デジタル補聴器
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 05:59 UTC 版)
1960年代初頭、ベル研究所では通信用の音声圧縮システム開発を効率化するため、音声信号のデジタル化とデジタル信号解析 (DSP) が研究されていた。音声信号の処理には高い計算能力が必要だったが、当時のコンピュータの性能は低く、大型のメインフレーム・コンピュータを用いても信号そのものより長い処理時間を要した。そのため耳に収まるサイズの補聴器にデジタル解析機能を組み込むことはまだ考えられなかった。しかし、この研究は聴覚障碍者のための音声信号処理において重要なステップとなった。 1970年代になるとマイクロプロセッサが作り出され、エレクトロニクスと計算処理が一体化することで新たな形の補聴器への道が開かれた。研究者エドガー・ヴィルチャー(英語版)は多チャンネル振幅圧縮を開発した。これは音声信号(英語版)を周波数帯域(チャンネル)ごとに分離し、それぞれのチャンネルの信号を適宜強めたり弱めたりする方式で、デジタル補聴器のアーキテクチャの基礎となった。 ダニエル・グラウペはもう一人の補聴器開発のパイオニアである。グラウペが開発した6チャンネル補聴器はそれぞれのチャンネルで利得制御を行うことができた。1979年になると、補聴器の電気音響特性をボタンで切り替えることにより、環境に合わせてチャンネルごとの音レベルを調節できるようになった。このようなイコライザ機能はアナログ方式では不可能だったもので、後世のデジタル補聴器の多くに取り入れられている。 1970年代に高速デジタルアレイプロセッサを搭載したミニコンピュータが登場し、デジタル補聴器の発展が促進された。ミニコンピュータには音声信号をリアルタイム処理するのに十分な性能があった。1982年、ニューヨーク市立大学においてフルデジタル補聴器が作られた。デジタルアレイプロセッサとミニコンピュータからなる解析ユニットにはFM送信機と受信機が備えられており、使用者が着用するマイクロフォンやスピーカーと無線で信号をやり取りするようになっていた。この解析ユニットは「持ち運ぶには手押し車が必要だ」と言われるほどかさばるものだった。当時はデジタル機器のサイズや電力消費量がまだ大きかったため、携帯性を無視したこのような大型機種が研究開発用として生産されていた。 1980年代に登場した高速のDSPチップは個人用デジタル補聴器への道を開いた。オーディオトーン社は他社に先駆けて着用式デジタル補聴器を開発していたが、市場に出すには至らなかった。市販モデル第1号「ニコレ・フェニックス」は1987年にニコレ・コーポレーションによって発売された。耳にかけたトランスデューサと携帯可能な外付け処理装置を有線でつなぐ構成だった。2年後には完全耳かけ型(BTE型)モデルが開発された。フェニックスは価格とサイズの面で課題が残っており、ニコレは成功を収められないままマーケットを去った。しかしフェニックスによってデジタル補聴器の可能性が示されたことでメーカー間に開発競争が起こった。 ベル研究所はアナログの2チャンネル圧縮増幅器(英語版)をデジタル制御するハイブリッド方式で補聴器開発に参入した。この方式は研究段階では成功していたが、ベル研の親会社AT&Tは1987年に権利をリサウンド社に売却して補聴器事業から撤退した。このタイプの補聴器はすぐに市場に受け入れられ、増幅器・フィルタ・リミッタのようなアナログ素子を外部デジタル信号で制御するプログラマブル補聴器が広まっていった。アナログ補聴器では音響特性を使用者に合わせて変更するのに細かいつまみの操作を要したが、プログラマブル式では利便性が大いに向上した。またパラメータ設定を保存しておいて場面に合わせて切り替えたり、一対比較(英語版)試験を行えたりといった利点もあった。ほとんどの補聴器メーカーがこの種のモデルを出し始めると、コンピュータと補聴器のインターフェース規格としてHI-PROとNOAHが制定された。 次の大きなマイルストーンとなったのは、音声信号をデジタル化してから信号処理を行うフルデジタル補聴器の実用化だった。リオン社は1991年に日本初のフルデジタル補聴器HD-10を一般向けに発売した。オーティコン社は1995年に初めてデジタル補聴器を開発したが、デジタル音響増幅を研究するオーディオロジー(英語版)の研究グループに提供されるにとどまった。1996年にワイデックスが出したセンソは一般向けのフルデジタル補聴器として最初に成功を収めた。オーティコンもその直後にデジフォーカスを一般に販売し始めた。 当初デジタル補聴器の性能はアナログ方式と大差なかったが、信号処理技術の発展により着実に進歩していった。ノイズサプレッション機能は初期のデジタル補聴器にも実装されていたが、2000年代以降に開発された機種には、音声信号の中から意味のある言葉だけを選択して強調するスピーチエンハンサーや、音源の位置によってノイズを判別する指向性処理のような高度なノイズリダクション機能が追加された。そのほかデジタル方式で一般化した重要な機能には、音量の可聴範囲が狭くなった難聴者のためのノンリニア増幅や、ハウリングを低減するフィードバック制御などがある。デジタル化以前の時代には、補聴器には雑音が増幅されるためかえって聞きづらいというイメージがあり、敬遠する難聴者も多かった。紙が擦れたり食器がぶつかったりする刺激音は特に強調されて聞こえ、周囲にまで漏れる不快なハウリング音も大きな不満の種だった。これらの問題を解決するデジタル補聴器の登場は大きな意味を持っていた。 2000年代には周辺機器とのワイヤレス通信が大きな発展を見せた。リモコン制御のほか、テレビや携帯音楽プレーヤーとの連動や、インターネットや携帯電話とのデータ通信が行えるようになっている。AppleとMicrosoftは2010年代に相次いでスマートフォン用OSに補聴器との連携機能を実装した。リサウンド社が近年発売した Made for iPhone (MFi(英語版)) 対応補聴器は、iOSデバイスから直接電話音声や音楽、ポッドキャストをストリーミングすることができる。スマートフォン自体を補聴器として用いるためのアプリも、遅くとも2009年から各社によって開発が始められている。 2020年代には、マスク越しで減衰した声だけを増幅するモード、状況に応じたモードの自動切り替え、人工知能や機械学習を応用した音声処理技術など以前からある付加機能の高性能化が進んでいる。またスマートフォンのアプリにより音の詳細な設定がその場で可能となった他、専門家がオンラインで対応しながら設定変更を補助するなど、利便性も向上している。
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