レイテ決戦
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詳細は「フィリピンの戦い (1944-1945年)」を参照 日本軍に占領されていたフィリピンの奪還については、アメリカ陸軍は「戦略上必要なし」と判断しており、アメリカ海軍もそれに同意する意見が多かった。統合参謀本部は、マッカーサーと東京への進撃スピードを張り合っていたアメリカ太平洋艦隊司令長官兼太平洋戦域最高司令官チェスター・ニミッツ提督が進行中であった、マリアナ諸島及びパラオ諸島の攻略作戦であるフォレイジャー作戦が成功すれば、B-29により直接東京を攻撃できるようになるため、フィリピンの占領は遥かに低い軍事的優先順位となるものであった。しかし、開戦初頭のフィリピンの戦いで敗北し、オーストラリアに脱出させられたマッカーサーは名誉挽回のため、フィリピン奪還を主張した。マッカーサーはマスコミも使ってフィリピン奪還の必要性を主張し続け、世論も味方につけたマッカーサーに同意する軍関係者も増えて、アメリカ軍内の意見も真っ二つに割れていた。ルーズベルトはこのような状況に業を煮やして、マッカーサーとニミッツに直接意見を聞いて方針を決めることとし、1944年7月26日に両名をハワイに召喚した。マッカーサーは1944年の大統領選を見据えて、「アメリカ国民の激しい怒りは貴方への反対票となって跳ね返ってくる」と脅迫するなど熱弁を振るって、体調が芳しくなかったルーズベルトを押し切ってフィリピン奪還を承諾させた。 攻略目標は、偵察の結果で日本軍の配備兵力が少ないレイテ島とされた。その作戦準備のために台湾近海に進出してきた第38任務部隊と日本軍の間で激戦が繰り広げられ、1944年10月には沖縄で十・十空襲、台湾沖航空戦が展開した。この頃には、ノルマンディー上陸作戦の成功でヨーロッパの戦局は最終段階に入ったものと見なされて、ルーズベルトやチャーチルといった連合国の指導者たちは太平洋の戦局に重大な関心を持つようになっており、膨大な戦力の準備が必要であったマッカーサーにとっては追い風となった。連合軍の基本方針であった「まずはドイツを叩く」はキングやマッカーサーら太平洋の軍有力者の反論で既に有名無実化されていたが、フィリピン作戦でマッカーサーが政治力を発揮し大量の兵力を確保したことで、逆にヨーロッパ戦線への補充は減らされる一方となっており、このことがのちのドイツ軍の最後の反撃である「バルジの戦い」を招くこととなった。 10月には、アメリカ軍はフィリピンのレイテ島への進攻を開始した(レイテ島の戦い)。日本軍は台湾沖航空戦でアメリカ軍機動部隊に大打撃を与えたという虚報に振り回されており、大本営の横やりで現地の第14方面軍司令官山下奉文大将の反対を押し切り、レイテを決戦場としてアメリカ軍に決戦を挑むこととし、捷一号作戦を発動した。連合艦隊の主力がアメリカ輸送艦隊を撃滅、次いで陸軍はルソン島より順次増援をレイテに派遣し、上陸軍を撃滅しようという作戦だった。連合艦隊はこの大本営の方針に従い、レイテ島に向かって出撃しレイテ沖海戦が発生した。連合艦隊は空母「瑞鶴」を主力とする機動部隊を、米機動部隊をひきつけるための囮として使い、栗田健男中将率いる戦艦「大和」「武蔵」を主力とする戦艦部隊(栗田艦隊)による、レイテ島への上陸部隊を乗せた敵輸送船隊の殲滅を期した。しかし、既に作戦期日に3日の遅れが生じていたため、栗田艦隊はレイテ湾目前で反転し、失敗に終わった。この海戦で日本海軍は空母4隻と武蔵以下主力戦艦3隻、重巡6隻など多数の艦艇を失い事実上壊滅し、組織的な作戦能力はほぼ喪失した。また、この戦いにおいて第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将が神風特別攻撃隊を編成し、指揮官の関行男大尉の指揮によって初の航空機による組織的な特別攻撃が行われ、アメリカ海軍の護衛空母撃沈などの戦果を上げている。 マッカーサーは「I shall return」の宣言通りにレイテ島に上陸し、日本の軍政に苦しめられていた多くのフィリピン国民は熱狂的にマッカーサーの帰還を歓迎した。しかしアメリカ軍の苦境はなおも続き、レイテ沖海戦で連合艦隊は撃退したものの、レイテ島上陸直後のアメリカ軍は飛行場の確保に苦労しており、唯一確保したタクロバン飛行場が雨が降るとまともに使用できないなど、航空戦力を十分に活用できていなかった。第4航空軍司令官の富永恭次中将はその好機を活かして、アメリカ軍飛行場に連日連夜猛攻撃をかけた。アメリカ軍は一晩で100機の作戦機が撃破されたり、100名の搭乗員が戦死するなど大損害を被った。富永はアメリカ軍の上陸拠点への攻撃も命じ、11月の第1週には、揚陸したばかりの2,000トンのガソリンや1,700トンの弾薬を爆砕し、上陸したアメリカ軍の補給線を脅かした。また、マッカーサーのいる司令部にも猛攻を加えて、マッカーサーと幕僚たちは何度も命の危機に曝されるなど、第4航空軍は一時はレイテ島の制空権を確保していた。昭和天皇も第4航空軍の善戦の報告を受けると「第4航空軍がよく奮闘しているが、レイテ島の地上の敵を撃滅しなければ勝ったとはいえない。今一息だから十分第一線を激励せよ」と富永を激励すると共にレイテ島での決戦を指示している。 大本営はレイテ島での決戦のため、海路で援軍を送り込む多号作戦を命令、富永も指揮下の戦闘機部隊に輸送船団を全力で護衛することを命じて、第1師団など多数の部隊と物資のレイテ島逆上陸に成功している。陸海でのアメリカ軍の苦戦でトーマス・C・キンケイド中将は、「戦史上めったに類を見ない大惨事を招きかねません」という理由で、この後に予定されていたルソン島上陸作戦の中止をマッカーサーに求めた。フィリピン全域の奪還が目標であったマッカーサーはキンケイドの勧告を聞き入れることはなかったが、この後もマッカーサーは予想外の日本軍の戦力を相手に苦戦し、後のルソン島上陸作戦のスケジュールの見直しを余儀なくされた。 しかし、レイテ島のアメリカ軍飛行場整備が進むと、数が勝るアメリカ軍に対し、作戦機の補充もままならない第4航空軍は制空権を次第に喪失してゆき、多号作戦の輸送艦もアメリカ軍機の空襲により多大な損害を被って海上輸送は困難となって、レイテ島への増援や補給は滞ってしまった。富永は作戦機による地上部隊への補給物資の空輸や、制空権奪還のための空挺作戦「義号作戦」など積極的な作戦を命じ、アメリカ軍に一時的な混乱を生じさせたが、制空権を取り戻すことはできず、やがて、マッカーサーがレイテ島の攻略を一気に進めるため、多号作戦の揚陸港でもあったオルモックに上陸作戦を命じたことにより、レイテ島の日本軍は完全に孤立し、アメリカ軍の包囲下で飢餓や疫病によって多数の将兵が死亡して組織的抵抗力を失い、日本軍が決戦の地と定めたレイテ島はアメリカ軍の手に落ちた。日本軍の激しい抵抗で計画よりは遅れたものの、マッカーサーはレイテ島を起点としてフィリピン諸島の攻略を進めていった。
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