企画から放送まで
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「Dr.スランプ アラレちゃん」の記事における「企画から放送まで」の解説
東映動画での『Dr.スランプ』の企画はテレビ朝日で放送の『一休さん』が長期にわたる放送で視聴率が低迷したことに始まる。視聴率低迷を問題視したスポンサーが『一休さん』に代わる後番組を局に要望し、テレビ朝日は東映動画に企画の提出を求めた。いくつかの企画書が作成されたが、その中の一つが東映動画企画部に1980年に配属されたばかりの高橋尚子が推薦し、企画書を書くことにもなった『Dr.スランプ』だった。テレビ朝日側も気に入りスポンサーの理解も得たことから、アニメ化権の交渉に乗り出すが、原作サイドからの了承を得られずに断念した。『一休さん』の放送は継続されることになって1982年まで続き、後番組は『Theかぼちゃワイン』になった。なお、高橋は本作の第2エンディングテーマの「アラレちゃん音頭」をペンネームで作詞している。 東映動画社長の今田智憲は、『Dr.スランプ』を企画した高橋尚子の東映動画入社にあたって後押しており、高橋作成の『Dr.スランプ』の企画書を見て興味を抱いて原作を読み、アニメ化を指示する。東映動画はフジテレビと旭通信社(現・ADKホールディングス)に企画を持ち込んだ。 しかしテレビ朝日のときと同じく障害となったのが集英社サイドだった。前述のように『少年ジャンプ』編集長の西村繁男はテレビ化に強い不信感を抱いて警戒していた。というのも『少年ブック』時代、『スカイヤーズ5』の際に川崎のぼるの資質に合わない内容とテレビ局の意向に振り回されたことが苦い経験になっていたからだった。それに加えて、アニメを見ればストーリーが分かるので読者が雑誌離れを起こしかねないこと、アニメが終了したときにはそれに引きずられて原作の人気も萎みかねないこと、担当編集者がアニメになりやすいジャンルや方法論をマンガ家に強要する本末転倒が起きることも懸念していた。 当時フジテレビ編成局長の職にあった日枝久が3度も『少年ジャンプ』編集部を訪ねてオファーを続け、テレビ局の局長級幹部も繰り返し訪れたことで、ついには集英社側の経営陣もことの成り行きを傍観していられなくなり、最終的には「もはや、雑誌編集部とテレビ局のアニメ部門の問題ではなく、集英社とフジテレビの全体の問題である」として、事実上の経営判断という形で熱意に応えフジテレビでのアニメ化を許諾した。 アニメ化が決まってからも、編集長の西村は主導権を握るべくマンガ家の著作権と雑誌の編集権の徹底を求め、『Dr.スランプ』担当編集者の鳥嶋和彦はその意を受けて、契約・台本・キャラクターのチェックをし必要があれば修正を要求して、『少年ジャンプ』主導のアニメ化システムを作り上げていった。 本作は、企画の七條敬三が『フクちゃん』に倣い、本作の人気キャラクターであるアラレの名前をタイトルに加えようと提案。中には「Dr.スランプ」を外して「アラレちゃん」というタイトルにする案もあったが、原作タイトルにアラレちゃんを付けた『Dr.スランプ アラレちゃん』に決定した。
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企画から放送まで
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「アメリカン・ダッド」の記事における「企画から放送まで」の解説
アメリカン・ダッドのアイデアはいつ生まれたのかと尋ねられた際、マクファーレンは「2000年アメリカ合衆国大統領選挙の時、私とウェイツマンはブッシュ政権(en:Presidency of George W. Bush)に対し、文句を言いたくなるほど腹を立てていましたが、その感情をクリエイティブで希望の持てるものに作り替えようという考えに至りました。」と答えた。2005年2月上旬、バーカーは「1年半ほど前から、セスが僕を呼んでマットと3人で、保守的なCIAエージェントと、その娘であるリベラルな女性を題材とした番組を作らないかと持ちかけてきました。その計画は我々にとってうってつけのもので、万事順調にいきました。」と話した。2003年9月14日、バラエティは、フォックス放送がアメリカン・ダッドのパイロットを注文し、もしうまくいけば早くて2004年秋に放送することを報じた。その一方で、フォックスは新しい大人向けギャグアニメのラインナップ開設に向けて動き出していた。 