作品の特定
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ティツィアーノの真作を判断するのが困難な理由として、その死後に他の画家たちによって最終的な完成を見た作品があることと、当時からティツィアーノの評価があまりにも高かったことから、他の画家の作品であってもティツィアーノ作の絵画であるとした間違った記録が残っていることがあげられる。残っている絵画に関する当時の記録は教会や王侯からの依頼記録が大部分で、一般家庭向けのジョルジョーネの小作品に関するような記録はほとんどない。他の画家によるこういった小作品の制作はジョルジョーネの死後数年間続けられ、さらには16世紀半ばごろから精巧な贋作が描かれるようになった。 作品の特定における主要な記録はヴェネツィア貴族マルカントニオ・ミキエルが1525年から1543年に書いた『美術品消息』で、12点の絵画と1点のドローイングについてジョルジョーネの作品であるとしている。このうち現存する5点の絵画については、多くの美術史家から間違いなくジョルジョーネの作品であると認定されている。その5点の絵画とは『テンペスタ』、『三人の哲学者』、『眠れるヴィーナス』、『矢を持つ少年』、そして異論も出ているが『フルートを持つ歌手』である。ミキエルは『三人の哲学者』はセバスティアーノ・デル・ピオンボが、『眠れるヴィーナス』はティツィアーノが、それぞれジョルジョーネの死後に完成させたと書いている。『眠れるヴィーナス』はティツィアーノが背景の風景画を完成させたと現在の美術史家からも認められているが、『三人の哲学者』はデル・ピオンボに加えてティツィアーノも関係しているのではいかと考える美術史家もいる。『テンペスタ』はジョルジョーネだけの手で完成させたと広く認められている唯一の絵画である。その他にジョルジョーネの生まれ故郷カステルフランコの聖堂にある『玉座の聖母子と聖リベラーレ、聖フランチェスコ』と呼ばれることもある『カステルフランコ祭壇画』もジョルジョーネの真作であるという評価が高い絵画だが、ドイツの倉庫に描かれていた祭壇画の一部だったとする説もある。ウィーンの美術史美術館所蔵の『ラウラ』には絵画裏面ではあるが、唯一ジョルジョーネ自身の署名と制作日付が残されている。フィレンツェのウフィツィ美術館所蔵の『モーゼの火の試練』ともう1点の作品も、初期のジョルジョーネの作品であろうといわれている。 ジョルジョ・ヴァザーリの著作『画家・彫刻家・建築家列伝』でジョルジョーネ作とされている絵画の検証はより複雑である。1550年の初版では、現在ヴェネツィアのサンロッコ同信会館が所蔵する『十字架を担うキリスト (en:Christ Carrying the Cross (Titian))』がティツィアーノ作であると書かれているが、1568年に最終的に完成する第二版では1565年の時点ではジョルジョーネ作、1567年の時点ではティツィアーノ作となっている。ヴァザーリは1565年から1567年にかけてヴェネツィアを訪れており、このときに異なる二種類の情報を入手しているのではないかといわれている。ジョルジョーネの作品かティツィアーノの若いころの作品かで議論となり判断が出来ないのは、ルーブル美術館所蔵の『田園の奏楽』も同様で、2003年には「ルネサンス期のイタリア美術品の作者の特定で、もっとも激しい議論の的となるのはこの問題だろう」といわれたこともある。 『田園の奏楽』はプラド美術館が所蔵する『聖母子とパドヴァの聖アントニウスと聖ロクス』と作風が非常によく似ており、チャールズ・ホープによれば「ティツィアーノではないかといわれることが多い絵画で、何度も指摘されているように初期のティツィアーノの作品と酷似していることは明らかだ。ジョルジョーネ作とするのは無理があるように思える。しかしながら、専門的知識を駆使し、今までに知られているティツィアーノの経歴を精査したとしても、これらの作品がティツィアーノの初期の作品であると断言することは、誰にも出来ないだろう。『田園の奏楽』やそれによく似た絵画の作者は二人のどちらでもなく、より無名のドメニコ・マンチーニにしないかと提案したいくらいだ」としている イタリア人版画家ジュリオ・カンパニョーラ(1482年頃 - 1515年頃)が残した版画も、ジョルジョーネとティツィアーノの作品の判断材料に使用されることがある。カンパニョーラはジョルジョーネ風の版画の制作者として著名で、ジョルジョーネとティツィアーノの絵画をモデルとして多くの版画を制作したのではないかと考えられており、実際にカンパニョーラが残した版画に二人の名前が記載されているものも存在している。 