ツチの粛清
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/13 17:42 UTC 版)
「グレゴワール・カイバンダ」の記事における「ツチの粛清」の解説
1959年に発生した万聖節の騒乱や「1959年の社会革命」によって、多くのツチがルワンダから周辺国に難民となって流出した。以後も、断続的に発生したツチに対する虐殺事件によりツチの難民の流出は止まらなかった。これらのツチ難民の中に、武力によってルワンダへの帰還を強行しようと考えたグループが芽生えた。この強硬派グループがイニェンジである。イニェンジは、遅くとも1960年末から小規模なテロ活動をルワンダ国内で始めるようになった。 イニェンジが起こした武力攻撃の中で最大規模だったのが、1963年11月14日と12月21日にブルンジの難民キャンプから越境して仕掛けたブゲセラ侵攻である。これによりカイバンダは一時、政権崩壊の瀬戸際まで追い詰められ、ベルギー軍の助けを借りて辛くもイニェンジを撃退した。 この攻撃の後、カイバンダは急速に暴力的なツチ抑圧の政策をとるようなった。カイバンダはルワンダ国内のツチの政党、UNARとルワンダ民主連合(Rasseblement Démocratique Rwandais、RADER)をつぶし、ツチの政治指導者を殺害し始めた。同時にフツの反体制派も粛清した。逮捕されたものの大半は殺害され、釈放された者の数は少ない。RADERの元党首プロスパー・ブワナクウェリ(Prosper Bwanakweri)ら、まだルワンダ国内に残って活動していたツチの政治家たちは全員処刑された。 政治家ばかりではなく、ツチの市民も被害を蒙った。カイバンダは大臣を集め、地方レベルで自警委員会を設置するように求めた。その後大臣達は、知事、副知事、市長に会い、委員会を設置するように求め、地方レベルでの自警委員会が作られた。全国で検問が作られ、見張りが常駐するようになり、政府の役人は国民に対してラジオ放送で「ツチのテロリスト達」に対して防衛するよう求める談話を放送した。 ブゲセラ侵攻時に、イニェンジとは無関係のツチで殺害された者の死者数に関しては大きな幅があり、確定的な数字はない。1990年のルワンダ内戦以前は、七百五十人から五千人と推定されていた(750人はルワンダ政府の推計値)。一方、1994年のルワンダ大虐殺後になると推計値が大きく増大し、一万人から二万人に膨れ上がった。最も被害の大きかったギコンゴロ県だけで、五千人から八千人(この地区のツチの人口の約10から20%)、一万人という推計もある。これらの虐殺事件は、キガリの中央政府の指示のもとで行われたものというよりも、農村部で発生した暴動事件の性格が強かったようである。政府軍が存在せず、したがって中央政府の統制が弱い地域で虐殺事件が発生しており、民兵が農村部でフツを扇動してツチの殺害を主導したことが、当時の国連事務総長特別代表の報告書の中に書かれている。
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