アメリカン・ダッドはシーズン途中からの放送となり、第1話である "Pilotは、第39回スーパーボウル開催から間もない2005年2月6日に放送されただが、第1シーズンの残りの回はAnimation Domination の開始に合わせ、2005年5月1日になって初めて放送が始められた。当初、この番組は、打ち切りになったファミリー・ガイ(1999-2002)の代わりという形で放送されていた 。ところが、アメリカン・ダッド放送開始から3か月後になってファミリー・ガイの放送が再開された。苦境に立たされたアメリカン・ダッドには、個性を確立し、似たような番組との差別化を図らなくてはならないという課題が残された 。そこで、制作統括としてのマクファーレンの役割を大きく減らし、代わりにバーカーとウェイツマンの二人がその仕事に大きく携わることで、その課題を解決することができた。 最初のころ、この番組の評判は好調だったが、視聴者・批評家双方へ受け入れてもらうのに苦戦した 。『ファミリー・ガイ』およびその作者であるマクファーレンの人気から、『アメリカン・ダッド』が『ファミリー・ガイ』の二番煎じであるという先入観が放送前から出てきたためである。この番組をファミリー・ガイの味気ない二番煎じだと酷評した批評家も多く、ワシントン・ポストはフォックス幹部が『ファミリー・ガイ』を復活させたことに触れたのち、「…だが、同じ局幹部はマクファーレンに30分のアニメ新番組枠も与え、『アメリカン・ダッド』というくだらない番組が始まることになった。(中略)『アメリカン・ダッド』は見た感じ『ファミリー・ガイ』と大差がないが、時に攻撃的ながらも常に気の利いている『ファミリー・ガイ』には遠く及ばない」と書いたほどだった。その間、マクファーレンは『ファミリー・ガイ』放送再開に向けて動き出していた。 実際のところ、初期のアメリカン・ダッドはファミリー・ガイと言うより、コメディドラマen:All in the Familyをアニメ化したような感じに近い 。政治風刺ものであるいずれの番組も、保守派の頑固な父(スタンはAll in the Familyの en:Archie Bunkerに近い)とリベラルな娘(ヘイリーはen:Gloria Stivicに近い)との間に生じる、主義の違いによる対立を描いている。また、娘には同じくリベラルな恋人がおり、のちに結婚し、結婚後は娘の両親と同居する点も共通している(ジェフはen:Michael Stivicに近い)。 以上のことから、アメリカン・ダッドの原型は All in the Familyからインスパイアを受けているのではないかと言う指摘がされている。 初期の『アメリカン・ダッド』において、マクファーレンはこの番組をファミリー・ガイと並行したプロジェクトとして考えていた。マクファーレンにとってこの番組はついでであったため、この番組への理解が不十分だった。当時の彼はあまり番組に入れ込んでおらず、冷やかしついでに参加したようなものだとみなされた。バーカーとウェイツマンも番組とその方向性についての解決策を必死に見出そうとしていた 。 何シーズンか放送された後、この番組は少しずつ独自のアプローチとアイデンティティを確立していき、当時放送されていたほかの番組との違いをはっきりさせていったシーズンが進むにつれ、似たような番組との違いははっきりしていき、ついにはプライムタイム枠一奇抜な番組と称されるまでに至った。この番組の個性となったのはシュールレアリスムの重用である。シリーズが進むにつれ、マクファーレンは2人が独自の表現方法を確立していったことに気付いた。さらに、彼はこの番組が『ファミリー・ガイ』と対照的な性格を持っており、それが視聴者に受け入れられていることにも気づいた 。 最初の数シーズンの後、マクファーレンは『アメリカン・ダッド』を完全に理解して受け入れ、自分がこの作品の大ファンであると考えるようになった。マクファーレンは自身のツイッターのフォロワーたちの間で、アメリカン・ダッドおよびマクファーレンが演じたロジャーが熱狂的な人気を集めていることに注目し、この番組に多大な時間と労力を費やしたと考えるようになり、ここ最近(2012年秋の時点)のシーズンはこれまで以上にその量が増えたと考えたと話している。アメリカン・ダッドのコメディのスタイルを説明するに当たり、バーカーは『ファミリー・ガイ』や『サウスパーク』よりパロディの度合いが少ない一方、エゴや満足といった全ての人間に当てはまる状態や感情に由来するものが使われており、それが番組の人気を支える秘訣であることを話した。
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