企画から放映までとは? わかりやすく解説

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企画から放映まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 08:38 UTC 版)

ドラえもん (1973年のテレビアニメ)」の記事における「企画から放映まで」の解説

本作企画日本テレビ動画社長新倉雅美(別名・渡辺清。以下「新倉」)によって立ち上げられたと推測されている。なお、新倉当初硬派任侠物の少年次郎長三国志』のアニメ化切望したが、企画頓挫つなぎ番組として本作放映されることになった経緯がある。 一方当時小学二年生編集長だった小学館井川浩は、新潟アニメ制作会社制作するテレビアニメ原作推薦するよう日本テレビプロデューサーから頼まれ人気高かった『ドラえもん』と『かあさん星』(谷ゆき子作)を推薦したことを証言しているほか、日本テレビプロデューサーだった川口晴年は、チーフプロデューサー藤井賢祐企画提出した後に、読売新聞から派遣され専務会議日本テレビ動画制作することを有無を言わさない形で決めた証言している。 これに関して制作担当真佐美ジュン本名下崎闊。以下一除き「真佐美」)は、日本テレビ動画本作放送枠を取る時に周り反感を買うようなやり方をした」ことや前身東京テレビ動画時代新倉日本テレビプロデューサー藤井賢祐と金銭的な不祥事起こしていたことなどから「日本テレビ心ある人は信用してなかったみたい。だから会社そのようになった時の反応早かったですね」と同人誌インタビュー語っている。また日本テレビ動画元関係者は、日曜ゴールデンタイム本作入れるのに「本来は別の番組決まっていたのを、無理やりねじ込んだ」という噂を聞いたことがある証言している。 本作制作進行スケジュール管理など実務全般取り仕切った制作主任の真佐美本作では本名の「下崎闊名義参加)は、1972年手塚プロダクション退社後、日本テレビ動画グロス請け担当していたスタジオTAKEテレビアニメモンシェリCoCo』を手伝った縁から日本テレビ動画佐々木一プロデューサー知り合った。真佐美によると日本テレビ動画では『モンシェリCoCo』の後作品として企画のひとつに『ドラえもん』があり、1972年7月以前には『ドラえもん』企画が既に存在していたという。 『ドラえもん』企画絞られた頃、真佐美中野サンプラザ近くの高級焼肉店で、佐々木から本作制作担当依頼された。この時、初め原作漫画読んだ佐美は、本作子供たち夢を与える内容であると感じアニメ世界入ってから常に「子供夢のある作品を」と思い続けていた真佐美は「今後このスタジオから、将来アニメ界を背負っていくような人材育てていこう」と将来の夢佐々木語り合い快く協力することを約束1972年11月日本テレビ動画入社した。 真佐美演出担当したパイロットフィルムメインとなるヘリトンボで空を飛べるという、夢のシーン紹介では、作画スタッフらも童心返って一生懸命昼夜問わず作り上げたシーンだったと回想する。なお、局側の都合放送3ヶ月前に企画急遽決定したため、真佐美予定より早くパイロットフィルム作り上げ完成後にはスタジオ近く幼稚園試写を行うなどして子供達反応事前に確かめていたという。 なお、真佐美は「当時『ドラえもん』テレビアニメ化するのは相当な冒険であって今でこそ国民的な漫画となっているが、当時はまだ原作漫画単行本出ておらず、子供でも『ドラえもん』読んでいたのは小学館の学年誌買ってもらって一部の子供だけであり、他の(大手週刊少年漫画雑誌連載テレビアニメ化とはわけが違った」と述べている。また藤子不二雄FCネオ・ユートピア編集部武藤晃も「この頃『ドラえもん』立場を表すなら『藤子不二雄ランド』が刊行される前の『バウバウ大臣みたいなもので、先輩の『オバQ『パーマン』怪物くん』などと比べて明らかにマイナーな存在であることは否めなかった」「常識考えればそのような作品アニメ化するのは異例とも言えるが、その少し前に放映されていた『新オバケのQ太郎』のヒットの影響大きかったのかもしれない。勿論『新オバQ』がヒットしたからといって、同じ作者別の作品簡単にアニメ化される程この業界甘くはないだろうから、社長新倉雅美さん達の先見の明その後努力実を結んだであろう」と推察している。 メインスタッフには旧虫プロダクション出身メンバー集いアニメ制作日本テレビ動画東京および新潟スタジオと、いくつかのグロス請けスタジオローテーション組んでスタートしたグロス請け先は、スタジオジョーク、スタジオ留美アド5、トップクラフトなどのローテーション当初予定されていたが、放送開始前後スタッフ変更あったようで、確定とは行かなかった模様である。なお、真佐美個人的にラッシュフィルムを保管している第21回Bパートお天気ボックスの巻」は、後に第2作以降制作請け負うことになるシンエイ動画前身であるAプロダクション外注されていたことが近年判明している。 チーフディレクターは後にスタジオぴえろ創設する上梨満雄であった上梨選んだ佐美は、その理由として「人柄他人面倒見良く穏やかだ一つ作品入り込む妥協許さない」と述べており、日本テレビ動画若手育てよう将来の夢語ってチーフディレクター迎え入れたという。また真佐美は「一人演出家全体の流れ統一したほうが原作者意向反映出来るため。そして全体任せられて、若手で力のある演出家選びたかったから」とも語っている。しかし実際に原作者からの注文要望はほとんどなかったとされ、上梨最後まで原作者と会うことはなかった。 当初ドラえもんの声は富田耕生担当した現在放送中アニメ第2作とはイメージ異なるが、当時スタッフは、ドラえもんというキャラクターに「世話好きなおじさん」というイメージ抱いていたことから、動物役なども多く演じていた富田初めから配役するよう決めていたという。 アニメ第2作以降比較して色指定コントラスト穏やかだった。これは、1973年当時アニメ多く一度35mmネガフィルム撮影しその後16mmポジフィルム転写してテレシネスコープで放映するという物だったのに対し本作直接16mmフィルム撮影していたことにも起因する。なお、キャラクターの声を担当した野沢雅子肝付兼太は後に本作モノクロ作品だと述懐しているが、実際にカラー作品である。 1973年4月1日事前に制作されていたパイロットフィルム流用し再構成した「出た!ドラえもんの巻」を第1話として放映開始された。

※この「企画から放映まで」の解説は、「ドラえもん (1973年のテレビアニメ)」の解説の一部です。
「企画から放映まで」を含む「ドラえもん (1973年のテレビアニメ)」の記事については、「ドラえもん (1973年のテレビアニメ)」の概要を参照ください。

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