作品の特徴など
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作品の多くが主人公である古橋自身もしくはそれに寄り添った視点で描かれている。作中、古橋が失神する場面の中には、古橋の意識に沿ってそれに相当する部分を空白にした箇所がある(同時期に執筆された筒井康隆の『虚人たち』にも類似の描写がある)。読者の時間と作中時間を一致させた(つまり猛烈にテンポが遅い)実験小説でもある。 古橋のいい加減さを示すため、彼の書いた小説を「引用」する場面が複数あるが、同じタイトルでまったく別の内容となっているものがあり、本作自体が「不整合」をはらんでいる。 吉里吉里国の歴史についてその始まりとして「1971年」という年が挙げられているが、その理由については説明されていない。 梅原猛と小田島雄志の「対談 吉里吉里国を歩く」という小冊子が挟まれていた。小田島は「井上ひさしの作品の中にある「笑い」の質は大きく分けて三種類あります。まず日本語を活性化するものとしても私も大いに支持している言葉遊び、次に自分自身に対するものも含めたカリカチュアの面白さ、そしてもう一つは一種のブラック・ユーモア的な、我々に見えなかった現実を裏返しにして見せる恐い笑いです」と分析している。 文庫本では3冊にわたる長編作品ながら、最初の単行本は当時としても珍しい上下2段組みの大部な一冊本として刊行された。
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作品の特徴など
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「北守将軍と三人兄弟の医者」の記事における「作品の特徴など」の解説
賢治は西域を舞台とした童話を複数残した(他に「雁の童子」など)が、その中で本作だけが生前に発表された。賢治は実際に西域を訪れたことはなかったものの、上記の『唐詩選』の翻案にも見られるように、それなりの知識に基づいた上で想像をふくらませてこれらの作品を描いた(ほかに大谷探検隊に関する報道などが影響として推測されている)。 現存する最初の形態(「三人兄弟の医者と北守将軍」の最初の形)ではごく普通の散文体で文章が書かれている。10年にわたる改稿の中で韻文体を経て、現在見られるリズムを伴った散文体の作品を完成させた。 本作が『児童文学』に掲載されたのは、宮城県出身の詩人で賢治と親交のあった石川善助が佐藤一英に賢治の童話を推挽したことがきっかけになったといわれている。このあと賢治は『児童文学』の第2号に「グスコーブドリの伝記」を発表、さらに第3号に「風の又三郎」を掲載する意向であったが雑誌が休刊となり実現しなかった。 なお、作中の詩が『唐詩選』の翻案であることは、裁判官で文芸評論の分野でも活躍した倉田卓次が戦後の早い段階で指摘していたが、広く知られるようになったのは1980年代になってからである。 「四 馬医リンプー先生」において、患部である「馬のはうきのやうな尻尾」をとるのは通常の版[どれ?]で「バーユ―将軍」となっているが、新潮文庫版では、最終手入れの原稿に「するとリンポー先生は」とあるのを参照し「リンプー先生は」となっている。なお、本作の初期形である『三人兄弟の医者と北守将軍』では、「将軍(「プラン・ペラポラン」とされるが異綴が多数ある)」は「兵隊や人民の衛生や外科に尽くし」たという台詞があり、「草木」の医師であるペンクラアネイによって自身の顔についた「猿をがせのやうなもの」を、落とす治療を受けた後、同様のものが付いた部下の兵士(この段階の原稿では99万人であった)へ、その治療法を指示する描写がある。
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