ツチとフツの確立と対立とは? わかりやすく解説

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ツチとフツの確立と対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 00:14 UTC 版)

ルワンダ虐殺」の記事における「ツチとフツの確立と対立」の解説

19世紀ヨーロッパ人到来すると、当時人類学により、ルワンダブルンジなどのアフリカ大湖沼周辺地域国々は、フツツチトゥワの「3民族」から主に構成される考えるのが主流となった。この3民族のうち、この地域に最も古くから住んでいたのは、およそ紀元前3000年から2000年頃に住み着いた狩猟民族トゥワであったその後10世紀以前農耕民のフツルワンダ周辺地域住み着き、さらに10世紀から13世紀の間に、北方から牧畜民族のツチがこの地域来て民族支配しルワンダ王国下で国を治めていたと考えられていた。 この学説背景1つに、19世紀後半ヨーロッパにおいて主流であった人種思想ハム仮説英語版)があった。当時人類学1つ考え方では、旧約聖書『創世記』第9章記された、ハムノア裸体覗き見た罪により、ハム息子カナンが「カナンのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たち仕える」 と、モーゼ呪い受けたという記述に基づき全ての民族セム系ハム系、ヤペテ系など旧約聖書人物因んだ人種分けていた。ハム仮説とは、そのうちハム諸民族カナン末裔とみなし、彼らがアフリカおよびアフリカ土着の人種であるネグロイド文明もたらしたとする考え方である。ルワンダにおいて、ネグロイドバントゥー系民族特徴的な中程度背丈ずんぐりした体系を持つ」農耕民族フツを、コーカソイドハム諸民族特徴的な痩せ型鼻の高く長身な」牧畜民族のツチ支配する状況は、このハム仮説適合するものとされた。また、民族の"識別"には皮膚の色も一般的な身体的特徴として利用され肌の色比較的薄い者が典型的なツチであり、肌の色比較的濃い者が典型的なフツである」とされた。19世紀後半にこの地を訪れたジョン・ハニング・スピークは、1864年刊行したナイル川源流探検記』においてハム仮説提唱した。しかし近年では、この民族はもともと同一のものが、次第牧畜民農耕民へ分化したではないか考えられている。その理由として、フツとツチ宗教、言語文化差異がないこと、互い民族間で婚姻なされていること、19世紀まで両民族間の区分甚だ曖昧なのだったこと、ツチフツの後に移住してきたという言語学的考古学的証拠がないことが挙げられる19世紀末ヨーロッパ諸国によりアフリカ分割され、この地域1899年ドイツ帝国ルアンダ・ウルンディとなるとドイツハム仮説従いツチによるルワンダ王国統治システム用いて間接統治行い周辺地域国々平定して中央集権化した。その後第一次世界大戦ドイツ敗れたことで、1919年アフリカ各地ドイツ領は国際連盟委任統治領として新たな宗主国割り振られルアンダ・ウルンディベルギー支配地域となったベルギーはこの国の統治機構植民地経営主義的観点から積極的に変更し王権形骸化させ、伝統的な行政機構廃止してほぼ全ての首長ツチ独占させたほか、税や労役面で間接的にツチへの優遇行ったまた、教育面でもツチへの優遇行い公立学校入学許されるのはほぼ完全にツチ限られていたほか、カトリック教会運営する学校でもツチ優遇され行政管理技術フランス語教育ツチに対してのみ行われた。さらに1930年代にはIDカード制を導入しツチフツ民族を完全に隔てられたものとして固定し民族区分による統治システム完成させることで、後のルワンダ虐殺要因となる2つ民族確立した。このIDカードルワンダ虐殺の際に出身民族チェックする指標1つとなった第二次世界大戦後アフリカ独立機運高まってくると、ルアンダ・ウルンディでも盛んに独立運動が行われた。宗主国であったベルギー国際的な流れ受けて多数派フツ支持するようになり、ベルギー統治時代初期にはハム仮説を最も強固に支持していたカトリック教会また、公式にフツ支持表明したベルギー方針変化には、急進的な独立求めツチ対すベルギー人反発や、ベルギー多数派であるフランデレン人がかつて少数派ワロン人支配されていた歴史的経緯由来するフツへの同情多数派であるフツへの支持によってルワンダ安定化する考えがあったとされる。これらの後押しもあり、後にルワンダ大統領となるグレゴワール・カイバンダジュベナール・ハビャリマナらを含む9人のフツが、ツチによる政治独占的状態を批判したバフツ宣言英語版)を1957年発表しその2年後の1959年には、バフツ宣言行ったメンバー中心となりパルメフツ結成された。 そんな中1959年11月1日万聖節の日にパルメフツ指導者1人であったドミニク・ンボニュムトゥワツチ若者襲撃された。その後、ンボニュムトゥワが殺害されたとの誤報流れ、これに激怒したフツツチ指導者殺害しツチの家に対す放火全国的に行われた。そしてツチ側も報復としてフツ指導者殺害するという形で国内動乱広がった。なお、この1959年万聖節事件が、民族対立基づいてフツとツチの間で行われた初の暴力であり、この事件端を発した犯罪への「免責」の文化が、ジェノサイド原動力であるという説もある。当時ベルギー弁務官であったロジスト大佐フツのために行動することを表明しフツ利するために行動した。さらに、1960年には普通選挙開催しフツ政治的影響力拡大させた。なお、選挙投票所にはフツが陣取っており、ツチ有権者対す脅迫が行われていたことが知られている。 1961年にはルワンダ国王であったキゲリ5世退位王制の廃止決定され同年10月グレゴワール・カイバンダ共和国大統領となった。このフツ系のカイバンダ政権は、近隣諸国逃れたツチによるゲリラ攻撃悩まされ背景もあり、フツ-ツチ間の対立政治利用し、暴力的迫害政治的な弾圧行った。なお、1959年から1967年までの期間で2万人のツチ殺害され20万人ツチ難民化を余儀なくされたことが知られている。1973年無血クーデターによりカイバンダ政権倒されジュベナール・ハビャリマナ新たな政権発足した。ハビャリマナ政権は前政権党パルメフツ活動禁止し自身政党にあたる開発国民革命運動による政治運営行った。さらに、1978年には開発国民革命運動一党制憲法確立した。軍や政権中枢における権力基盤としてハビャリマナ大統領夫妻血縁関係者や同郷出身者からなる非公式な組織アカズ構築された。ハビャリマナ政権下ではツチ対す迫害行為状況幾分改善したものの、周辺国逃れた難民問題や、クウォーター制によるツチ社会進出制限の問題残った1980年代には、ルワンダ国外で難民として暮らすツチ60万人達していた。 隣国ブルンジまた、ルアンダ・ウルンディとしてルワンダまとめて扱われていたため、同様のフツとツチ間の問題生じることとなった1962年独立以降ブルンジ虐殺英語版)と呼ばれる2つ虐殺事件1972年1993年発生した1972年ツチ兵士によるフツ大量虐殺事件と、1993年フツによるツチ虐殺事件である。

※この「ツチとフツの確立と対立」の解説は、「ルワンダ虐殺」の解説の一部です。
「ツチとフツの確立と対立」を含む「ルワンダ虐殺」の記事については、「ルワンダ虐殺」の概要を参照ください。

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