夭折したジョルジョーネの画家としてのキャリアは短いが、キャリア初期の絵画で「アレンデール・グループ (Allendale group)」と総称される数点の作品がある。ワシントンのナショナル・ギャラリーが所蔵する『羊飼いの礼拝』の英語名称『アレンデールの降誕 (Allendale Nativity)』から命名されたもので、このグループには同じくナショナル・ギャラリー所蔵の『聖家族』、ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する『東方三博士の礼拝』が含まれ、さらにワシントンの『羊飼いの礼拝』に酷似した、ウィーン美術史美術館所蔵の別バージョンともいえる『羊飼いの礼拝』も含まれることがある。アレンデール・グループの絵画はセットとして扱われており、全てジョルジョーネの真作とみなされることが多いが、逆に全てジョルジョーネの作品ではないとされることもある。ワシントンの『羊飼いの礼拝』は1930年代に大論争の的になった。著名な画商ジョゼフ・デュヴィーン (en:Joseph Duveen, 1st Baron Duveen) が『羊飼いの礼拝』をジョルジョーネの真作だとしてアンドリュー・メロンに売却したが、デュヴィーンの友人でルネサンス絵画の専門家だったバーナード・ベレンソンがこの絵画はティツィアーノの初期の作品だと強く反論したのである。ベレンソンはジョルジョーネの真作を精査し、その数を12点程度とする説に重要な役割を果たしたことがある学者だった。 ジョルジョーネは存命時から高く評価され続け、イタリア屈指の芸術家という名声を受けていたにもかかわらず、多くの絵画がジョルジョーネ作ではなく別の画家による作品であるとみなされてきた。エルミタージュ美術館の『ユディト』は長い間ラファエロの作品と見なされており、『眠れるヴィーナス』はティツィアーノの作品とされていた。19世紀の終わりにジョルジョーネの再評価の動きが大きくなり、逆に他の画家の絵画がジョルジョーネの作品であると誤認識されるようになってしまい、とくに肖像画が大量にジョルジョーネの作品だと認定された。1世紀前にジョルジョーネ作だと認定された絵画のうち現在でもジョルジョーネ作と認められている作品は皆無ではあるが、ジョルジョーネの絵画を巡る論争は現在でも当時に増して激しくなっている。現在のこのような論争は背景に風景が描かれた作品と、肖像画の二つに大別できる。アメリカの美術史家でコロンビア大学教授デヴィッド・ロサンドの1997年の著書によれば「アレッサンドロ・バラリンの急進的な真作認定(1993年のパリでの展覧会)とマウロ・ロッコの著作(1996年)によって、ますます致命的なまでに混乱を極めている」としている。2004年にウィーンとヴェネツィアで、2006年にワシントンで開催された大規模な展示会が、美術史家たちにジョルジョーネ作かどうかが争点となっている絵画を一度に目にする機会を与えた(外部リンク参照)。
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作品の特定
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19世紀から20世紀半ばに美術史家たちはさまざまな作品をマルミリオンのものだとして追加してきた。しかし美術史家アントニー・シュライヴァーが、マルミオンの作品とされているなかには別人の作品が含まれているのではないかと指摘し、1969年以降作品の見直しが開始される。マルミオンの手によるとされている作品は、装飾写本とパネル絵の合計で最大40作品ほどになるが、マルミオンの生涯や世評が記載されている当時の記録と照合すると全てがマルミオンの作品とはいえないことが分かってきた。しかし照合作業ではっきりしたこともあり、ヴァランシエンヌ近くのサン・オメールの修道院長で、聖ベルタンの祭壇画の依頼主でもあるギヨーム・フィラートルは、ペテルブルクの『年代記』などほかの写本もマルミオンに注文したことが明らかになった。マルミオンがフィリップ3世の命令で、1467年から1470年にかけて聖務日課書を作成した記録がある。現在メトロポリタン美術館に所蔵されている細密画は、この聖務日課書から散逸したものである。
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