創業から開通まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 20:21 UTC 版)
かつて新潟市周辺の信濃川・阿賀野川下流域では「河川蒸気」と呼ばれる汽船による水運が盛んに行われていた。信濃川の支流で、現在の燕市から新潟市黒埼地区の間、白根地区を挟んで西側を分流する中ノ口川にも河川蒸気が運航されていた。しかし1922年(大正11年)に大河津分水路が開通し、信濃川下流域の水量は大幅に減少。更に取水堰の陥没によって水位が減少して水運が困難となったため、その代替として建設されたのが、当時の新潟電鉄線(にいがたでんてつせん)である。越後大野以南はほぼ全線に亘って中ノ口川の左岸側に沿っていたことからも、河川蒸気の代替手段であったことが窺える。 1933年(昭和8年)4月1日の東関屋 - 白根間を皮切りに順次開通し、同年8月15日に全線が開通した。燕市から西蒲原郡中之口村、月潟村、味方村、黒埼町と、対岸の白根市から新潟市街地を結ぶ重要な交通として、沿線住民の足となり、また周辺町村からは米や野菜などの農作物が、燕からは金物・食器などが輸送され、沿線住民からは「電鉄」の愛称で親しまれた。新潟電鉄は1943年(昭和18年)暮れ、戦時統合により新潟合同自動車などと合併し、会社組織は新潟交通となった。
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