、K参謀(倉澤のことと思われる)から軍人勅諭を持っているか?と聞かれたが、遺品として実家に送ってしまっており、倉澤は自分の軍人勅諭を貸与し書き写しておくように命じている。小川はK参謀の厚意に恐縮し、その夜に短時間で軍人勅諭を筆写すると、晴れ晴れとした気分で熟睡したという。風呂は生徒用でなく舎監用の風呂に入浴したが、2~3人は入れる浴槽に鼻歌を歌いながらゆっくり入浴できた。翌朝からは懲罰的な作業は命じられず、本部前の振武寮とは別棟にて沖縄への航法の一般的な講義を受けている。 片山少尉によれば、終日正坐をして軍人勅諭を筆写させられていたのは重謹慎の処罰を受けていた者だけで、片山らは倉澤に小さな過失を見つけられては罵倒されただけであった。片山らはその後に明野教導飛行団に転属を命ぜられ、皮肉にも一度も特攻出撃することなく終戦まで生きながらえることとなった。以上のように収容された特攻隊員の中でも処遇に違いがあり、この処遇の違いを大貫は『我々(5月28日に喜界島より救出されて振武寮送りとなった28名)のように実際に出撃して途中で帰還した者』と『特攻基地まで行ったものの飛行機の故障などにより出撃そのものができなかった者』の違いと考えていた。 しかし、大貫と同日に入寮し、同じような処遇を受けた特攻隊員の中にも、第30振武隊の横田少尉のように『出撃そのものができなかった者』も含まれている一方で、第72振武隊として出撃しながら本隊と逸れ不時着し、後日振武寮行きとなった朝鮮人特攻隊員金本海龍伍長は、軍人勅諭筆写や罵倒などの差別的待遇は特にされなかった上に、1945年6月末に侍従武官の尾形健一大佐が第6航空軍を視察することが決まった際に、菅原から昭和天皇に奏上する特攻美談の原稿を書くように指示を受けた倉澤はその対象者として、振武寮に収容されている隊員の中から、金本を「朝鮮人でありながら、日本人以上に立派な隊員です。」と参謀長の藤塚止戈夫 中将に推薦している。後に倉澤の書いた金本称賛の原稿は新聞記事となって掲載された。以上の様に実際の処遇の違いの基準ははっきりしない。 特攻隊員らは九州帝国大学の助教授による元寇に関する講話も受けている。菅原も最初は一緒に受講していたが、途中で中座したため、残った特攻隊員らは居眠りをしている。 寮内の雰囲気は、「みんなが特攻隊員かと見まがうほど生気のない憔悴しきった顔をしていた」という証言や、「みな一日中部屋に引きこもりひっそりしていた。たまに部屋の中から小声で歌っている声が聞こえてきた。生気のない顔でこれがあの特攻隊員かと思うと悲しくなった」という証言がある一方で、「下士官連中は意外と明るく、元気が溢れるばかりであった。」とする証言もある。 倉澤の他にも第6航空軍から5名くらいの参謀が振武寮を訪れたが、隊員らに厳しかったのは倉澤だけで、他の参謀らの印象は薄かったという。大貫は、参謀らが特攻隊員らと悶着起こすのが面倒だから、厳しいことは言わなかったと振り返っている。倉澤も、大貫らの反抗的な態度に手を焼き、しばらくすると厳しくあたることはなくなっていった。
※この「収容者の生活」の解説は、「振武寮」の解説の一部です。
「収容者の生活」を含む「振武寮」の記事については、「振武寮」の概要を参照ください。
- 収容者の生活のページへのリンク