収容者へのスウェーデンの援助
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/11 05:07 UTC 版)
「白バス」の記事における「収容者へのスウェーデンの援助」の解説
スウェーデンは第二次世界大戦中の北欧諸国の中で中立を維持している唯一の国家であったが、その中立性は戦争の動向と共に変動した。スターリングラードの戦いでドイツが敗北を喫するまでスウェーデンはドイツに好意的であったが、スターリングラードの戦い以降はスウェーデンの政策は徐々に連合国軍寄りに変化してきた。 ハインリヒ・ヒムラーの専属マッサージ師であったバルト・ドイツ人のフェリックス・ケルステンはストックホルムに居住し、スウェーデン外務省とヒムラーの間で仲介者として活動していた。ヒムラーと信任厚い部下のヴァルター・シェレンベルクはドイツの敗戦を見据えており、西側の連合国との分離和平交渉の可能性を模索していた。この点でスウェーデンは有用な仲介者であった。ケルステンの助けを借りてスウェーデン外務省は1944年12月にノルウェー人の学生50名、デンマーク人の警察官50名とスウェーデン人3名を自由の身にすることができた。もしヒトラーがこれを知ったならば、これ以上の釈放が不可能になるおそれがあるため収容者釈放の条件の全貌は報道からは秘匿された。 ディトレフは1945年2月5日に今度は正式のノルウェーの要求として新たな覚え書きを送り、スウェーデンがベルリンへ赤十字社の代表団を送ってスカンジナビア人収容者に関する交渉を行い、事がうまく運べばスウェーデンの救援遠征隊を派遣するように懇願した。スウェーデンの外務大臣クリスティアン・グンテル(Christian Günther)はこれに賛成し、スウェーデン政府はスウェーデン赤十字社で2番目の地位に就いていたフォルケ・ベルナドッテに許可を与えた。 "抑留されているノルウェー人とデンマーク人収容者をスウェーデンかデンマークに移送する許可をドイツから引き出すよう尽力せよ。"" フォルケ・ベルナドッテは2月16日にベルリンへ飛び、外務大臣のヨアヒム・フォン・リッベントロップ、親衛隊保安部の長エルンスト・カルテンブルンナー、ヴァルター・シェレンベルク、ヒトラーの次席かつナチス・ドイツで2番目の権力者である親衛隊長官のハインリヒ・ヒムラーといったナチス指導者たちと会談を持ったが、当初は中立国スウェーデンへの収容者の移送について否定的な反応であった。これはスウェーデンがそれまで他のノルウェー人やデンマーク人にしてきたように収容者を警察官部隊として訓練する可能性があったからであった。ベルナドッテは仕方なくスウェーデン赤十字社が支援できるように1箇所の収容所に収容者を集めるという次策を提案した。ベルナドッテはヒムラーに約1万3,000名というスカンジナビア人収容者の推定数を述べたが、ヒムラーはせいぜい2,000から3,000名だと主張した。 2月21日のシェレンベルクとの2回目の会談でベルナドッテは、スカンジナビア人収容者を1箇所の収容所に集めるという提案を了承するヒムラーの言質を得た。ベルリン滞在中にベルナドッテは、ディドリク・アルプ・サイプ(Didrik Arup Seip)、コンラート・フォークト=スヴェンセン、ヴァンダ・ヨルト(Wanda Hjort)とビョルン・ヘーゲル(Bjørn Heger)といった「クロイツ・グループ」とも幾度かの会合を持った。ベルナドッテがヒムラーに提案した次策はヘーゲルが用意したものであった。
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