創業から第2次世界大戦まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 14:50 UTC 版)
「阪急百貨店」の記事における「創業から第2次世界大戦まで」の解説
1920年11月1日に、5階建ての阪急梅田ビル1階に東京・日本橋の老舗呉服店系百貨店・白木屋を招致して白木屋梅田出張店が開店した。55坪の店舗で食料品や日用雑貨の販売を行わせ、11月5日、2階に阪急直営である大衆食堂の阪急食堂を開設したのが始まりである。 この白木屋の店舗を売上歩合制の家賃として売上実績のデータを入手し、そのデータから梅田駅(現在の大阪梅田駅)でのターミナルデパート(=ターミナル駅直結の百貨店)の可能性を固く信じた小林一三は、契約期間満了を理由に白木屋との契約を解除して1925年6月1日に阪急梅田ビル2・3階に自社直営の食料品や生活雑貨中心のスーパーに近い形態の阪急マーケット、4・5階に直営の阪急食堂を移設して開業し、直営でのターミナルデパートの第一歩を踏み出した。 その後、梅田駅ビルを地上8階地下2階に全面改築して大幅に拡張し、敷地面積328坪で延べ床面積3,280坪という百貨店に相応しい規模の店舗を作って1929年4月15日に鉄道会社直営の電鉄系百貨店として阪急百貨店を開業した。 この開業を日本初のターミナルデパート(ターミナルデパートは欧米にない日本独特のもののため同時に世界初となる)とする見方も多い。これに対して、現・近鉄大阪上本町駅に設けられた三笠屋百貨店を最初のターミナルデパートとする見方もあるが、当店は鉄道会社が運営する電鉄系百貨店の嚆矢といえる。東急百貨店など全国の大手私鉄が阪急百貨店に倣ってターミナルデパートを設置し、民営化後のJRもジェイアール名古屋タカシマヤやジェイアール西日本伊勢丹など既存大手百貨店と協力して百貨店を出店するなど、その後の鉄道会社の経営手法(=多角化)に対して大きな影響を与えた。鉄道会社が百貨店を自ら経営する以外にも、南海難波駅(南海ビルディング)の髙島屋大阪店(本店)やJR博多駅(JR博多シティ)で当社が運営する博多阪急など、駅ビルのキーテナントとして百貨店を誘致する例もある。 開業直前の1929年4月13日・14日掲載の開店新聞広告に「どこよりもよい品物を、どこよりも安く売りたい」とのコピーを入れたように開業当初は大衆向けの路線を採り、沿線の行楽に向かう人々への弁当販売を手がけるなど、今日のターミナルデパートの雛形となった存在としても知られる。 経営の中心であった7・8階の大食堂は、高層階からの眺望や食券方式などの目新しさにより、人気を博した。看板メニューとして当時高級品だったライスカレーをコーヒー付き25銭で提供するなど、ランチも名物として話題となった。 開業直後に襲った昭和恐慌の時代に、ライスのみを注文してテーブルに備えられていたウスターソースをかけただけで食べるソーライスが流行した際は、他の店舗や当店の大食堂の店員が締め出しを図ろうとした。しかし、創業者の小林は「今は貧しいが、やがて結婚し子供ができる。その時ここでの食事を思い出し、家族で来てくれるだろう」と考えて「ライスだけの客歓迎」と張り紙をさせ、福神漬けまで付けて提供するなど、話題となった。 開業当初は雑貨の品揃えは悪くなかったものの、知識や経験の不足により呉服類が見劣りがして駅の賑やかさゆえにやや落ち着かないとされ、売上高も1日平均約2万円だった。しかし、1931年11月に敷地面積628坪で延べ床面積6,191坪として1日平均3.1万円の売上を上げ、1932年12月に延べ床面積12,000坪で1日平均5万円の売上へと阪急梅田ビルの増築工事を完成させて増床を行って大衆路線が受けたことと合せて売上を順調に伸ばし、1936年に阪急梅田ビルの第4期増築工事が完成して売り場面積53,435m2にまで拡大した。 1932年12月の増床時に古美術品売場と茶室福寿荘開設が行われるとともに大阪で指折りの古美術店10店を集めて組織した充美会を結成してノウハウの不足を補って美術品の取り扱いの第一歩を踏み出した。 1934年9月に洋家具売場の一角に洋画陳列場を開設して春秋会洋画展を開設して洋画の取り扱いを始めるなど比較的早くから美術品の取り扱いを充実させていった。 1937年発行の機関誌「阪急美術」1号は、小林が「買つて置いて必ず損のないもの」と記述するように、これら美術品の販売でも百貨店全体の大衆路線が展開され、サラリーマンが購入できる美術品が取り扱われた。 1934年に直営製菓工場とアイスクリーム工場を開設して自社ブランドの菓子類の販売に乗り出すなど開業が比較的早い時期から食品関連の自社生産を開始するなど食堂から発展した百貨店らしい事業展開も行っていった。 一般の小売店による百貨店規制運動に対応して1933年4月20日に創立総会を開催した。設立の認可申請をした日本百貨店商業組合に当店も設立時から参画していて、同組合は支店や分店の新設を制限する営業統制案を設立総会前日の19日に決定していた。 この日本百貨店組合による営業統制規程第三条を受けて、そごうは阪神元町食堂の営業委託がその規定に抵触するとして断った。それにも関わらず、阪神急行電鉄は駅に食堂を付属させることは当然認められるサービスだと主張して神戸・三宮に建設していた駅ビルへの食堂設置などを強行し、1936年4月11日に阪神急行電鉄神戸駅に完成した神戸阪急ビル内に神戸支店を開業して多店化に乗り出した。 1937年5月1日に豊中駅構内東改札口に配給所という小型店を開業した。同所で受けた注文を直ちに梅田の百貨店に連絡し、30分ごとに電車便を使って商品を配送して受注から1時間後に商品を届けた。これが好評だったため、同年12月4日までに同様の店舗を住吉、芦屋、帝塚山など合計38ヶ所展開して沿線での需要に応えた。 1938年1月1日に施行された百貨店法(第1次)により禁止されるまで、鉄道利用者の利便性を考慮して夜間営業も行ったが、同法により午後7時までに営業時間が規制されて夜間営業を廃止した。
※この「創業から第2次世界大戦まで」の解説は、「阪急百貨店」の解説の一部です。
「創業から第2次世界大戦まで」を含む「阪急百貨店」の記事については、「阪急百貨店」の概要を参照ください。
- 創業から第2次世界大戦までのページへのリンク