創業から関東大震災まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 09:46 UTC 版)
雑賀衆(読みは「さいが」ではなく「さいか」)の末裔とされる岡本傅兵衛が幕末の1867年(慶応3年)6月に西浦賀(現在の神奈川県横須賀市)の高砂屋呉服店の丁稚奉公から独立して、25両の貯蓄を元手に呉服店を開いたのが始まりである。 海軍の基地設置(横須賀鎮守府、横須賀海軍工廠)で繁栄し始めた横須賀の将来性を見込んで、妻の兄・石渡治郎右衛門が横須賀の磯崎(後の元町で現在の横須賀市本町)に所有していた長屋の一角に1872年(明治5年)10月に雑賀屋呉服店を開業し、浦賀の店舗を妹に譲って横須賀での営業に専念した。 こうして浦賀の店を完全に分離したことなどもあり、さいか屋の歴史はこの横須賀での開業から始まることとされているが、横須賀店の開店当初は浦賀店との商品の交流も非常に多かったため、店員などが重い荷物を背負って1日2往復したとの話も残っている。 1878年(明治11年)に最初の店舗に近い磯崎に店を新築したものの2年足らずで火災で焼失したため、新たに土蔵造り2階建てで立て直して復興させた。 1905年(明治38年)10月に創業者岡本傅兵衛が死去した際に息子の清次郎が先に死亡していたため、店舗などの財産は当時9歳だった孫の岡本傅之助が引継ぎ、実際の事業の運営は支配人永島延吉が引継いで持続・発展させた。 1912年(大正元年)に支配人の永島延吉が急逝したため、岡本傅之助は1913年の中学校4年生に進級時に退学して店の運営に専念し、事業の維持・発展に努めることになった。 1920年(大正9年)に横須賀海軍工廠のガントリークレーン延長に伴う立ち退きで2年前に建てたばかりの店舗からの移転を余儀なくされ、旭町(現在の横須賀市本町)の大忠呉服店跡(後の横浜銀行横須賀支店)に移転し、旭町通り(現在の国道16号)からどぶ板通りまで通り抜けが出来る奥行き約26間、間口約8間の店舗を構えた。この通り抜けられる店構えが市民に受けて、評価が高まったといわれている。 1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災で店舗が全焼し、商品を含めて当時の額で約40万円もの被害を受けた。このため、当分の間は店員の給与を半額とするなどの対応を盛り込んだ復興五カ年計画を立てて、大滝町15番地(現在の大滝町1丁目10番地)に焼けたトタン板などの廃材を使ってバラックの仮店舗を建設して復興に向けて第一歩を踏み出し、復興計画を予定よりも早く達成した。
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